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箱庭の世界―Closed Garden― #11

 ――#11 二人だけの秘密

 わくわくした気持ちが抑えられない。匠が悪戯めいているせいか、これから聞ける話が二人でこっそり交わす秘密事に思えて仕方ないのだ。
 秘密といえば、不意に思い出したことがある。
 今より椎葉が幼かった頃、よくレイと二人だけの秘密をたくさん作ったのだ。それをおじさんの前で、「二人だけの秘密」と称して内緒にするのが好きだった。
「『箱庭』って私とレイがいたあそこの名前でしょ? ねえ、どうして『箱庭』って呼んでるの?」
 椎葉は一番聞きたかったことを訊いてみる。
 おじさんに尋ねたあとも、本当はずっと気になっていたのだ。おじさんはただの名前だと言っていた。けれどあれは、はぐらかされたようにしか思えない。それに、名付けるにしてはやけに突き放されたような感覚を覚えたから。
「あー、それなあ……」
 困った顔で頭をかく匠を、椎葉はじっと見つめて待つ。
「俺達の間で伝わってる物語なんだよ。――んにゃ、ちいとばかし違うな。おとぎ話って言った方がわかりやすいか」
「箱庭が、おとぎ話?」
 物語でおとぎ話。
 それを聞いた椎葉の頭に、一冊の本が浮かぶ。
「おとぎ話って、絵本にある童話よね?」
「まあそうだな。要は作り話ってこと」
 レイと二人、おじさんに読み聞かせてもらった一冊の絵本。確か、話の内容はこんな感じだった。
 森の中に妖精が住んでいた。その妖精は周りの妖精を困らせるのが大好きな、いたずら好きの子だった。ある時森に迷いこんだ人間の子どもと出会い、お互いに興味を持った二人はやがて友達になっていく。
 ところがその子の父親は妖精を捕まえる仕事をしており、最近減ってしまった妖精はその子の父親のせいではないかと、仲間の妖精達から疑われるようになる。
 子どもを信じて真偽を確かめに、妖精は森の外にいく。そこで出くわした人間に捕らえられそうになった妖精だったが、すんでのところで誰かに助けられる。
 妖精を救ってくれたのは、森で出会ったあの子どもだった。
(それからどうなったんだっけ)
 その後から結末までどうしても思い出せない。一番好きな本だったはずなのに。
「――椎葉。お前らは知ってるのか?」
 覚悟を決めたように口を開く匠に、椎葉も自然と背筋が伸びるのがわかる。
「何を?」
「あの場所には、精霊がいるって話」
 息を止めた椎葉の鼓動が、大きく一つ波打った。

  **

 いつの頃かは忘れてしまった。けれど、今よりずっとずっと前だったことは覚えている。
 彼女が大切そうに抱えていた一冊の本。気がついたらいつも読んでいたから、自分もよく覚えている。
 ――しぃ、その本好きだよね。どうして?
 理由なんてなかった。ただ疑問が口を吐いて出てきた。
 ――だってこれ、似てない? ほら、この子。レイにそっくり!
 指で差された先、そこには開かれた本の一ページがあった。
 ――そうかな?
 ――そうよ、絶対そう! 危なかっしくて放っておけないところとか、レイにそっくり!
 その一言を聞いて脱力したものだった。
 ――……俺、そんなに頼りなく見える?
 くすくす笑いながら走っていくしぃは、笑うだけで何も答えてくれない。
 それに、危なっかしくて周りがはらはらして放っておけないのは、どちらかというと――
「あら、起きた?」
 開いた目の先で、覗き込まれるように声をかけられる。
「――? 俺……?」
 上体を起こして見渡し、ようやく自分が床の上に寝ていたことを知った。
「軽い脳震盪を起こして倒れたのよ。大事ないようで良かったわ」
 それだけを告げ、レイヤの前にしゃがんでいた女性は機敏な動作で立ち上がる。隙など一切見せない立ち居振舞いに、質問を挟む間もなかった。
 ここはどこなのだろう。
 彼女の背中からは、何を訊かれることも望んでいない、そんな雰囲気が漂っている。
 ひと結びに纏められた髪。着こなされた仕事着の後ろ姿が、これほどまで近寄りがたくなるとは思わなかった。
 詰まりそうになる息を無理矢理吐き出し、床に視線を落とす。そうしていれば、気を失う前のことを思い出せそうな気がした。
 現に、彼女を視界から外しただけで呼吸が楽になっている。変な緊張感も多少緩和され、背中が痛みを訴えた。これは固いところに寝ていたせいか。
 うるさいくらい聞こえていた声がいつの間にか消えている。あんなに悩まされていた不快感がなくなり、拍子抜けした。それでも気になっていることには変わりがない。
 そういえば、氷優はどうしたのだろうか。レイヤと一緒にいたはずなのに、近くに彼の姿は見当たらない。
「あの……」
 恐る恐る口を開いて、椅子に腰かけている彼女へ尋ねてみる。
「何かしら」
 突き放したような返事に、一瞬だけ挫けそうになった。
「氷優は、どこですか?」
「あの子なら暁のところにいるわ。そろそろ血相変えて来るんじゃないかしら」
 今更ながらに思う。暁さんを呼び捨てにするこの人は、いったい何者なのだろうかと。
「あなたは――」
「レイヤ!」
 レイヤが尋ねようとしたそのとき、駆け込んできた誰かに遮られてしまった。


