りえ と りの。
α 06.
α
Fragment. 06
時間を忘れるほど夢中になれる別世界。
静けさがほしくて、誰よりもはやく教室に入る。
そのためなら早起きだって苦じゃない。
「三文の得」の三文はお金のことだけど、早起きして得なことを三つ挙げるとしたら、
遅刻しない。
読書できる。
そして、たよりないトロンボーンの音。
ゆっくり拍を刻むメトロノーム。
じっくり伸ばされる音階。
その間の4拍の静寂で、自分に近づいてくる足音に彼女は気がつく。
まっすぐだった音が少し揺らいで、金色のトロンボーンの伸ばされたスライドがこちらにぐるっと向きを変える。
目が合う。
「おはよう」
莉乃はロングトーンを続ける。
ゆっくり8拍を伸ばし終えてから、「おはよう」もなしに唐突に切り出す。
「自信ない」
「どうしたの?」
「これ」
莉乃は譜面を指さす。
無数の書き込みでぐちゃぐちゃになっている。
よくみると、そこに書き込まれた文字はどれも、莉乃の文字ではない。
何重にも丸で囲まれた音符の列、強調された大きな「く」の字……
莉乃が指した先には、一番に強調されている、蛍光色のマーカーで囲まれたフレーズ。
「“solo”じゃん!!いつ吹くの?」
「再来月」
コンクールでは、時間制限に合うようカットした譜面を演奏した。
それを秋の音楽会でもまた演奏することになったけれど、ソロパートを担当していた先輩が引退したため2年生にバトンがまわってきた、ということらしい。
音楽会は平日に行なわれる。
つまり今年も1日、莉乃は学校を公欠するわけだ、と里英は思った。
「文化祭でやってくれたら聴けたのになあ」
「こんな曲、文化祭じゃできないよ」
レスピーギの「ローマの祭り」は、「ローマの噴水」「ローマの松」との3部作の交響曲でも最後を締めくくるメジャーな曲。
トロンボーンのソロは、お祭りに浮かれた酔っ払いがイメージされていて、
全体的にシリアスで壮大な印象の曲の中では、途中で和やかさをみせるパッセージとして大切な部分でもある。
「ゆきりんがやればいいのに」
細い指が五線譜をなぞる。
莉乃からぽろぽろと吐き出されてくる嘆きの言葉に、里英はうん、うんと頷く。
「チャンスだよなんて言われたけど、なんのチャンスだか…」
だぼだぼのジャージを着た体が、より小さく見えた。
ゆきりんこと柏木由紀は、莉乃と同じトロンボーンパートの同じ2年生。
隣のクラスだけど、去年1年生のときは里英と同じクラスだった。
夏のコンクールが終わって3年生が引退すると、由紀は部長になった。文化祭の学内ステージが新しい幹部での初仕事だった。
部長候補だった部員の突然の退部騒ぎ。
病んだ莉乃に、里英が召集されたのはついこの間。
夏休みが折り返して、課題をどうにかしなきゃと机にそびえる問題集の山を切り崩し始めた頃だった。
ファストフードの1番奥の死角の席で、シェイクを啜りながら延々と話を聞いた。
もうカップには啜るものが残っていなくなっても、堂々巡りの莉乃の話は止まらなかった。
「じゃ、私いくね」
吹奏楽もオーケストラもやったことはないけれど、音楽鑑賞は好きなほうだし、傍にいて聴いてあげられたらなと里英は思う。
でも、自分がいると莉乃の練習が進まないのはわかってる。
2年の教室は、ひとつ上の3階。
廊下の角を曲がって階段に脚をかけたタイミングでロングトーンが再開した。
*
「せんぱーい」
本の世界を妨害されるほど不快なことはない。少なくとも里英にとっては。
でも、ともみ先輩は違う。
「せーんぱーい」
「ん?」
学校一の美人さんは、図書館にやってくる誰に挨拶をされても嫌そうな気配なく、きちんと返す。
そしてにこにこと他愛もない会話をして、相手が去ると何事もなかったように活字の散歩に戻っていく。
そんなクールなところが綺麗な外見とのギャップになって、もっと知りたい、仲良くなりたいなと思う。
「ちょっといいですか?」
放課後の図書室には、里英と智美の他には誰も居ない。
いつもはまばらに生徒が来ていたり、コピー機に列ができたりするが、この日は2人しかいなかった。
若者の活字離れは着実に進んでいるらしい。
智美は読みかけのページに栞をはさんで本を閉じた。
この前と同じ、三浦しをんの新刊を着実に読み進めている。
先週おわった文化祭。
その最終日、里英は3年生の智美の頼みで図書室を開けた。
文芸部の出し物は部室で行なったから、文化祭期間中は終日閉室なのだけど、
智美が「どうしても匿ってほしい」というので先生にお願いしてこっそり鍵を受け取りにいった。
この秋から図書委員長を引き継いだから、先生はまじめな仕事をする里英を信用していた。
ただし、開室していることが公に知られてしまうのはまずいということで、
内側から施錠して、電気もつけられないという条件付きだった。
それでもまだ日は長いから不便するほど暗くはないし、図書委員しか入れない準備室は空調を付けることができた。
3年生の智美は何度も里英にありがとうを言った。
12時をまわった頃に智美がやってきた。
ずっとひとりでいた里英は、「おひる買ってきてよ」と智美から財布を渡された。
クラスで催す劇の宣伝のために校内を徘徊していたからそのついでに買ってきたかったのだけど
見慣れた男子生徒が何人かいたために、体育館に近づけなかったらしい。
