例えば、他人にとっても余計なことをした時。

それが自分にとって、ものすごく頑張ったことだとしたら。


まあ、ワタクシはよくあるんですけどw


すごい勢いで自己嫌悪に陥ったりするけど、その自己嫌悪は必要なのだろうか。


そんなことを疑ってみる。


疲れていると余計に自己嫌悪へ急降下。


もっと無関心に生きられたら、と思う。


それはもう、自分じゃないけれど。


気遣っている風のイチャモン。

疲労していると、そんなことすら心が折れるよ。



こんなことばかり考えてるから、帰宅する頃にはぐったりなのね。


何もしてないのに。



アタマのぐったり感が半端ない。


休みが嬉しくて唐揚げ買ってしまった。

昼のカップラーメンで胸焼けしたのに。



無駄なことなんて何一つないというなら、穴を掘ってまた埋めるというような行為にも価値があるのだろうか。

それを他人にやらせて反感を買っただけだとしても。


自分だけなら消化したら良い。

他人の気持ちは消せない。

だからこその謝罪で償い。

それは、この世界に価値があることとないことの定義がはっきりしすぎているからだろうか。



他人の気持ちは、その人次第か。

こっちが仮定することじゃない。

それじゃ、配慮と仮定の違いはどこなのだろうか。


そのときの100%で相手のことを思えば配慮なのか。

そもそも、配慮と仮定に優劣や善悪があるのか。


それなら、基準はなんだ。


やはり心なのだよね。


そう、心。



朝起きてから寝るまで、だいたいこんな感じで考えてます。

放っておけば延々、こんな感じ。




そら、毎日ぐったりするわ。