誤算だったのは、その翌朝、彼があたしに「付き合って」と言ってきたことだろう。
まだすぐには無理だけど、ちゃんと忘れるから、俺の彼女になって。と。
少しだけ悩んだあたしは、だけど結局頷いて。
きっとおママゴトのような付き合いになるんだろうな、と思った。
寂しさを埋めるために、依存する相手を今の彼は欲しがっているのだろうと思ったから。
分かっていたけれど、いいよ、付き合ってあげるよ、という気持ちで頷いて。
だってあたしは別に彼を好きなわけじゃない。
他に好きな人がいるわけでも、今すぐ恋愛をしたいわけでもない。
だから付き合ってあげる。
彼の気が済むまで。
彼とあたしは曖昧だった。
勿論、付き合って、と言って始まった関係だったから恋人同士ということになるし、お互い友達として付き合うつもりもなかったけれど。
本質的には曖昧だった。
週末ごとに遊んで、喋りあって。
3ヶ月もすれば、彼はあたしのことを抱きしめながら「好き」と言ってくれたけれど。
二人で過ごしていても、ふと口から零れる元カノの思い出。
スーパーに行けば、彼女の地元が生産地の品物が並んで、ファミレスでは一緒に食べたものがメニューにのる。
カラオケに行っても、彼女に上手と褒められたという歌を歌って。
週末のロードショーや、本屋でさえ、容易く彼女の思い出に繋がる。
あたしに、好きだよ、という口で、それをぽろりと零す彼。
口から零れなくても、少し遠くなる眼差しがその思いを語るのに、あたしは苦笑いしか出来なくて。
そう。3ヶ月もすれば、あたしの気持ちだって変わる。
バカだけど優しい彼。
会わない日だって、メッセージを送ればちゃんと返される言葉。うちに来る時は、手土産にあたしが好きだと言った限定プリンを忘れない。
部屋で会う時は、得意料理だと言ってオムライスを作ってくれたり、体調を崩した時には心配してお世話をしに来てくれたりもした。
おバカなのにどうやら勉強は出来て、あたしの苦手なレポートも彼のお陰で高評価を貰えるようになった。
ありがとう、と言うあたしに照れ臭そうに笑って「大したことしてないよ。評価されてるのは君の考えた中身だから」と頭を撫でてくれる。
絆されないわけないのだ。そんな可愛くて優しい彼に、好きが深まっていかないわけがない。
時折自分の口からぽろりと零れてしまった無神経さに気付けば、
「ごめん、つい。…わざとじゃないんだけど…」
反省するように顔を伏せて言う彼に、
「わかってるよ。仕方ないよ、すぐに忘れられないものは」
最初は、そう言って笑って応えていたあたし。
ホッとしたような表情を浮かべるのすら、可愛いと思っていたのに。
そうして好きになるほど、だんだんそれが辛くなって。
ちゃんと忘れるって、いつ?
いつになったら、二人の時間をあたしだけと過ごしてくれる?
彼女の話はもう聞きたくないと、言いかけては飲み込んで。
だってあたし達の関係はそこから始まったから。
あたしは、彼の胸に重く沈んだ気持ちを吐き出す為に付き合うよ、と言って、彼はきっとそれを折り込みであたしに付き合って、と言った。
ついそれを零しても聞いてくれる、それごと受け入れてくれるおおらかな彼女として。
ほんとにバカだな、と思う。
それが叶うと思っていた彼も、気軽にいいよと返事をしたあたしも。
時間とともに、残酷なほど気持ちは変わっていくものなのに。
結局、抱き合っている時にしか、彼があたしだけを見ていると感じられる時はなかった。
細身のくせに筋肉質な、熱くて硬い身体。
その熱に包み込まれて、脳味噌まで溶かされてしまえたら良かったのに。
溶けていくのは身体ばかりで。
彼の熱を、信じて受け入れられたのは身体ばかりで。
好きだよ。
ふわふわの柔らかい髪。
きれいな指。
眼鏡の奥の、ちょっと細い目も。
歩く時はまっすぐに伸びる背中が、座るとちょっと丸くなるところも。
いただきます、とごちそうさま、を忘れないところも。
甘えるように擦り寄って来てあたしを抱き締めるけれど、キスをする時にはいつも照れたように口を歪ませるところも。
分かったんだ。
女々しくてバカで可哀想で可愛い彼。
縋る手に、しょうがないなぁ、そう思って付き合い始めたけれど。
そう思いながらあたし、元カノみたいに恋されてみたかったんだ。
一途に、ちょっとうっとおしいくらいの重さで。
あたしに「付き合って」と言っておいて、元カノへの気持ちを隠せない、不器用さに少しずつ悲しくなりながら。
あたしも、彼にそんな風に想われたいと思ったんだ。
叶えるのは難しい願いだと、気付くのにちょっと時間がかかったけれど。