「俺の隣が母さん。2年前に、死んだ。」

ナナシは少し俯いて言った。 「その写真撮った次の日に、その写真撮った屋上から飛び降りた。」 淡々とした言い方だったが、それはナナシが背負ってきた悲痛が全て凝縮したような切ない響きを持っていた。 見事な夕焼けを背にして笑う親子、まさかそれが翌日には哀しい別れ方を迎えるなんて、 哀し過ぎる。

「その写真、母さんの誕生日に棚整理してたら見つけてさ。半年くらい前。2年前に現像して見たときは、たしかに何も写ってなかったんだけど。 そんとき改めて見たら、その靄が写ってて。」 僕は黙って聞いていた。 アキヤマさんも、じっと写真を見つめて黙ってた。

僕は今更、ならばさっき会った女の人は何だとか、わかりきった追求をする気はなかった。 ナナシといたら怖い体験をする、ってのは、それこそ今更だったし。

きっと、死んだあともナナシのお母さんは、ナナシが心配で、この家にいるんだろう。 遺して来たナナシが、心配なんだろう。 そう思った。

「その靄、手の形してるだろ?俺も最初は怖かったけど、 見てるうちに、きっと母さんが、俺を守ってくれてんだ、って思ってさ。」

その手が、きっと俺を守ってくれてるんだ、って思って。

ナナシは、そう言って笑った。

 


「だから、飾っちゃってるわけ。マザコンぽくて、アレだけどな。」

ナナシは掠れ声でそう言うと、いつもより少し照れたようにヘラッと笑った。 僕はうっかり泣きそうになるのをグッと理性で押さえ、 「このロマンチストが」なんて馬鹿馬鹿しいツッコミを肘で入れた。 ナナシとは怖い体験も何度かしたけど、この話を聞いて、やっぱり僕はナナシを好きだと思った。 僕らを見て「ありがとう」と笑った、ナナシのお母さんの顔を思い出す。 僕は、ナナシとずっと友達でいよう、あのお母さんのぶんも、ナナシの傍にいよう、と心底思った。

そのとき、 「元気そうで何よりだわ。明日は学校で会いたいわね。」 と、アキヤマさんが唐突に言った。一瞬にして先刻までの感動ムードが吹っ飛ぶ。 アキヤマさんはそんな空気変化を無視し鞄を抱えて、 お大事に、と一言掛けると、部屋を出た。 僕は一瞬呆気に取られたが、我に帰り、慌ててアキヤマさんを追い掛けた。

「また明日な!!!」 ナナシに声を掛けると、ナナシはいつものヘラヘラした笑顔で手を振った。 それを見届けてから、僕はアキヤマさんを追い掛けて広い廊下を走った。

あの女の人は、もういなかった。

 


僕がナナシの家を出たとき、アキヤマさんはすでに数十メートル先を歩いていた。 僕は必死でアキヤマさんを追い掛け、並んだところでその肩を掴んだ。 「アキヤマさん!!」 「…なに」 アキヤマさんは振り返る。その顔に表情はなく、異様なくらいの冷たさを感じた。 「なんで、あんな言い方したんだよ。ナナシが可哀相じゃん、お母さんが…」 そこまで言って、僕は何も言えなくなった。アキヤマさんが、嫌悪と怯えを入り交じらせたような形相で、僕を睨んでいたからだ。 「…アンタ、本当にあれが『守り手』だなんて思ってんの?」 アキヤマさんが強い口調で言った。その真っ直ぐに向けられる視線は、信じられないとでも言うように僕を刺していた。 「だって…それしか」 「本当にそう思ってんならシアワセね。」 アキヤマさんは心底馬鹿にしたように言い放った。

「アタシには、あの手がナナシの首を絞めようとしているようにしか見えなかったわ。」 そう言うと、アキヤマさんは足を早め、帰っていった。曲がり角を曲がって、 見えなくなるアキヤマさんを呆然と見送りながら、僕は、 あの写真を思い出していた。 夕焼けを背にした親子、その翌日に飛び降りて死んだ母、息子の首元にかかる手型の靄。 そして、良好そうな体調の割に、酷く掠れた、ナナシの声。

もし仮にアキヤマさんの台詞が真実なら、僕らが見たあの人は、

ナナシをどうするつもりだろう?

耐え難い悪寒と戦慄を感じ、僕は走った。嫌な予感が現実にならないのを祈りながら、ナナシの家が見えなくなるまで、走った。

翌日、ナナシはいつもどおり学校に来ていたが、声はさらに掠れていた。 このときすでにカウントダウンは始まっていたのかもしれないが、 やっぱりそれは、今更の話。