――#10 突かれた不意

 レイと氷優が出ていったことで室内はまた、ほんの少しばかり静かになる。なかなか戻ってこない匠を不思議に思い、椎葉が首を伸ばしたところでちょうど匠が戻ってきた。手に持っている二つのマグカップは、外に行ったときはなかったものだ。
「椎葉、ほれ。熱いから気を付けてな」
「ありがとう」
 椎葉は差し出されたマグカップの一つを受け取り、まだ湯気の立つそれを両手で包み込む。
 ――温かい。
 けれどすぐに口をつけることは躊躇われた。匠が言ったように中身はきっとまだ熱いだろう。下手に飲んだら火傷をしかねない。
 本音を言えばすぐにでも飲みたいけれど、今はまだ我慢だ。
「ねえ、匠」
「んあ?」
 自分の分を卓上に置いて椎葉の真向かいに座ろうとする匠を見上げ、椎葉はおずおずと尋ねてみた。
「扉のところ、あれ、壊したままで良いの?」
 ちなみに壊したのは、先程嵐のように現れて去っていく羽目になった氷優だ。
 当然これから直すものだと思っていたのだが、匠が動く気配は全くない。それどころか非常にゆったりと寛いでいる。
「いーのいーの、あれは暫く経てば直るんだわ。ま、大方やるのは氷優だけどな」
「暫く経てばって、自動的に直るんじゃないでしょ? それに氷優はさっきレイと行っちゃったし、すぐには戻って来なさそうよ」
 それを見送ったのは匠だ。特に反対もせず行かせていたような覚えがある。
「自分で壊したものは自分で直す、それがここの規則なんだよ。壊したのは氷優であってオレじゃないからな、手出しはしない」
「うーん……」
 正論ではあるが受け入れ難い。
 匠はカップを手に取り、優雅と言える所作で口へと運ぶ。動作が落ち着き払って見えるのは見知った場所だからだろうか、それとも元からの性格故か。
「でも、おじさんが帰ってきた時壊れてたら困るでしょ? 原因を作ったのが別の人で完全には直せなくても、やっぱり少しは直しておいた方が良いと思うの。あのままじゃ廊下を通った人が困るわ」
 このままでは晒し者同然だ。道行く人は少なくかつ入口は棚で隠れていても、やはり外観としてまずいのではないだろうか。
「それとも、匠は直したくない理由でもあるの?」
 聞いちゃまずいのではないかと思いつつも、考えたら口にしてしまっていた。途端匠に手を振られ、否定された。
「ないないない、あるわけねーって! そうじゃなくてだな、修理するより大事な用事があるからそっちを優先したいんだよオレは」
「大事な用事って?」
 椎葉がきょとんと首を傾げると、匠は椅子の肘掛けに頬杖を突いて口元を綻ばせる。
「まー、強いて言うならお客様のおもてなし? 珍しいお客様となれば尚更な。退屈なんてさせちゃ、オレが後でアキちゃんにどやされる。それだけは勘弁願いたいんでね」
 匠の言うお客様とは椎葉と、今はここにいないレイのことだ。あまりにも自信ありげに言う前半と顔をしかめた後半の違いの大きさに、椎葉は軽く吹き出してしまった。
「匠はおじさんに逆らえないのね?」
 卓のカップに手を伸ばしかけていた匠がぴしりと固まる。椎葉に向けた笑みは頬が引きつっていた。
「……なんでそういう結論にたどり着くかねー。まー、間違ってはいないからなー……ったく、反論し難いじゃねーかよ」
 今度はあらぬ方向に目をやっている。憮然として飲み物を口にする匠の姿は、拗ねている以外の何物でもないと思う。
「本当のことほど誰かに言われると身に染みるものなんだから。おじさんが苦手じゃないみたいで良かった」
 知り合い同士がいがみ合うのは見たくない。どうせならみんな仲良くしてほしい。
 おじさんと匠との会話のやり取りはまるで親子のようだったから、確認するまでもないと思ったけれど。
「――あの子はどうなのかな」
 呟きながら浮かぶのはレイと一緒に出ていった少年だ。彼はおじさんを探していた。苛立たしげにおじさんの名前を口にして、今にも舌打ちしそうだったあの態度。
「氷優はアキちゃんが嫌いなんじゃねーよ。ただ虫の居所が悪くてあんな苛立ってただけだ。気にしてるなら謝る、ああいう奴なんだ」
「ううん。私の方も酷いことしちゃってご――」
「ストップ。そこから先は言う相手が違うだろ? 氷優が戻ってきたら言ってやれ」
 やんわりと押し止められ、顔が赤くなるのがわかった。それもそうだ。今ここで匠に言っても仕方ない。
「そうよね。二人とも帰ってきたら言ってみるわ」
 匠はじっと見つめてきたと思えば何食わぬ顔で言ってきた。
「時間なら暫くある。心の準備しておけよ」
「準備って、どうして?」
 思わず匠の顔を凝視してしまう。
「おまえ、あいつ苦手だろ」
 言葉に詰まった。
 椎葉にはそんなつもりはなかったのに。ただ話しにくいなと思っただけだ。
 氷優はこれまで会ったどんな人とも違う。正面に立って、彼から向けられた敵意にも似た感情に、椎葉が戸惑ったのは事実だ。
「――ま、その話はここまでにして。二人が戻ってくるまで、暇潰しに別の話でもしてやろうか?」
 飲み干したカップを卓に置き、匠は組んだ足に両手を乗せた。
「どんな話?」
 黙ったままなのは卑怯だとわかっていたが、彼に関する話題が終わったことにほっとする自分がいるのにも気付く。椎葉自身あまりぴんと来ないが、匠の指摘は正しいのだろう。
 匠は勿体ぶった様子で一拍置いた。
「椎葉が知らない、ここで上がる箱庭の話だ」
 気にかかっていた扉のことなどそっちのけで、椎葉は耳を傾ける。
「聞かせて」
 状況の把握はしておきたかった。

