――#7 招かれざる訪問客

 椎葉ははっとして口を閉ざした。
 いってから後悔してももう遅い。止めようと思っていたのに、口を開いたら出てきてしまっていた。椎葉の意志を嘲笑うかのように止まらなかった。
 説明をしてほしい。現状も何もわからない状態が不安でたまらない。ただ知りたい、それだけだ。
 何故、どうして。疑問だけが浮かび、椎葉の心を締め付ける。今ここにいて、こうして話している理由すらわからないのに。
 一言もいわないおじさんが怖い。笑顔も消え、ただ見られているだけで後ずさりたくなった。
(やっぱり、いわない方が良かったかもしれない)
 こんなふうに困らせるつもりはなかった。迷惑をかけている自信はある。一瞬でも欲に負けてしまった自分が今更ながら悔やまれた。
「どうしたものかな……」
 やがておじさんが口を開く。頭をがしがしと掻き、椎葉に困った笑みを向けてきた。
「隠すつもりはなかった。ただ、いえば余計お前たちの不安を煽ると思って教えていなかっただけだ」
「やっぱり、あの網の中が箱庭なのね?」
「ああ。箱庭というのはあの森につけられた単なる名称だ」
 それにしても変な話だ。森に箱庭と名付けるなんて、まるで誰かの所有物ではないか。
(あの森が庭だったってことかしら。でも、庭の中に家も川もあるって変なの)
 椎葉が知っている庭とは家の前にある芝生の敷き詰められた小さな囲いを指し、広くても眺め渡せる範囲にあるものだ。そこで遊んだり植物を育てたり、そういう場所だと思っていた。
(でも、広い庭だってあるよね。じゃあ、おかしくはないのかな……?)
 おじさんはあの森自体が箱庭だという。ならばその通りなのだろう。
 考えてみれば椎葉たちはよく遊んでいるし、芝生はなくても木はある。木の実を採りに行くのは日常茶飯事だ。
 行き慣れた場所だから迷うこともない。見渡せなくても戻れるから問題はないだろう。
(だよね?)
 少々強引なこじつけではあったが、そういうものだと思うことにした。
「でも箱庭なんて、おかしな名前! ねえ、レイもそう思わない?」
「え? あ、うん。そうだよね」
 考えに耽っていたのかレイの反応が遅い。答えは返ってきたものの、どこか上の空だ。
 おじさんにここから出てはいけないといわれたし、きっと先程の声が気になっているのだろう。早く探しに行けたらいいのに。
「おじさんが考えたの?」
「……いや、私じゃない。誰かがそういっていただけだ」
 随分歯切れの悪いものいいをする。では誰が考えたのだろう。
「不思議な名前をつける人もいるのね」
 物思いに沈んでいるのか二人からの返答はなかった。
 リリリリリ……
 突如響いた機械音に、おじさんがいち早く反応する。机のところまで戻ると四角いものを取り上げて耳に当てる。
「私だ」
 誰と話しているのだろう。椎葉の耳に微かな音が聞こえるだけで、内容はまるでわからない。
「ああ、そうだ。――なに? それは本当か?」
 しかしみるみるうちにおじさんの表情が険しくなっていき、何か良くないことが起きているのだとは予測がついた。
「被害は? ――わかった。私もすぐに向かう。――了解した」
 そういい終えると、持っていた四角いものをすぐに下へと置き元通りにした。
「椎葉、レイヤ」
 おじさんは椅子の背にかけられていた白い上着を羽織り、袖を通しながら話しかけてきた。
「悪い、急用が入った。匠が戻ってきたら下へ出掛けていると伝えてくれないか」
「うん。わかったわ」
 答える椎葉を眺め、急ぎ足で部屋を横切っていく。棚で姿が見えなくなる直前におじさんは振り返った。
「何度もいうが、この部屋からは出るんじゃないぞ。守れるな?」
「大丈夫、迷惑かけたりしないわ」
「――行ってくる」
 少しだけ目を細めていい聞かされ、おじさんの後ろ姿が部屋の外へと消える。匠の時と同じ、最後は扉の閉まる音が聞こえた。