  →#12へ。

箱庭の世界―Closed Garden― #10

 ――#10 突かれた不意

 レイと氷優が出ていったことで室内はまた、ほんの少しばかり静かになる。なかなか戻ってこない匠を不思議に思い、椎葉が首を伸ばしたところでちょうど匠が戻ってきた。手に持っている二つのマグカップは、外に行ったときはなかったものだ。
「椎葉、ほれ。熱いから気を付けてな」
「ありがとう」
 椎葉は差し出されたマグカップの一つを受け取り、まだ湯気の立つそれを両手で包み込む。
 ――温かい。
 けれどすぐに口をつけることは躊躇われた。匠が言ったように中身はきっとまだ熱いだろう。下手に飲んだら火傷をしかねない。
 本音を言えばすぐにでも飲みたいけれど、今はまだ我慢だ。
「ねえ、匠」
「んあ?」
 自分の分を卓上に置いて椎葉の真向かいに座ろうとする匠を見上げ、椎葉はおずおずと尋ねてみた。
「扉のところ、あれ、壊したままで良いの?」
 ちなみに壊したのは、先程嵐のように現れて去っていく羽目になった氷優だ。
 当然これから直すものだと思っていたのだが、匠が動く気配は全くない。それどころか非常にゆったりと寛いでいる。
「いーのいーの、あれは暫く経てば直るんだわ。ま、大方やるのは氷優だけどな」
「暫く経てばって、自動的に直るんじゃないでしょ? それに氷優はさっきレイと行っちゃったし、すぐには戻って来なさそうよ」
 それを見送ったのは匠だ。特に反対もせず行かせていたような覚えがある。
「自分で壊したものは自分で直す、それがここの規則なんだよ。壊したのは氷優であってオレじゃないからな、手出しはしない」
「うーん……」
 正論ではあるが受け入れ難い。
 匠はカップを手に取り、優雅と言える所作で口へと運ぶ。動作が落ち着き払って見えるのは見知った場所だからだろうか、それとも元からの性格故か。
「でも、おじさんが帰ってきた時壊れてたら困るでしょ? 原因を作ったのが別の人で完全には直せなくても、やっぱり少しは直しておいた方が良いと思うの。あのままじゃ廊下を通った人が困るわ」
 このままでは晒し者同然だ。道行く人は少なくかつ入口は棚で隠れていても、やはり外観としてまずいのではないだろうか。
「それとも、匠は直したくない理由でもあるの?」
 聞いちゃまずいのではないかと思いつつも、考えたら口にしてしまっていた。途端匠に手を振られ、否定された。
「ないないない、あるわけねーって! そうじゃなくてだな、修理するより大事な用事があるからそっちを優先したいんだよオレは」
「大事な用事って?」
 椎葉がきょとんと首を傾げると、匠は椅子の肘掛けに頬杖を突いて口元を綻ばせる。
「まー、強いて言うならお客様のおもてなし? 珍しいお客様となれば尚更な。退屈なんてさせちゃ、オレが後でアキちゃんにどやされる。それだけは勘弁願いたいんでね」
 匠の言うお客様とは椎葉と、今はここにいないレイのことだ。あまりにも自信ありげに言う前半と顔をしかめた後半の違いの大きさに、椎葉は軽く吹き出してしまった。
「匠はおじさんに逆らえないのね?」
 卓のカップに手を伸ばしかけていた匠がぴしりと固まる。椎葉に向けた笑みは頬が引きつっていた。
「……なんでそういう結論にたどり着くかねー。まー、間違ってはいないからなー……ったく、反論し難いじゃねーかよ」
 今度はあらぬ方向に目をやっている。憮然として飲み物を口にする匠の姿は、拗ねている以外の何物でもないと思う。
「本当のことほど誰かに言われると身に染みるものなんだから。おじさんが苦手じゃないみたいで良かった」
 知り合い同士がいがみ合うのは見たくない。どうせならみんな仲良くしてほしい。
 おじさんと匠との会話のやり取りはまるで親子のようだったから、確認するまでもないと思ったけれど。
「――あの子はどうなのかな」
 呟きながら浮かぶのはレイと一緒に出ていった少年だ。彼はおじさんを探していた。苛立たしげにおじさんの名前を口にして、今にも舌打ちしそうだったあの態度。
「氷優はアキちゃんが嫌いなんじゃねーよ。ただ虫の居所が悪くてあんな苛立ってただけだ。気にしてるなら謝る、ああいう奴なんだ」
「ううん。私の方も酷いことしちゃってご――」
「ストップ。そこから先は言う相手が違うだろ? 氷優が戻ってきたら言ってやれ」
 やんわりと押し止められ、顔が赤くなるのがわかった。それもそうだ。今ここで匠に言っても仕方ない。
「そうよね。二人とも帰ってきたら言ってみるわ」
 匠はじっと見つめてきたと思えば何食わぬ顔で言ってきた。
「時間なら暫くある。心の準備しておけよ」
「準備って、どうして?」
 思わず匠の顔を凝視してしまう。
「おまえ、あいつ苦手だろ」
 言葉に詰まった。
 椎葉にはそんなつもりはなかったのに。ただ話しにくいなと思っただけだ。
 氷優はこれまで会ったどんな人とも違う。正面に立って、彼から向けられた敵意にも似た感情に、椎葉が戸惑ったのは事実だ。
「――ま、その話はここまでにして。二人が戻ってくるまで、暇潰しに別の話でもしてやろうか?」
 飲み干したカップを卓に置き、匠は組んだ足に両手を乗せた。
「どんな話?」
 黙ったままなのは卑怯だとわかっていたが、彼に関する話題が終わったことにほっとする自分がいるのにも気付く。椎葉自身あまりぴんと来ないが、匠の指摘は正しいのだろう。
 匠は勿体ぶった様子で一拍置いた。
「椎葉が知らない、ここで上がる箱庭の話だ」
 気にかかっていた扉のことなどそっちのけで、椎葉は耳を傾ける。
「聞かせて」
 状況の把握はしておきたかった。

