α、3度目の秋。(失笑)
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それはファンタジー。 【※閲覧パスはプロフを参照!】
Fragment 08.
智美は中庭にいなくて、3階の渡り廊下を見まわしていたところでちょうどチャイムが始業を告げた。
私は誰もいない四角い庭を見降ろした。
今日も変わらずそこにはよくわからない石碑が立っていて、よくわからない文章が刻まれている。
日が傾いて陰った草地の真ん中では、移り変わる季節がひんやりと澄んだ風を吹かせていた。
6限目が始まり生徒の賑やかさが遠くなったところで、ふと思いついた場所があった。
行こうと思わなければ偶然には通りがかることがないところがある。
私は来た道を戻り、階段をのぼった。
足音で気付いたらしく、踊り場のコーナーを曲がった瞬間にピンク色のミニタオルがすっ飛んできた。
顔を上げると階段の最上段に智美が座っている。逆光で一瞬、目がチカッとする。
智美の背後は、屋上から射し込む西日がガラス扉越しに眩しい。
「おせぇよバーカ」
智美はタオルを投げてしまった手で代わりに口元を抑えていた。
もう片方の手がポケットをさぐって、今度はiPodが飛んできた。本体にぐるぐると巻かれていたイヤホンの先が空中で少しほどける。
それを両手でキャッチする。いつも私の役目だ。
「何してたんだよ、来んな、来んな」
みんなを虜にする可愛らしい声は小さく小さく呟く。
隣に座ろうとする私を押し返すように叩いている。それでも智美の強さは私には及ばない。
「ほら冷えるで」
私は教室から持ってきたブランケットを彼女の腰のあたりにかけて、包むようにその端を冷たいタイルの床に敷き込んだ。
教室でじゃれあうギャル達がこういう時うらやましくなる。
どう触れたらいいのかわからないから、何も気にする必要はないのに手元がぎこちなくなって、それを悟られないよう余計に気を遣う。
そっとポケットティッシュを差し出すと、智美はそれを掴みとって鼻をかむ。その仕草すら上品だから困ったものだ。
智美はすっきりした鼻から空気を吸い込んで、はあ、と熱いため息を吐いた。
ちなみにティッシュは丸めて階段の下にポイした。飛んでいった軽いティッシュ玉は空気の抵抗に負けて力なく落ちた。踊り場にすら届かない。
智美は時々こうなる。
情緒不安定で突然陰鬱になって塞ぎこむ。
そして発作のような悲愴に襲われると、彼女はロボットのようにこの言葉と溜め息をくり返す。
「どうしたらいいんだろ」
一緒に持ってきた自分のブランケットも智美にかけてやった。
短いスカートから伸びる脚の素肌が隠れる。
「会わなきゃよかった」
主語がなくてわかりづらい言い回しには、もう慣れた。
私が見当つけられるのを見越して、智美はいつもわかりにくい言葉にする。
「明日香さん?」
しゃくり上げる泣き声が少し増した。
見当した通りだったらしい。智美は下唇を噛んだまま小さく頷いた。
それからしばらく黙っていた。
言葉にならない何かが胸につっかえて苦しいことはよくわかっている。
階段下すぐの教室が急激に静かになった。グラウンドを使ってクラスレクをするらしい。一年は気楽だ。
騒がしさが離れていって取り残されたもの。
日常のいろんなものに囲まれて、埋もれて、気付いたらそこに在ったことも忘れてしまってたような静けさが、私たちを特別な空間に居させてくれるようで心地良い。
氷が溶けだすように昏々とあふれ出す涙は、拭われることなく智美の頬を伝っていく。
「好きなの」
頭を殴られて血流も思考回路も止まってしまったみたいにヒンヤリとした感覚が私の中に充満した。
「明日香が、好きなの」
智美を知るたびにいつもドクンと心臓に異物が入ってくる。自然な流れをせき止めるみたいに。
私は「うん」と相槌を打ってから、言葉を必死に探した。
もう一度くり返したその声色が切実で、智美が口にした「好き」の意味の重さに気づかないふりなどできなかった。
「どういう感じなん?付き合いたいってこと?」
「そーいうんじゃない」
その気持ちを何と表現したらいいかわからないから言葉にすることができない。言葉にならないから共有できない。
でも、確かに在る。
なんて言ってあげたら智美の気持ちが楽になるかなんて検討もつかなかったけど、とにかくもっと話を聞きたかった。
「指輪しとったな」
思わず見とれてしまった大人の女性の、第一印象だった。
文化祭の日に明日香さんが薬指に指輪をしていたのをはっきりと見た。
「カレシがいる」
「そうなんや」
「高2の時からずっと」
「長いな」
「いい人?」
「知んないそんなの」
智美の穏やかになっていた感情がまた高ぶった。
あごの先から涙がしたたり落ちた。
ほんまに好きなんやな、と言いたいのをぐっと抑えた。言ってしまったら負ける気がした。
「でも智は明日香さんとずっと会ってなかったんやろ?」
「会いたくなかったんだもん」
やわいところを突いてしまったらしく、智美はまたしゃくり上げて泣き始めた。
膝の上に重ねた手におでこをつけて俯いている。
こういう複雑な気持ちを想像しきれない時、私はなにか人生の中のとても大切な過程をすっとばしてきたのではないかと思う。
そうなるのは決まって智美のことを考える時で、
目の前で流れる生きた時間がすりぬけていくのを感じずにはいられない。
それが智美を大人びさせて見える魅力であり、私はひとりだと強調するチクチクした棘の結界のようなものでもある。
「とられたみたいな」
大きく深呼吸した後の第一声はとてもはっきりと耳に届いた。
答える口調は、言葉が涙で濡れてにじまないように早く短い。
「大事な人をとられたみたいな。
でも恋人でもないし、普通の友達でもないし、ずっと一緒にいたのに家族でもないし。
明日香って私の何なんだろう。昔からずっとそうなの」
「親友?」
智美は答えない。
明日香さんはいつも智美の傍に居てくれた人だ。
「私ヘンかな」
私は首を横に何度か振ってから、ようやく「そんなことない」と声を出すことができた。
自分じゃない自分の声がした。
幼なじみでもそんなもんなのか。
私は心のどこかでほっとする。
智美が泣いている横で、私は私のポジションがあることをきちんと把握する。
こんな姑息な気持ちを抱いてることを、彼女はきっと知らない。
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