  **

 タスケテ
 初めはその一言だけだった。精一杯の声量で懇願する、その声だけが聞こえてきた。
 ドウシテ
 いつからだろう。その声に、微かな疑問のような憎悪が加わったのは。
 ドウシテ……
 がんがん響く頭を抱え、侵食される意識と薄れていく現実の音に恐怖を覚えた。少しでも気を抜けば根こそぎ奪われそうになる。レイヤはそれを必死に繋ぎ止めていた。
 やめて。やめて。これ以上呼ばないで。俺を消さないで。
 ――ユルサナイ。オマエダケハ、ケッシテ……
「レイ? おーい、起きてるー?」
「――しぃ」
 澱んだ声を割ってきたのは懐かしい香り。目の前で振られる手に、レイヤはようやく我に返った。引き込もうとしていた気配が遠ざかる。
 しぃが覗き込んでいたことにも気づいていなかった。
 汗ばんだ手を握り込む。引かれたままでは駄目だ。抗わなければいつか負ける。あの声にはそんな執念深さを感じた。
「ねえちょっと、大丈夫? 顔真っ青だよ」
「っえ、ちょっ、わっ」
 両手で頬を挟み込まれ、近い距離に恥ずかしさを感じながらもその温かさに安堵する。レイヤは目を閉じ、暫し温もりに浸った。
「さっきいってた声?」
「うん……」
 染み渡る。しぃの声に満たされていくのがわかる。温かく優しい、いつも耳にするしぃの声だ。
「大丈夫?」
 こつんと当たる額。
「――うん」
 レイヤの口元に自然と笑みが浮かんできた。
 覆い隠されていた現実が戻ってくる。自分は彼女の隣にいるべき存在なのだと自負してしまう。
(違うな。俺が必要なんだ)
 しぃがいなければ、きっと簡単に負けていた。誰かじゃない。しぃがいることがこんなにも心強い。
「うん、大丈夫。ありがとう、しぃ」
「どういたしまして」
 レイヤが礼を述べると、離れたしぃは満面の笑みを向けてきた。
「あれ、暁さんは?」
 やっと周りを見る余裕が出てくる。ところが、確かに先程までここにいた暁さんの姿が何処にもない。
 置かれている棚のせいかこの部屋はあまり広くない。しかし一人いなくなったそれだけでも、がらんとしたように思えた。
(匠さんがいなくなった時もそうだったな……静かだ)
「話してて、用事ができたっていって行っちゃったわ。レイ、それも気づいてなかったの?」
 レイヤは答える代わりに俯く。
 二枚の絵のように切り替わっていた場面。その間が全くといっていいほどない。覚えていないではなく、ないのだ。
 ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。
「おじさんがここから出ないようにっていってた。二人ともすぐ戻ってくるよ。ね? 中を見て回れるか、おじさんが戻ってきた時に聞いてみよう?」
「うん」
 レイヤが答えると、入り口から扉の開く音がした。
「匠さんかな」
 迷路に似た棚の横から顔を出したのは予想通りの人だった。
「アキちゃーん、いなかっ――あれ、アキちゃんは?」
「いないわ。さっき出てって、下に出掛けてくるって」
「下? そういってたのか?」
 匠さんは眉をひそめる。
「ええ。匠にそう伝えてくれって」
「了解。アキちゃん、他に何かいってたか?」
「ううん。この部屋から出るなだけ……」
「――そっか、ならいいんだ。椎葉、レイヤ、絶対にオレの傍から離れるなよ」
 何故と尋ねる間も与えられず、それを訊こうとしたレイヤの耳に爆発音がした。
「何!?」
 棚の向こうから煙がもうもうと上がる。今なおも破壊されこちらにやってくることが音だけでわかる。
 誰かいる。
 煙幕に映された人影は一つ。
「お前のお探しの人物はここにはいないぜ、氷優」
 その様子を眺めていた匠さんがおもむろにいった。
「なら、何処にいる」
 舞う煙の向こうから現れた人物は何事もなかったかのように問う。そこにいたのは、小柄な少年だった。

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