  **

 強張る背中の向こう、レイヤは現れた誰かが溜め息を吐くのを見た。
「やっと見つけたわ。ただでさえ忙しいのよ、これ以上手間を掛けさせないで頂戴」
 男性よりも高い声なのにその響きの冷淡さから、これが女性の出す声なのかと疑いたくなる。初めて聞くレイヤが言葉を発せなくなるくらい竦み上がるには、十分過ぎるほどだった。
「おまえが許可もせず俺達に変な装置をつけようとするからだ。俺のせいじゃない」
 辛うじて返せているが、氷優の受け答えは硬い。それでも見返せている氷優が単純に凄いと思えた。
「詭弁ね。検査に必要だと言ったでしょう? 論じる暇も惜しいわ。――それで、そちらの君は誰かしら?」
 突然向けられた視線に、レイヤの身体は素直に固まった。
 射抜かれる。見透かされそうだ。逆光で見えない筈の瞳が、じっとレイヤを見下ろしている。
「アキの知り合いだ」
「そう、暁の」
 氷優が代わりに答えた後でも尚、得体の知れない視線が絡み付いていた。身震いした身体を両手で掴む。
 振り払えない。――怖い。
「鬼ごっこはここまでよ、氷優。丁度良いわ。貴方もいらっしゃい」
 促されているのに命令されている錯覚を覚える。初めから否とは言わせない口調だ。
 カツン、彼女が踵を返す。
 その響きにレイヤはほっと息を吐いた。――それを後悔することになるのは一瞬後。
 ――!
 気の抜けたレイヤの耳を、声にもならぬ悲鳴がつんざいた。
「――っ!!」
 慌てて耳を覆ってももう遅い。初めの一声どころか、わんわん鳴り響く余韻でさえレイヤの鼓膜を突き破ろうと襲いかかってくる。
 頭が痛い。音という音、全てが最早敵だった。
 聞きたくない。止めてほしい。もう嫌だ。
 懇願するも願いは虚しく、鈍器で殴られたような痛みだけが激しさを増す。
 意識が飛ぶほんの少し前。両手を突き、必死な形相でレイヤを覗き込む氷優が映った。
「だ、じょ――」
 大丈夫。
 ちゃんと笑えたかわからなかった。


