夜は青い闇に満ちていた。その青いのに、美しくも荒々しく、色を添えるは稲妻。人間が彼らを恐れおののいても、少年はへっちゃらでした。彼らの美しさが夏の夜の楽しみだったのですから。
雨音や雷鳴は、合唱のように貫き轟きます。窓の外には出ていけないよ。と、大人に言われていた少年は、ちゃんと約束を守っていました。でも、やっぱり外に出て雨を浴びながら稲妻を直に見てやりたい、少年はその思いを忘れず、抱えていました。
「だれか、ぼくを空の下へ放り出してくれないかな。」
こんな風に、少年は夏を喰い殺していったのです。
ある年の夏は、少年の思うようにはいかない夏となりました。
「しょうがないだろ。ほら、空を見てみなよ。満天の星空だ。あっちには天の川だって見える。ね、悪いことばかりでないだろう。」
「君は星が好きだからそう言えるのだよ、外に出て星を見るのが好きだから言えるんだ。でもぼくはどう。ぼくは部屋に閉じ込められるんだよ、大好きな空さえ見れずに。」
星の好きな少年を洸太、稲妻の好きな少年を天谷といいました。天谷はいつだって窓枠に腰をかけてひどい雨を愛おしく見つめ、時折輝く天空の覇者を、煌めく眼で見ていました。洸太は反対に晴れの日が好きで、中でも星の綺麗な空気の澄んだ日には、朝の、太陽が昇っているうちから望遠鏡を用意して待っているほど。二人とも互いに好きな空が違いましたが天文部です。
「天谷、天谷はどうしても星は嫌いか。」
「どうしてそんなことをいうんだ。別に、星が嫌いなんじゃなくて、稲妻に勝ててないだけ。」
「なんだ、そんなことか。」
「案外理由なんて、そんなものさ。」
ふうん、ともうその話題に興味なんてないような顔をして洸太は星座早見盤をくるくると回しました。そんな洸太の様子に自分の話がつまらないのだろうかと自己嫌悪して、ふと母親が自分に持ってきた果物籠の存在を思い出しました。
「なぁ洸太、洸太。あそこに置いてある果物籠をとってくれ。」
「命令口調やめろよ、時期部長は俺のはずだぞ。」
頬を膨らませ不機嫌な洸太に、部長だとかそういうの関係ないじゃないかと思いながらも天谷は洸太の肩に手を置いて、頼むと言ってみました。しょうがないなと肩を落とし、しぶしぶ立ち上がった洸太は右手に果物籠をとって、そのまま天谷に渡しました。
天谷は嬉しそうにすこしだけ口の端を上げて、でも洸太が見ているのを思い出し、照れながらぶっきらぼうに籠をひったくって、かけてあったハンケチを取りました。中には、バナナ、葡萄、林檎、柘榴。季節外れな、とその籠をもったまま天谷は考えました。そんな天谷を心配したか、それとも単純に果実を頬張りたかったのか。今度は洸太がうずうずと、右手を天谷の肩に乗せます。
「天谷、俺、柘榴がいいな。」
「ふぅん、柘榴なんて食べれたんだ。」
「なんだ、いいじゃないか。天谷は、いつも通りバナナなくせに。」
洸太は肩に乗せた手を、そのまま籠に伸ばして柘榴を掴むみました。いいじゃないか、バナナでも。と、天谷は洸太の手がどいてから一本のバナナを手に取りました。
夜も、もう更ける時間に差し掛かろうとしています。そろそろ俺も帰ろうかなと、洸太は自分の鞄を体の近くに引き寄せました。
「そういえば、なんでぼくの家に泊まりたいだなんて言い始めたんだ。家、隣じゃないか。」
「隣って言ったって、ここ田舎だし。それに、天谷の家の庭って広いから。もっと近くに星が見えるんじゃっておもったんだ。まあ、天文部の合宿って名目にしてくれ。」
「ちっ。」
「舌打ち、似合わないぞ。」
感じ悪い。天谷はそんな風に言われても、どこか洸太を許すことはできなさそうでした。
というのは、天谷の天気予測が、天文部でも随一のもので、特に、雨だとか、雷、ゲリラ豪雨なんかは外したことがなかったのです。それは、天谷が一人家にいたい時を狙って、天が呼応してくれている特殊な能力をもっているような、そんな自信さえも持ち合わせるほどです。しかし、洸太が泊まりに来た、その日、つまり昨日から今日にかけての一日は、一番派手な落雷が落ちてくるはずの予測だったものですから、この星空が、洸太が余計許せないのです。
洸太さえ、来てくれなければ、もしかしたら雨だったのかもしれない。なんて馬鹿げた発想が思いつくほど、その年の夏はゲリラ豪雨はまだしも、夕立すら起こらない、天谷にはとても退屈な夏でした。
「見ろよ、天谷。あれ、雨雲だ。なぁ、外に出て見てみようぜ。」
「雨降って来たら母さんが怒るし、それに洸太、帰りが延びるだろ。」
「いいじゃん、天谷の予測だと降らないんだろ、それに俺、晴れ男だしさ。」
