――#8 氷の少年

 匠が戻ってから次にやってきたのは予測もしなかった轟音。耳に響き部屋を震わせるその大きさに、椎葉は大きな猛獣でも突進してきたのではないかと思ってしまった。
 しかし煙も晴れぬ間に姿を現したのは飾り気も何もない白い服。驚いたのは服装よりもその容姿だ。彼は椎葉よりもレイよりも少し背の高い、しかし匠までは及ばない一人の少年だった。
(今の、この子が?)
 腕は枯れ木みたいに細く、それでも貧弱に見えないのは無駄なくついている筋肉のせいか。肌は雪を思わせるほど白い。
 何というか。
(綺麗)
 男の子にこの表現を使うのは相手に嫌がられそうであるが、椎葉はあえてそんな感想を抱いた。他の、といわれてもそれ以外に思いつかない。
 触れれば容易く壊れてしまう薄氷のよう。
 開いた彼の口からは感情のこもらない言葉が流れ出てきた。
「タク、そいつらは誰だ」
(やっぱり綺麗。澄んだ水みたい)
 ここにつれてこられる前、椎葉は手を入れたあの時の温度を思い出す。
 彼の声は冷たいけれど心地良い。いつまでも聞いていたくなった。
「お前が知る必要はねえ。アキちゃん探すなら下行きな、ここにはいないっていったろ」
「聞いた。けどこちらが先だ。後ろにいるそいつ、俺と同じ匂いがする」
 その必要はないと思いながらも椎葉は指差された先を追う。
「え、俺?」
「おまえ、何者だ」
「何者っていわれても……」
 椎葉はいい澱むレイの前へと出、レイを睨み付ける彼の双眸を真正面から受け止めた。
「レイはレイよ。何者でもないわ。少なくとも、初対面のあなたに失礼なことを言われる謂われなんてないもの。そもそも、あなたこそ何者なのよ。名前くらい名乗ったらどう? それとも礼儀も知らないの?」
「し、しぃ、それは言い過ぎじゃあ……」
 一気にいってやると、慌てたレイが後ろから肩を突っついた。
「言い過ぎなんかじゃないわ。私は当たり前のことを言ったまで。大体部屋の扉を壊して入ってくるなんて、非常識にもほどがあるわよ。そう思わない? 棚だって壊れちゃったし、直さないと」
「――っはっはっは! おいおい天然か? おっもしれーなー、椎葉は! まー、ほどほどにしてくれるとこっちも助かる。無闇に喧嘩売るなよ、あっちは挑発されてると思ってるぞ」
 大笑いがしたと思えば、浮かんだ涙を指で拭う匠がそこにいた。
「ちょっと。それ酷いわ、匠」
「悪い。あまりにも可愛くてな。おまえら良く似てるよ。姉弟みてえ」
「『きょうだい』って……しぃと俺? そんなに似てる?」
「ああ」
 客観的に眺めたらこの部屋の惨状は凄まじいことになっているであろうにも関わらず、匠を中心に和やかな雰囲気が生まれた。そこへ、空気を凍結させるような、絶対零度に近い一言が投げ掛けられる。
「変な女。うるさいし」
 和やかさに椎葉が頬を緩めるとほぼ同時、ぼそりと呟かれたのが聞こえた。
 椎葉は彼をき、と睨み付ける。
「しぃ、危な――!」
 レイの焦りが聞こえたが、構わず彼の元につかつかと歩み寄る。
「何だよ」
 怪訝に問う彼を見上げ、椎葉は両手を伸ばした。