  →#11へ。


箱庭の世界―Closed Garden― #9

 ――#9 声を追って

 氷優の説明を聞いてから、レイはまた黙り込んでしまった。ここにはいない誰かに思いを馳せるような、そんな感じだ。
(まだ聞こえてるのね)
 いつも以上に酷い。それに時間が長い。これだけ呼び掛けられると言うことは、相手方も必死なのだろう。
 誰かに聞いてほしい。誰かに届けたい。椎葉には聞こえないけれど、レイの反応を見ている限りひたすらな想いが見え隠れしているようだ。
 椎葉の脳裏に一つの可能性が浮かぶ。レイに話しかけるその声の主は、ひょっとしたら地下にいるのではないだろうかと。
(下手に動き回れないなら、今行ける場所を確かめる手もあるわ)
「ねえ、そこには行けないの?」
 思い立ったら即行動。ここで動かずにいる、その時間が惜しい。おじさんにはこの部屋から出るなと言われてしまったけど、レイの弱り具合が気になるのだ。
 ここに着いた時よりも疲労がはっきりとしている。レイは大丈夫だろうか。
「それは逃げてきたところにまたのうのうと舞い戻るってことか。どんな間抜けだ」
 氷優に苛立ちをぶつけられ、椎葉はむっとする。態度を素っ気なくさせたのは椎葉のせいだが、それにしたってもう少し言い方があるだろう。
「違うわ。その地下は、ここから簡単に行けるのって話」
 しかしここで腹を立てていては話が進まない。椎葉の目的は一つだけなのだから。
「警備が少なければ」
「行くだけなら難しくはないぜ。階段下るかエレベーターで下まで降りりゃあいい。ただ今は……どうだろうな。氷優が騒いだおかげで行きにくくなったかもしれないけどな」
 氷優の後を引き継いで匠が教えてくれた。
「タク、止めろ」
 匠に何度も背中を叩かれ、氷優は迷惑そうだ。
「じゃあ、行けないことはないんでしょ?」
 結論。
 椎葉はレイにちらりと視線を送る。その意図に気づいたのか、レイははっとした。
「匠さん! 俺、そこに行ってみたいんだ。駄目かな……」
 弱気になるのがいかにもレイらしい。おじさんとの約束を破ってしまったことが堪えているようだ。
「つってもなあ……。アキちゃんから出るなって言われただろ? だったら無断で行かせるわけにはいかねえんだよ」
 こればかりはどうしようもないと、お手上げされる。けれど、レイがここで退くわけない。
「どうしても行きたいんだ。匠さん、お願いします」
「悪い、それは……」
 引き下がらないレイを援護しようと椎葉は口を挟もうとしたが、それよりも早く声が上がった。
「俺がつれていく。それで文句ないだろ?」
 目を見開くレイ。意外にも名乗り上げたのは氷優だった。
「ちょうど良い、あっちでアキに会うなら俺の用事も済む。――案内するよ」
 最後の一言はレイに向けてだ。それを聞いていた匠はがしがしと頭をかき、上を向いてあー、と唸った。
「……わかったよ。何の理由があるかは聞かねえが、アキちゃんに怒鳴られる覚悟があるなら行ってこい」
 仕方ねえなあとぼやく。
「匠……」
「匠さん、ありがとう」
「椎葉はオレと留守番な? ほら、礼はいいからとっとと行ってこい」
 一人でも行けるなら椎葉に異存はない。匠がレイと氷優を出口に向けて追いやり、三人の姿が椎葉の視界から一旦消える。
(レイ、頑張って)
 匠が彼らを見送って戻ってくるまで、椎葉は心の中で応援し続けた。