何が食べたいかを尋ねると、バスケ部の焼きそばと智美は答えた。
「りっちゃんも好きなのも何か買っておいで」と、立ち去り際に告げられた。
アナスイの長財布を握り締めた里英は、嬉々として体育館前に向かった。
こんなに充実感を覚える使いっぱしりは初めてだった。焼きそばを1つと、2年生のクラスが開いていた(厳密にいうとコスプレをしたメイドがいる)喫茶店でクレープを買った。
仲のいい友達はいる。萌乃とみゃおと、4人で仲良くしている。
2人とも部活はやっていなかったし、所属している文芸部もそんなに拘束される活動内容ではないから、
みんなでクラスの手伝いを進んでやった。
休みの日も学校へきて作業を手伝った結果、文化祭当日の仕事分担が軽くて済んだ。
だから、1日の大半を図書室に入り浸って過ごしていても問題がなかったのだ。
クラスがつまらないわけではなかった。
けど、莉乃は吹奏楽部のステージ準備でいつもいなかった。
厳しい部だったからクラスの人たちも理解していたし、文化祭中はそれが当たり前だった。
莉乃とは特別におもしろい会話をするわけでもなかった。
けれど、莉乃がいないとぽっかりと穴が空いたようにつまらなかった。
どこか法外な雰囲気を放つともみ先輩が、その空白を埋めてくれると里英は感じていた。
自信の持ち方や、落ちつき具合は似ても似つかないけど、
そんな相反する莉乃と先輩の2人は、里英にとってどういうわけか大きな存在として重なっていた。
里英は智美の向かいの席に座りかけて膝立ちして、机に身を乗り出した。
閉じた本の上にケータイを丁寧に乗せながら、智美は里英を見据えた。
「なあに?」
ちょっと声を小さくして事情を説明する。
中庭を挟んだ向かいの窓から、賑やかな遠くの音が入ってくる。
「なんて言ったらいいかわからないのですが」
「どうしたの?」
「単刀直入に申し上げますと」
「うん」
「えーとですね」
「うん」
里英はさらにもう1段階、声のヴォリュームを下げた。
聞きもらすまいとして智美も身を乗り出し、距離が近くなる。
2人きりの図書室で、話を聞いている人など他に誰も居ない。
「大事な人のために何かしてあげたいじゃないですか。嬉しいじゃないですか」
「うん」
「でも私なにもできないんです」
「…あのさ」
「はい」
「ぜんっぜん単刀直入に申し上げてないんだけど」
智美は眉間を押さえて、呆れたように笑みを浮かべた。
「ほら。ぶっちゃけなさい」
諭すように言う。
里英はその声の愛撫に耐えきれずに、一度大きく息を吐いた。
「友達が悩んでるのに何もしてあげられないんです」
「カレシじゃないの?」
「ちっがいますよ!」
智美は否定の返事をわかっていたように続けて「クラスの子?」と問う。
里英は「はい」と答えた。
「どうしたらいいですかね…」
「何もしなくていいんじゃないかな」
智美は手を机の縁にかけて、腕を突っ張って伸びをした。
「どうしようもなくなった時に助けてあげればいいんだよ」
「でももうすでに悩んでるんですよ。部活の事で。
私は何も知らないし、何もできなくて。
でも最近本当に落ち込んじゃってて、見てるこっちもつらいんですよ。
あの子秋ニガテなんです。
去年も何もないのに気が滅入って痩せちゃったりして…」
「好きなんだね」
そう言って瞳を捉える智美の眼差しに、里英はぞくぞくとした心地の良さを覚えた。
自分でもわからない心の中に隠れてるなにかを、先輩はすっかり見透かしているような気がした。
智美は手元をぼんやりと眺めたまま、整えたケータイの位置を確認するように無意識にいじっている。
「見守るというか、ただ居てあげるだけというか。それでいいんじゃない?」
「でも問題は解決しませんよ?」
「じゃあ部活の問題をりっちゃんが解決できるの?」
「できないです…」
そう。そうなんだ。
いつどこでどうやって解消されるかわからない小さい問題をいくつも抱えながら、私たちは生活しないといけなくて、
いろんな人の気持ちが絡まって複雑に入り組んでしまった現実を堂々巡りすることしかできない。
「っていうか、単にりっちゃんがその子の近くに居てあげたいだけでしょ?」
「自分の為ですか?」
「そう。親友なんでしょ?」
里英は曖昧に首を縦にふった。
おしゃべりしたり、お昼を一緒に食べたり、ときどき一緒に帰ったり、帰りに駅で話し込んだり。
莉乃との関係に“親友”という言葉を当てはめたことがなかった。
“大事な友達”というと、そういうことになるのだろうか。
「親友って、何もしてあげられないもんだよ」
図書室が急に静けさで満たされた。
不安でいっぱいになってしまった時、ストレスに疲弊してこうやって本音が出る。
同じ迷路の中を行ったり来たりしかできないからこそ、そこに残った自分のぐうの音のひとつひとつを、ダイヤの原石を探すように見つめていなければいけない。
そんな単調にくり返す荒い波の中に、どうやったら立っていられるか。
里英の隣には莉乃がいる。
莉乃にとっての里英も、きっとそうであるように。
そんな単調な確認をくり返すことしか、できない。
Bドゥアーのロングトーンが聞こえてきた。16時10分になった。
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