  **

 匠さんが作り出した空気に浸ってしまったおかげで、気づくのが一瞬遅れてしまった。
 恐れもせず近づいていくしぃは、何をしようとしているのだろう。
 レイヤが咄嗟に上げた制止の声はしかし中途半端に切れていた。
「い゛っ!」
「どの口がそんなこと言うの? 人のこと変って言ってるけど、あなただって十分変なのよ。そのことわかってる?」
 理由は、開いた口が塞がらなくなったから。繰り広げられている光景に、レイヤは呆気にとられてしまった。
 しぃは、手を伸ばしたかと思えば彼の頬をつねり上げたのだ。あれは地味に痛い。
 それよりも彼がちゃんと人語を発せているのが凄い。なんとかして人の言葉にしたのだろう。レイヤは一種の感動を覚えた。
「てっめ、放せ! この、暴力女!」
 しぃに頬を掴まれ、哀れにも標的となった彼は必死になってもがいている。両手でしぃを引き剥がそうとしているのだが、どこにどんな力を入れているのかしぃの指はびくともしていない。
 木登りで鍛えられているだけはある。
「い、や。謝ったら放してあげてもいいけど」
「誰がっ」
 彼の頬をあっちこっちに引っ張っているのは、もしかしたら攻撃を避けるためなのだろう。しかし……痛そうだ。
「ついでにその尊大な態度も直したらどう? なによ、無理して大人ぶった喋り方して。まだ子どものくせに」
「んなの、てめえだって同じだろ。いいからとっとと放せ!」
「だから謝ったらって言ってるじゃない。人の話、ちゃんと聞きなさいよね」
 見ているだけで彼が哀れに思えてきた。
「あーあー。口調バレてるぞ、氷優」
「黙れタク、この女どうにかしろ」
「自分で何とかしたらどうだ?」
「できないから頼んでる!」
 匠さんの苦笑にも反応するとは、随分と地獄耳だ。
「しぃ、そろそろ止めてあげたら? 痛がってるから、ね?」
 もういい頃だろう。見かねたレイヤは助け船を出してやった。
「わかったわ、よ」
 最後の『よ』でしぃは彼の頬を思いきり横に引き延ばして放した。
「い゛って! 少しは手加減しろよ馬鹿力女」
 赤くなった頬が目立つ。両手で押さえながら抗議してくる彼が、睨み付けてはいるが若干涙目なのは気のせいではないだろう。
「まだ言う気? もう一回引っ張ってあげようか?」
「丁重に遠慮する。おまえあっち行ってろよ! もう、俺に近寄るな!」
「あなたに言われなくてもね。頼まれたって近づかないわ!」
 売り言葉に買い言葉。本当に初対面かと疑いたくなるくらい、互いの嫌いようが凄まじい。
 会えば喧嘩が絶えない仲とは、まさにこれを言うのだろう。
(でも、顔を合わせる度っていうのは嫌だな……)
 考えるだけでレイヤの神経が持たなくなりそうだ。
「で、氷優。今回は何やらかした? アキちゃんも暇じゃないんだからあまり呼び出してくれるなよ」
 匠さんが近づけば苦々しく舌打ちをし、あからさまに顔を背けた。
「氷優」
 ごまかしは許さない。鋭い一言には逃がさない響きが含まれていた。
「あいつらが、勝手に変なものをつけようとしてきたから逃げてきたんだよ」
「変なもの?」
「俺にも良くわからない。他の奴らにも使おうとしてて、何か嫌な感じがした」
 そうして彼、氷優は自身の腕を抱え込んだ。
「先に手を出してきたのはあっちだ。だからあいつらを動けなくした。……正当防衛だろう? タク」
「正当か?」
「これが正当でないなら他の何を言う。自分の都合だけで俺たちを縛り付けようとしたんだから、抵抗して当然だろう」
 言い分としては間違っていない。それどころか氷優の意見が正しいと思える。
「縛り付けるって、何をされたの?」
 レイヤが問うと、氷優はしかめ面で吐き捨てた。
「名誉のために言っておくが俺は未遂だ。……何人かは助けられなかったけどな。あいつらは、俺らを閉じ込めようとしたんだよ。ここの地下に、永久にさ」
「助ける……?」
 言葉が浮かぶ。
 ――タスケテ
 幻聴ではない。水の波紋に残る微かな余韻のように、それはレイヤの心を震わせた。

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