  **

 閉まる扉を背にし、レイヤは氷優と二人廊下に出る。周りに人は見当たらないのがまず一つの救いか。
 見渡す限りの人工物に目が疲れてきている。森の生活に慣れているレイヤにとって、この空間は居心地が悪い。しんと静まり返り、何の音も聞こえないことが不安を煽っているのだ。
 木の葉擦れも水の流れも聞こえない。風の一つもなく気味が悪い。
 息苦しさを追い払おうと、レイヤは深く息を吸って吐いた。
「辛いのか?」
 氷優に目ざとく見つけられる。真っ直ぐに見られ、ほんの少し返答に窮した。
「ううん、この場所に慣れてないだけだから。もう少しすれば大丈夫だと思う」
 だから心配ないよと言えば、顔をしかめられてしまった。そんなに頼りなく見えたのだろうか。
「こんなところ、慣れても良いことなんかない。慣れない方がいい」
 どうやら氷優の疑問はレイヤの思っていたことと違っていたらしい。
 ふいと顔を背けられる。その横顔が痛みを堪えているように見えた。
(何か、あったのかな)
「ついてこいよ。こっち」
 氷優は自分のペースでさっさと歩き出してしまう。
「待って、氷優!」
 角を曲がろうとした彼の腕を引いて小声で静かにと制止した。
「何か、声がしない?」
「声?」
 レイヤはうんと頷き二人で黙り込む。
 頭に響いていた声ではない。ちゃんと耳に聞こえてきた声だ。
 耳を済ます。もう一度聞きたい。それは酷く微かな、誰かの――
「――まずい。レイ、こっちに!」
 その声を聞き取るよりも先に氷優に引かれる。集中力が途切れてしまった。
「え。な、なに?」
 近くにあった扉を開けた氷優に半ば押し込められるように入れられ、レイヤは体勢を崩し尻餅を突いた。
「いたた……いきなり――」
 どうしたのと訊こうとして口をつぐむ。扉に耳を当てる氷優が焦っているように見えた。
(違う。何か、怖がってる?)
 自身を抱える氷優の腕が小刻みに震えている。
「悪い、こんな袋小路の場所に逃げなきゃよかった……」
 ちくしょうと吐き、氷優は扉から離れる。
「氷優?」
「あいつが……来る」
 弱々しく呟いたその一言の後、振り返る氷優と共に目にした扉が静かに開かれた。


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箱庭の世界―Closed Garden― #8

 ――#8 氷の少年

 匠が戻ってから次にやってきたのは予測もしなかった轟音。耳に響き部屋を震わせるその大きさに、椎葉は大きな猛獣でも突進してきたのではないかと思ってしまった。
 しかし煙も晴れぬ間に姿を現したのは飾り気も何もない白い服。驚いたのは服装よりもその容姿だ。彼は椎葉よりもレイよりも少し背の高い、しかし匠までは及ばない一人の少年だった。
(今の、この子が?)
 腕は枯れ木みたいに細く、それでも貧弱に見えないのは無駄なくついている筋肉のせいか。肌は雪を思わせるほど白い。
 何というか。
(綺麗)
 男の子にこの表現を使うのは相手に嫌がられそうであるが、椎葉はあえてそんな感想を抱いた。他の、といわれてもそれ以外に思いつかない。
 触れれば容易く壊れてしまう薄氷のよう。
 開いた彼の口からは感情のこもらない言葉が流れ出てきた。
「タク、そいつらは誰だ」
(やっぱり綺麗。澄んだ水みたい)
 ここにつれてこられる前、椎葉は手を入れたあの時の温度を思い出す。
 彼の声は冷たいけれど心地良い。いつまでも聞いていたくなった。
「お前が知る必要はねえ。アキちゃん探すなら下行きな、ここにはいないっていったろ」
「聞いた。けどこちらが先だ。後ろにいるそいつ、俺と同じ匂いがする」
 その必要はないと思いながらも椎葉は指差された先を追う。
「え、俺?」
「おまえ、何者だ」
「何者っていわれても……」
 椎葉はいい澱むレイの前へと出、レイを睨み付ける彼の双眸を真正面から受け止めた。
「レイはレイよ。何者でもないわ。少なくとも、初対面のあなたに失礼なことを言われる謂われなんてないもの。そもそも、あなたこそ何者なのよ。名前くらい名乗ったらどう? それとも礼儀も知らないの?」
「し、しぃ、それは言い過ぎじゃあ……」
 一気にいってやると、慌てたレイが後ろから肩を突っついた。
「言い過ぎなんかじゃないわ。私は当たり前のことを言ったまで。大体部屋の扉を壊して入ってくるなんて、非常識にもほどがあるわよ。そう思わない? 棚だって壊れちゃったし、直さないと」
「――っはっはっは! おいおい天然か? おっもしれーなー、椎葉は! まー、ほどほどにしてくれるとこっちも助かる。無闇に喧嘩売るなよ、あっちは挑発されてると思ってるぞ」
 大笑いがしたと思えば、浮かんだ涙を指で拭う匠がそこにいた。
「ちょっと。それ酷いわ、匠」
「悪い。あまりにも可愛くてな。おまえら良く似てるよ。姉弟みてえ」
「『きょうだい』って……しぃと俺? そんなに似てる?」
「ああ」
 客観的に眺めたらこの部屋の惨状は凄まじいことになっているであろうにも関わらず、匠を中心に和やかな雰囲気が生まれた。そこへ、空気を凍結させるような、絶対零度に近い一言が投げ掛けられる。
「変な女。うるさいし」
 和やかさに椎葉が頬を緩めるとほぼ同時、ぼそりと呟かれたのが聞こえた。
 椎葉は彼をき、と睨み付ける。
「しぃ、危な――!」
 レイの焦りが聞こえたが、構わず彼の元につかつかと歩み寄る。
「何だよ」
 怪訝に問う彼を見上げ、椎葉は両手を伸ばした。

