河西さん卒業おめでとう。
私も気持ちにひとくぎりつけられたので進みます。
そういうわけで、溜めてたものを出してゆきます。
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それはファンタジー。 【※閲覧パスはプロフを参照!】
α
Fragment 07.
事件は5限目に起きた。
智美のことだから森鴎外の『舞姫』なんかとっくに読んだことがあるのだろうけど、それでも現代文の授業はいつもきちんと受けている。
それが、その日は違っていた。
智美は朝から具合が悪そうだった。
突然涼しくなったせいかもしれないし、生理周期が近づいてるせいかもしれない。
とにかく、彼女は授業が始まってからずっと伏せ寝をしていた。
そこに教師の雷が落ちた。
「おい河西!いい加減にしろ!」
ガラス窓さえも震わす怒鳴り声に、クラス全員が肩をすくめた。
紺やグレーのカーデガンを着た色とりどりの生徒の上半身が、ざっと窓際の列の真ん中、智美の席へと向いた。
当の本人はというと、むくりと顔をあげて眠たそうな目は半開きのまま、茶色い髪をかきあげている。
現代文の教師でありうちのクラスを受け持つ担任であるこの教師は、生徒に厳しくとも滅多に声を荒げることのない人だった。
いつもは寡黙でいかにも文系らしい白い顔を、血を沸騰させたような赤にしている。
それだけに教室に張りつめた緊張感は異質だった。
どうしてそこまで智美に対してキレているのかわからないけど、教師には教師なりの事情があるのかもしれない。
本来なら全員が揃うはずの教室に、ぽつりぽつりと空席が目立ち始めている。
本当に学ぶべき生徒が、次第に制服を着たまま朝から晩まで予備校に入り浸るようになる、秋。
教室には、指定校推薦なり専門学校なりで進路が決まり、次の試験のための勉強ごっこをしていればいい者の比率が増えてくる。
受験生が神経質になっているように、教師もピリピリしている。のだろう。きっと。
「寝てるんだったら帰れ!」
ポカンと開いた口、見開いた目が塞がらない生徒たち。
文字通り、怒りに震えて最後の一声をあげた教師。
立ちあがった智美の膝の裏が、ガタンと音をたてて椅子を後ろに押す。
椅子の背のパイプが、後ろの席の私の机にガンとぶつかって、小さく反響して震える。
そこに、智美の背中にかかっていたブランケットが落ちて、私の手元を隠した。
なんだなんだと教師は怪訝そうに構える。
愛娘に初めて反抗された父親のように、それまでの平穏が破け散ったことが信じられないといった表情だった。
どうやら2人の目は合っているらしい。
智美は怖い顔してるんだろう。
なんてったって低血圧で、寝起きの悪さは最悪だ。声が低くなるし目つきだって怖い。
でも、悪意はない。
「っせーな」
「おい!」
一瞬の隙をみて足早に智美は席を立った。
肩を掴み損ねた教師の腕が、宙で迷子になった。
「待ちなさい!」
よろめいて教卓にぶつかりながら、教壇を越えて智美は教室を出ていった。
丁寧にドアをきちんと締めた。
寝起きのせいでふらふらしているように見えた。
廊下側最前列の席に座る小さいほうのみなみが、
教師の視線が手元の教科書に戻ったところを見計らって、少し机を前進させた。ドアをほんの少しだけ開けた。
前かがみになって、そのわずかな隙間を長いこと覗いていた。
主を失って脱力したブランケットを大きくたたみ、智美の椅子の背もたれにかけた。
私は困惑したまま彼女のような派手なアクションを起こすこともできず、残された20分間、いい子ちゃんのまま机に座り続けた。
次の6限はホームルームだった。
センター入試まで100日を切ったこともあり、自習。
授業でブチギレした担任は規律の厳しい人だから、例外になく、読書しながら教壇から生徒を監視するんだろう。
先ほどの事件によって帯びた異様な緊張感は10分の休憩時間中には抜けきりそうもなく、
この後の60分はなにか各々の作業に徹しなければいけないような空気が漂っていた。
智美は突発的に教室を飛び出したからケータイを持っていなかった。
休み時間に見当がつく場所を探しにいこうと教室を出ると、廊下でしゃべっていた小さいほうのみなみが駆け寄ってきた。
「有華、ゆか」
スカートの下にジャージを履いた脚にさらにブランケットを巻いている。ちょっと走りづらそう。
「智さんさっき泣いてたから」
あーそうか、みなみ、廊下みてたもんな。
ドアの隙間を覗きこんだ後は何事もなかったように教科書を眺めていたけど。
「あっちの階段あがってったよ」
「おお、ありがと」
みなみが目で“よろしくね”と言った。
もちろん、最後のSHRが終わるまで戻るつもりはなかった。
智美といえば有華。
近寄りがたいオーラを放ってしまう彼女とみんなとの間を仲介できる。
そんな頼られ方が心地良い。
今まで誰かとこんなに親しくなったことがなくて、ちょっと大人になれた気がする。
そんないちばんの友達のピンチとあらば、私しかいない。
智美を助けることで、自分がここに存在していていい理由を確かめている。
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