俺がいれば外に出たって構わないだろうよ。と、洸太は今まで抱えていた天谷の外に出れないというフラストレーションがまるで無意味だというような口調で、天谷にそう言ったのです。気に食わないんだろうな、と諦め半分で洸太は言ったのですが、しかし天谷は意外と乗り気で、自室の襖をあけました。
「洸太、信じてるからな。ぼくは、ずうっとずうっと待っていたんだ。」
天谷の色素の薄い眸はらんらんと輝き、まるで子供のような。いや、子供ではありましたが、本来の輝きを取り戻したかのような、そんな様子です。いつもは、大人ぶって生意気な口調の天谷が、自分の提案に乗りあまつさえ子供のようにはしゃいでいるのをみた洸太は、どこか、天谷の手綱を握ったような、彼を支配したような、そんな満足感で満たされ、近づいていた雨雲の存在をすっかり忘れていました。
それは突然、地面を揺るがすように襲いかかって来ました。
丁度二人が外に出て、星の美しいのに感心していた、その時です。雨雲が天上を覆い隠すと、しばらくしてぽつりぽつりと小雨が、そこでやめていればよかったのに、天谷が動かず、洸太はそんな天谷を急かして、しかしもう手遅れでした。
瞬く間に、その雨は大粒のドロップに姿を変えて、無防備な二人を襲って来たのです。
「家にはいるぞ、天谷。こんな大雨、生まれて初めてだ。どうなるかわからない。さっさと風呂にでも入って寝てしまおうよ。」
「いやだ、だってこの雨をやっとこの身で受けられるんだ。こんな機会二度と無いって。ぼくは、待ってた。雨の強い夜の空の下に放り出されることを。おまえだったんだね、洸太。おまえが、叶えてくれたんだ。」
天谷は、とびきりの笑顔を洸太に向けて、それから空を仰ぎ見ました。整った顔を、雨粒が殺して行く。ずぶ濡れで、ぐちゃぐちゃになってしまった天谷の顔を、洸太は残念そうに見つめました。
そして、洸太は動きました。
あぁ、せめて、雷鳴が轟く前に助けなきゃ。天谷が、どこか手が届かない場所にいってしまう。不安は凄まじいスピードで彼の思考を食い潰して、ただ一つの結論に導きました。
「天谷、俺は確かにおまえを誘ったし、おまえに空を見せたいと思った。でも、駄目なんだ。このままじゃ、駄目。」
天谷を取り戻したい一心が、洸太にありました。
「洸太、いいじゃないか。雨をぼくは始めて見るんだから。あともう少しだけだから。」
「稲妻が落ちたら、取り返しがつかなくなる。」
「イイ。ぼくは、彼らの、うつくしいのが、大好きなんだよ。」
「よくない、俺はよくないんだよ。空がすきなお前が、空に殺されるのを、みたかない。」
洸太が説得しても、天谷は聞く耳を持ちません。実力行使しかない、と洸太が天谷の肩をつかみます。体はとても冷たく、雨に濡れてぐしょぐしょです。洸太は天谷の体を抱きしめ、ぎゅうと力をこめると、即座にその場から離れました。
無理やり動かされた天谷、少しは抵抗をしたものの、次第に、洸太の鼓動だとか、肌の温度だとかで、落ち着きを取り戻しました。それから、雨でずぶ濡れになった自分の身体にはっきりとした恐怖を覚えました。
あの憧れていた、空の下に落ちると、こんな目に会うのか。
天谷はどうすれば、空への夢に終止符を打てるのか。考え、その考えついた先が、稲妻でした。
天谷はあらん限りの声を、空にぶつけてやりました。
「雨雲よ、大粒の雨を降らしているならば稲妻の一つでも見せてみろよ。ぼくは雨がすきだけど、それ以上に稲妻がすきなんだ。」
ばか。洸太の言葉は、雷鳴に掻き消されました。
彼らは、天谷の声を聞き届けたかのようなけたたましいもので、それが、どこに落ちたかをも、わからなくするような。そんな凄まじさ。
にやぁ、と天谷は笑いました。
なんだ、やはり、やはりそうだった。ぼくのすきなのは、変わらず彼らの空でよかったんだ。
洸太との手を解いて、庭に出た天谷の顔には恐怖はなく、夢焦がれた空への飢えと渇きがあるのみです。
空を裂くかのような稲妻は、四方八方あらゆるところに落ちていきます。学校に、高台、山の一本松、その全てに落ちて行く様を、恍惚の表情で、ただ、見続けました。
洸太は天谷の隣で共に見ています。こうなる運命だったのだな。と諦めながら、しかし天谷から離れる気はなさそうです。
ようやく天谷の望んだ夏がやってきました。夏休みもあと少し、彼らが課題を終わらせて手持ち無沙汰になった。そんな日の夏でした。
ああ、また。また光ったよ。天谷の嬉しそうな顔を見て、洸太は、光ったな、綺麗だな。と気持ちのない返事を、機械のように繰り返し、繰り返し、天谷に投げかけるばかりでした。