  **

 匠さんが作り出した空気に浸ってしまったおかげで、気づくのが一瞬遅れてしまった。
 恐れもせず近づいていくしぃは、何をしようとしているのだろう。
 レイヤが咄嗟に上げた制止の声はしかし中途半端に切れていた。
「い゛っ!」
「どの口がそんなこと言うの? 人のこと変って言ってるけど、あなただって十分変なのよ。そのことわかってる?」
 理由は、開いた口が塞がらなくなったから。繰り広げられている光景に、レイヤは呆気にとられてしまった。
 しぃは、手を伸ばしたかと思えば彼の頬をつねり上げたのだ。あれは地味に痛い。
 それよりも彼がちゃんと人語を発せているのが凄い。なんとかして人の言葉にしたのだろう。レイヤは一種の感動を覚えた。
「てっめ、放せ! この、暴力女!」
 しぃに頬を掴まれ、哀れにも標的となった彼は必死になってもがいている。両手でしぃを引き剥がそうとしているのだが、どこにどんな力を入れているのかしぃの指はびくともしていない。
 木登りで鍛えられているだけはある。
「い、や。謝ったら放してあげてもいいけど」
「誰がっ」
 彼の頬をあっちこっちに引っ張っているのは、もしかしたら攻撃を避けるためなのだろう。しかし……痛そうだ。
「ついでにその尊大な態度も直したらどう? なによ、無理して大人ぶった喋り方して。まだ子どものくせに」
「んなの、てめえだって同じだろ。いいからとっとと放せ!」
「だから謝ったらって言ってるじゃない。人の話、ちゃんと聞きなさいよね」
 見ているだけで彼が哀れに思えてきた。
「あーあー。口調バレてるぞ、氷優」
「黙れタク、この女どうにかしろ」
「自分で何とかしたらどうだ?」
「できないから頼んでる!」
 匠さんの苦笑にも反応するとは、随分と地獄耳だ。
「しぃ、そろそろ止めてあげたら? 痛がってるから、ね?」
 もういい頃だろう。見かねたレイヤは助け船を出してやった。
「わかったわ、よ」
 最後の『よ』でしぃは彼の頬を思いきり横に引き延ばして放した。
「い゛って! 少しは手加減しろよ馬鹿力女」
 赤くなった頬が目立つ。両手で押さえながら抗議してくる彼が、睨み付けてはいるが若干涙目なのは気のせいではないだろう。
「まだ言う気? もう一回引っ張ってあげようか?」
「丁重に遠慮する。おまえあっち行ってろよ! もう、俺に近寄るな!」
「あなたに言われなくてもね。頼まれたって近づかないわ!」
 売り言葉に買い言葉。本当に初対面かと疑いたくなるくらい、互いの嫌いようが凄まじい。
 会えば喧嘩が絶えない仲とは、まさにこれを言うのだろう。
(でも、顔を合わせる度っていうのは嫌だな……)
 考えるだけでレイヤの神経が持たなくなりそうだ。
「で、氷優。今回は何やらかした? アキちゃんも暇じゃないんだからあまり呼び出してくれるなよ」
 匠さんが近づけば苦々しく舌打ちをし、あからさまに顔を背けた。
「氷優」
 ごまかしは許さない。鋭い一言には逃がさない響きが含まれていた。
「あいつらが、勝手に変なものをつけようとしてきたから逃げてきたんだよ」
「変なもの?」
「俺にも良くわからない。他の奴らにも使おうとしてて、何か嫌な感じがした」
 そうして彼、氷優は自身の腕を抱え込んだ。
「先に手を出してきたのはあっちだ。だからあいつらを動けなくした。……正当防衛だろう? タク」
「正当か?」
「これが正当でないなら他の何を言う。自分の都合だけで俺たちを縛り付けようとしたんだから、抵抗して当然だろう」
 言い分としては間違っていない。それどころか氷優の意見が正しいと思える。
「縛り付けるって、何をされたの?」
 レイヤが問うと、氷優はしかめ面で吐き捨てた。
「名誉のために言っておくが俺は未遂だ。……何人かは助けられなかったけどな。あいつらは、俺らを閉じ込めようとしたんだよ。ここの地下に、永久にさ」
「助ける……?」
 言葉が浮かぶ。
 ――タスケテ
 幻聴ではない。水の波紋に残る微かな余韻のように、それはレイヤの心を震わせた。

