はうっ……!
わたしは進行方向に見知った顔があるのに気が付き、廊下の角に身を隠した。
淡い、栗色の少しクセのある髪、甘い整った顔立ちの、背の高い上級生。
……先輩。
たくさんの女生徒に囲まれた先輩は、今日も綺麗で格好良い。
遠い世界の人だなぁと、ちょっと寂しさを感じる。
そんな感情を覚えるほど親しくはないのに。
入学して以来、わたしを惹き付けて離さなかった、夕陽の絵の前で、先輩と出会った。
彼と初めて会った時の出来事を思い出し、かあぁ、と顔が熱くなる。
知らない事とはいえ――
大好きな絵を描いた人なのに、名前を知らないなんてあんまりですもんね。
絵の難しい事は分かんないんですけど、
見てると寂しくて、切なくて、ギュウってしたくなります。
この絵が求めている誰かにわたしがなれたらいいなって…、
好きは好きなんです、そう思う心に理由付けちゃダメなんです!
本人に向かって何様なのわたし――!!
そりゃ先輩爆笑するよ!
もう恥ずかしくて顔合わせらんないよー。
回れ右をしてわたしはその場を去る。
お気に入りの絵の前で出会った謎の上級生が、当の作者本人だと知ってから、わたしはそうして先輩を避け続けているのだった……。
「そういやあんたの先輩、新しい絵を描き始めたってね」
昼休み、友達がメロンパンを頬張りながら言った。
わたしに先輩のことを教えてくれたのが彼女だ。
たまたま校舎ですれ違った先輩(その時はまだ謎の上級生だった)にからかわれていたわたしに、
「絵だけじゃなく作者のほうともお近づきになったんだ」と爆弾を投下してくれたのだ。
それまでわたしは、絵のひとと謎の上級生をイコールで繋げたことなどなかったので、意味を理解した時はホントに気絶するかと思った。
毎日見ていたあの絵も、自分の暴言を思い出してしまうので最近見に行ってないくらい。
禁断症状が出かかっているわたしが、友達のその言葉を聞いてじっとしていられるわけがない。
先輩と会う危険を冒してでも、見てみたかった。
新しい絵。
わたしは先輩の絵のファンだと自称しておきながら、彼の他の作品を見たことがない。
だから、余計に、
いつもなら出来ないそんなことをしてしまったんだ……。
その部屋は油っぽい、絵の具と紙と、木の匂いがした。
先輩のアトリエ。
空き教室を特別に独占使用しているって聞いていた通りに、そこは彼ひとりの気配しか感じられない。
5時間目、始まっちゃった…。
友達の話を聞いてから、いてもたってもいられず、生まれて初めて授業をサボってしまった自分はどうかしていると思う。
絵を見たいというだけで。
思った通り、授業中のためアトリエ周辺には誰もいなかった。
先輩のおとりまきも、
彼自身も。
鍵が掛っていないのは絵の価値(お金じゃなくて!)を考えると不用心だと思ったけど、そのお陰で自分がここに入れたのだから、文句を言える訳もない。
ソロリ、と部屋の中央にある、キャンバスに近寄る。
いつも校内で見かける先輩の、隙のない冷静な綺麗さとは裏腹に、この部屋は雑然としていて、スケッチらしい紙がそこら中に散らばっていたり、絵の具が飛び散った跡のようにあちこち汚れていたりする。
窓際にあるソファだけが唯一綺麗に保たれていいて、毛布があることから彼の休憩場所なのかもしれないと思った。
ゆっくりゆっくり、キャンバスの前に回る。
万が一にも絵に触れることがないよう、充分な距離を保ち。
息が出来なくなる――……
目の前にあったのは形を成さない色のうねり。
黄、萌木、緑、碧、翠、鶸、わずかな灰。
キャンバスの上で色の波が混ざりあって溶けあって見たこともない景色がそこに生まれている。
木漏れ、日……?
それとも、海の底から見た、天上の光り?
あの夕陽の絵は、高い遠いところから周りを見渡した景色が描かれていた。
でも、これはどう言ったらいいんだろう、
抽象画の形をしているけれど、別のモノにも見える。
寂しさが前面に出ていた夕陽の絵よりも、それが和らぎ、なにか暖かい物を感じた。
何を、見つけたの?
先輩―――。
色の重ね、混ざり、擦れ、盛り上がった絵の具の溝、
そんな全部に、
自分が惹かれた人そのものを感じて、胸がギュッとなった。
――絵に心を奪われていたわたしは、戸口に立っている人に気付かず、
ただ、微かな光りに手を伸ばしているような、その絵を、瞬きを惜しんで見つめ続けていた。
「……どうして泣いているの? 悲しいことでもあった?」
カタン、と戸の閉まる音と、
聞きたくて、
聞きたくなかった声に、わたしは我に返る。
「先ぱ……っ!」
珍しくシャツ一枚で、腕を捲り、くだけた格好の先輩が扉を塞ぐようにそこにいた。
いつの間に……!?
……え、泣い――
ハッと頬に手をやると、濡れていた。
え、え、何で?
自分でも訳が分からなくて、恥ずかしくて血の昇った顔をゴシゴシ擦る。
クス、と先輩の笑う声がして、わたしはいたたまれなくなった。
別の意味で涙が溢れそうになる。
彼の前に出ると、
自分がとても、
ツマラナイ存在になった気がするから。
本当は、避けていた理由はそれかもしれない。
いつも、先輩の前でオロオロしたり、変な事を言って、笑われるのがツライから。
自分だけ、いちいちドキドキして、馬鹿みたいで。
……オデコにされたキスも、今考えても意味が分からなくて、やっぱり、わたしをからかって楽しんでいるんだって思うと悲しくなる。
「僕以外立ち入り禁止なんだけどね、ここ」
「っ、ごめんなさい、すぐ、出て行きます……」
うつ向いたままボソボソと答えて、部屋を出ようとしたわたしは、戸口から動こうとしない先輩に気付き、顔を上げる。
先輩はじっとわたしを見ていた。
からかうような瞳でもなく、
楽しそうな瞳でもなく、
冷たい瞳で。
「気に入らないな。どうして僕を避ける?」
ビクッと身体がすくむ。
「今日も西棟の廊下でコソコソ逃げる誰かさんを見たよ」
気付かれていたんだと、青くなった。
「“ダイスキ”な絵の作者が僕だってわかって、興ざめしたのかと思ったけど……真面目な君が授業をサボってまで、ここに忍び込むってことはそうでもなさそうだし――」
カタ、ともたれていたドアから身を離し、先輩がわたしに近付く。
反射的に後ずさってしまったわたしに、苛立たしげな先輩の声が、追ってくる。
名前を呼ばれた嬉しさとか、その時は感じなかった。
ただ、どうしてだか先輩が怖くて。
「やっ…!」
先輩の手が髪に触れるのを感じて、振り払ってから、ハッとする。
振り払われた手をキョトンと見てから、スッと先輩から表情が消えた。
「僕を怒らせたいの? その勇気だけは褒めてあげるよ」
言葉だけは穏やかに、瞳は冷たく冴えて。
感情を見せないその瞳に、魅せられたまま、動けず。
壁に背を預けたわたしに、先輩の手が伸びて―――……