  **

 強張る背中の向こう、レイヤは現れた誰かが溜め息を吐くのを見た。
「やっと見つけたわ。ただでさえ忙しいのよ、これ以上手間を掛けさせないで頂戴」
 男性よりも高い声なのにその響きの冷淡さから、これが女性の出す声なのかと疑いたくなる。初めて聞くレイヤが言葉を発せなくなるくらい竦み上がるには、十分過ぎるほどだった。
「おまえが許可もせず俺達に変な装置をつけようとするからだ。俺のせいじゃない」
 辛うじて返せているが、氷優の受け答えは硬い。それでも見返せている氷優が単純に凄いと思えた。
「詭弁ね。検査に必要だと言ったでしょう? 論じる暇も惜しいわ。――それで、そちらの君は誰かしら?」
 突然向けられた視線に、レイヤの身体は素直に固まった。
 射抜かれる。見透かされそうだ。逆光で見えない筈の瞳が、じっとレイヤを見下ろしている。
「アキの知り合いだ」
「そう、暁の」
 氷優が代わりに答えた後でも尚、得体の知れない視線が絡み付いていた。身震いした身体を両手で掴む。
 振り払えない。――怖い。
「鬼ごっこはここまでよ、氷優。丁度良いわ。貴方もいらっしゃい」
 促されているのに命令されている錯覚を覚える。初めから否とは言わせない口調だ。
 カツン、彼女が踵を返す。
 その響きにレイヤはほっと息を吐いた。――それを後悔することになるのは一瞬後。
 ――!
 気の抜けたレイヤの耳を、声にもならぬ悲鳴がつんざいた。
「――っ!!」
 慌てて耳を覆ってももう遅い。初めの一声どころか、わんわん鳴り響く余韻でさえレイヤの鼓膜を突き破ろうと襲いかかってくる。
 頭が痛い。音という音、全てが最早敵だった。
 聞きたくない。止めてほしい。もう嫌だ。
 懇願するも願いは虚しく、鈍器で殴られたような痛みだけが激しさを増す。
 意識が飛ぶほんの少し前。両手を突き、必死な形相でレイヤを覗き込む氷優が映った。
「だ、じょ――」
 大丈夫。
 ちゃんと笑えたかわからなかった。


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