 →#9へ。


箱庭の世界―Closed Garden― #7

 ――#7 招かれざる訪問客

 椎葉ははっとして口を閉ざした。
 いってから後悔してももう遅い。止めようと思っていたのに、口を開いたら出てきてしまっていた。椎葉の意志を嘲笑うかのように止まらなかった。
 説明をしてほしい。現状も何もわからない状態が不安でたまらない。ただ知りたい、それだけだ。
 何故、どうして。疑問だけが浮かび、椎葉の心を締め付ける。今ここにいて、こうして話している理由すらわからないのに。
 一言もいわないおじさんが怖い。笑顔も消え、ただ見られているだけで後ずさりたくなった。
(やっぱり、いわない方が良かったかもしれない)
 こんなふうに困らせるつもりはなかった。迷惑をかけている自信はある。一瞬でも欲に負けてしまった自分が今更ながら悔やまれた。
「どうしたものかな……」
 やがておじさんが口を開く。頭をがしがしと掻き、椎葉に困った笑みを向けてきた。
「隠すつもりはなかった。ただ、いえば余計お前たちの不安を煽ると思って教えていなかっただけだ」
「やっぱり、あの網の中が箱庭なのね?」
「ああ。箱庭というのはあの森につけられた単なる名称だ」
 それにしても変な話だ。森に箱庭と名付けるなんて、まるで誰かの所有物ではないか。
(あの森が庭だったってことかしら。でも、庭の中に家も川もあるって変なの)
 椎葉が知っている庭とは家の前にある芝生の敷き詰められた小さな囲いを指し、広くても眺め渡せる範囲にあるものだ。そこで遊んだり植物を育てたり、そういう場所だと思っていた。
(でも、広い庭だってあるよね。じゃあ、おかしくはないのかな……?)
 おじさんはあの森自体が箱庭だという。ならばその通りなのだろう。
 考えてみれば椎葉たちはよく遊んでいるし、芝生はなくても木はある。木の実を採りに行くのは日常茶飯事だ。
 行き慣れた場所だから迷うこともない。見渡せなくても戻れるから問題はないだろう。
(だよね?)
 少々強引なこじつけではあったが、そういうものだと思うことにした。
「でも箱庭なんて、おかしな名前! ねえ、レイもそう思わない?」
「え? あ、うん。そうだよね」
 考えに耽っていたのかレイの反応が遅い。答えは返ってきたものの、どこか上の空だ。
 おじさんにここから出てはいけないといわれたし、きっと先程の声が気になっているのだろう。早く探しに行けたらいいのに。
「おじさんが考えたの?」
「……いや、私じゃない。誰かがそういっていただけだ」
 随分歯切れの悪いものいいをする。では誰が考えたのだろう。
「不思議な名前をつける人もいるのね」
 物思いに沈んでいるのか二人からの返答はなかった。
 リリリリリ……
 突如響いた機械音に、おじさんがいち早く反応する。机のところまで戻ると四角いものを取り上げて耳に当てる。
「私だ」
 誰と話しているのだろう。椎葉の耳に微かな音が聞こえるだけで、内容はまるでわからない。
「ああ、そうだ。――なに? それは本当か?」
 しかしみるみるうちにおじさんの表情が険しくなっていき、何か良くないことが起きているのだとは予測がついた。
「被害は? ――わかった。私もすぐに向かう。――了解した」
 そういい終えると、持っていた四角いものをすぐに下へと置き元通りにした。
「椎葉、レイヤ」
 おじさんは椅子の背にかけられていた白い上着を羽織り、袖を通しながら話しかけてきた。
「悪い、急用が入った。匠が戻ってきたら下へ出掛けていると伝えてくれないか」
「うん。わかったわ」
 答える椎葉を眺め、急ぎ足で部屋を横切っていく。棚で姿が見えなくなる直前におじさんは振り返った。
「何度もいうが、この部屋からは出るんじゃないぞ。守れるな?」
「大丈夫、迷惑かけたりしないわ」
「――行ってくる」
 少しだけ目を細めていい聞かされ、おじさんの後ろ姿が部屋の外へと消える。匠の時と同じ、最後は扉の閉まる音が聞こえた。

