一等星が溶けていく。彼女の目の中に。
街の明かりがひとつ、またひとつ。点々と消されていくのを眺めていた。今夜はなんの祝い事か、まるで示し合わせたかのように上手く、坂の上から吹き下ろす風に合わせて順々に窓が目を閉じていく。
バースデーケーキの蝋燭が、夜の呼気に消されていくみたいだと思った。ならば、夜に生まれるのはなんだろう。そう思って見上げた空に、三日月が映える。
「魔法使いさん?」
ひとつ、またひとつ。夜に馴染んできた目の中で、星が並んでいるのが見える。春の夜風は寒くも温い。その下りていく風下から、夜に浮かび上がる白い坂を上ってくる声があった。
「……ヒカリ」
「ああ、やっぱり。こんばんは」
挨拶がてら目を擦っていた手をあげて、彼女は暗がりでも声色だけで微笑う。街灯もそろそろ角々だけを残して、眠るように消え入る頃だ。坂の下から見上げる彼女の目には、人影が誰のものかなど、あまりはっきりとはしなかっただろう。
最初に名前を呼ばれたことが、潮風に膨らんだ胸をわずかに温めた気がした。
「こんばんは。……今日は、遅いね」
「ええ、夕ご飯を食べに酒場へ行ったら、疲れていたのかうっかり転寝してしまって。ハーパーさんが、さっきまで寝かせてくれていたので」
「……じゃあ、今から帰り?」
「はい。まっすぐ帰ろうかと思ったんですけれど、月が綺麗だなって。振り返って夜空を見上げたら、魔法使いさんがいたんです」
潮風が、彼女の髪を浚う。月明かりに、額が白々と照らされた。風が強い、と独り言のように言いながら、立ち去る様子のない彼女に椅子を勧める。ごく当たり前のように、袖を引かれて隣へ座った。街灯から少し離れた、星明りのよく見えるベンチだ。
「……よく、分かったね? 俺だと……」
「なんとなく、そうかなって。ああでも、ふふ」
「?」
「よく考えたら、こんな夜に行き会うひと、魔法使いさんだけでした」
そこまで気がつかなかったなあ、と彼女は前髪を梳かして笑う。跳ねてる、と言えばどこですかと両手を広げられて、触れるしかなくなった。
そうだね、俺も君くらいだ。答えながら、まだかすかに室内の温もりを残している髪を梳く。直った、と言っていいのかどうか。そういえばいつもどこかしらが跳ねている気のする彼女の髪は、何を以ってすればあるべきようになったと言えるのか、よく分からない。
「今日は、何を見ていたんですか?」
「スピカ。……ああ、あそこだ」
空をぐるりと見渡して、ちょうど真横になった星を指し示す。隣の彼女は俺の肩越しにその星を見て、明るいですね、と確かめるように指さした。頷いて、その視線を追いかけるように、彼女のほうを向いていた目を空へと動かす。無数の眸のように星が散らばっている。一際輝くスピカに、分かっているよと心の中で、ゆっくりと瞬きを返す。
群青の夜に、星々の下で彼女と会うのが好きだ。同じ輝きに見えて日々微細な変化を繰り返す夜空の話を、彼女はとても楽しそうに聞いてくれる。そして俺は、どれほどその時間が楽しくても、忘れずにいられる。
この恋は、口に出してはならないものだということを。
「魔法使いさん」
「……何?」
「もしも私が、明日も来たいって言ったら、またここで会ってくれますか?」
星は、無数の見下ろす目のようだ。その目を見上げると、俺は思い出せる。自分が何者で、いかに長く、この夜空を見つめ続けてきたのかということを。
人間の一生は短い。彼女の時間は、俺のそれと重さが違う。むやみに奪ってはならない、尊いものだ。望まれるなら、俺の時間はあとどれほどでもあげられるけれど。
「……いいけど、君は朝が早い。あまり、無理をしないほうが」
「十二時までには、ちゃんと帰ります」
「……童話の、お姫様みたいなことを。……どうして、急に明日?」
子供のような突然の約束をねだられたのが、なんだか嬉しくもおかしくもあり。彼女の眼差しがひどく真剣で、その肩が震えていることに気づいたのは、笑いながら訊ねたあとだった。
「明日、だけのことが訊きたいんじゃないんです。本当は、私は……」
「……ヒカリ?」
「明日とか、明後日とか、そういうことじゃなくて。いつも貴方に会いたいし、偶然じゃなくても、そう言えるようになりたい」
海の片隅で、灯台がゆうるり、ゆうるりと光っている。彼女が何を言おうとしているのか、その先を推し量るまでに、わずかに時間を要した。
否、本当は気がついていて、けれどそんなはずはないと押し返してしまったのかもしれない。勘違いでも思い上がりでも、本当に望むなら、その口に手を当てて閉ざしてしまえばよかった。
けれど俺は、それをしなかった。
だから彼女は、その先を口にした。
「魔法使いさんのことが、好きなのかもしれないって思うんです」
躊躇いがちな言葉と裏腹に、まっすぐに見上げる目が、群青に穴を開ける。一等星が溶けていく。彼女の目の中に。俺の背中の向こうに。夜が目を閉じていく。星は初めから、何も見てなどいない。
ただ、俺がそうでも思わなければ、心を隠していられなかっただけ。
「俺、は……」
望まれるなら、あとどれだけでも。望むことはあっても、望まれることはないと思っていた。だから、黙っていられたのに。
夜空の沈黙が、傾いていく。一等星はゆらゆらと震えている。決断のときはどうやら、今。
スピカ・ジェラート
(その純粋は、猶予を許さない)