  **

 タスケテ
 初めはその一言だけだった。精一杯の声量で懇願する、その声だけが聞こえてきた。
 ドウシテ
 いつからだろう。その声に、微かな疑問のような憎悪が加わったのは。
 ドウシテ……
 がんがん響く頭を抱え、侵食される意識と薄れていく現実の音に恐怖を覚えた。少しでも気を抜けば根こそぎ奪われそうになる。レイヤはそれを必死に繋ぎ止めていた。
 やめて。やめて。これ以上呼ばないで。俺を消さないで。
 ――ユルサナイ。オマエダケハ、ケッシテ……
「レイ? おーい、起きてるー?」
「――しぃ」
 澱んだ声を割ってきたのは懐かしい香り。目の前で振られる手に、レイヤはようやく我に返った。引き込もうとしていた気配が遠ざかる。
 しぃが覗き込んでいたことにも気づいていなかった。
 汗ばんだ手を握り込む。引かれたままでは駄目だ。抗わなければいつか負ける。あの声にはそんな執念深さを感じた。
「ねえちょっと、大丈夫? 顔真っ青だよ」
「っえ、ちょっ、わっ」
 両手で頬を挟み込まれ、近い距離に恥ずかしさを感じながらもその温かさに安堵する。レイヤは目を閉じ、暫し温もりに浸った。
「さっきいってた声?」
「うん……」
 染み渡る。しぃの声に満たされていくのがわかる。温かく優しい、いつも耳にするしぃの声だ。
「大丈夫?」
 こつんと当たる額。
「――うん」
 レイヤの口元に自然と笑みが浮かんできた。
 覆い隠されていた現実が戻ってくる。自分は彼女の隣にいるべき存在なのだと自負してしまう。
(違うな。俺が必要なんだ)
 しぃがいなければ、きっと簡単に負けていた。誰かじゃない。しぃがいることがこんなにも心強い。
「うん、大丈夫。ありがとう、しぃ」
「どういたしまして」
 レイヤが礼を述べると、離れたしぃは満面の笑みを向けてきた。
「あれ、暁さんは?」
 やっと周りを見る余裕が出てくる。ところが、確かに先程までここにいた暁さんの姿が何処にもない。
 置かれている棚のせいかこの部屋はあまり広くない。しかし一人いなくなったそれだけでも、がらんとしたように思えた。
(匠さんがいなくなった時もそうだったな……静かだ)
「話してて、用事ができたっていって行っちゃったわ。レイ、それも気づいてなかったの?」
 レイヤは答える代わりに俯く。
 二枚の絵のように切り替わっていた場面。その間が全くといっていいほどない。覚えていないではなく、ないのだ。
 ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。
「おじさんがここから出ないようにっていってた。二人ともすぐ戻ってくるよ。ね? 中を見て回れるか、おじさんが戻ってきた時に聞いてみよう?」
「うん」
 レイヤが答えると、入り口から扉の開く音がした。
「匠さんかな」
 迷路に似た棚の横から顔を出したのは予想通りの人だった。
「アキちゃーん、いなかっ――あれ、アキちゃんは?」
「いないわ。さっき出てって、下に出掛けてくるって」
「下? そういってたのか?」
 匠さんは眉をひそめる。
「ええ。匠にそう伝えてくれって」
「了解。アキちゃん、他に何かいってたか?」
「ううん。この部屋から出るなだけ……」
「――そっか、ならいいんだ。椎葉、レイヤ、絶対にオレの傍から離れるなよ」
 何故と尋ねる間も与えられず、それを訊こうとしたレイヤの耳に爆発音がした。
「何!?」
 棚の向こうから煙がもうもうと上がる。今なおも破壊されこちらにやってくることが音だけでわかる。
 誰かいる。
 煙幕に映された人影は一つ。
「お前のお探しの人物はここにはいないぜ、氷優」
 その様子を眺めていた匠さんがおもむろにいった。
「なら、何処にいる」
 舞う煙の向こうから現れた人物は何事もなかったかのように問う。そこにいたのは、小柄な少年だった。

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