彼女の見つめる光に溢れた世界が、彼女の作る小さくも輝いたこの場所が、好きだ。
がしゃん、と大きな音がした後に、次いでカランだのゴトンだのと何か、ものが倒れるような音を聞いた。朝の黄色い光にはあまりに似合わないものを耳にして、ウォンは咄嗟に窓の外へ目を向けたが、そこからは何も見えない。
結びかけて離された髪がばらばらと落ちてくるのを振り払って、ドアを開けた。途端、目に飛び込む眩しい朝と、それから。
「…ったた…」
「……君は、何をしているんだ」
「あ、ウォンさん!どうしたんですか?」
空のバケツや倒れた農具の中心で膝を擦る、妻の姿。ヒカリ、と呼べばにこりと笑ってはい、と答えたその様子に、力が抜けていく。どうしたんですか、は、どちらかと言えば自分が問いたいほうだ。
まあ、大体の状況は分からなくもないのだが。
「それは私の台詞だよ。大きな音がしたから急いで出てきたのだが」
「あ、そうですよね。ごめんなさい」
「…違うでしょう」
「?」
「謝る相手が違う」
とん、と指を伸ばして、座り込んだ彼女の腹に触れる。あ、とようやくはっとしたような顔になる彼女を見て、思わず溜め息が漏れた。
全く、何度言わせれば気が済むのか。
「言っただろう、確かにまだ見た目には分かりにくいから、なかなか自覚も難しいかもしれないが」
「…はい」
「もう少し、自分を気遣いなさい。それが、君の為だけでなく、この子の為にもなるんだ」
大切な時なのだから、日常生活に気をつけろと。そろそろ両手の指で数えきれなくなるくらいは、言ったか。
あまり不安がらせてもいけないとそれとなく言うようにしていたが、はいと頷くくせに彼女の生活は前と変わらない。唯一変わったことと言えば鉱山に行かなくなったくらいで、それ以外は牧場の仕事から農作業から釣りまで、何も減らさずこなしているから、感心する反面こちらとしては気が気でないというものだ。
ごめんなさい、と。空の如雨露を握りしめて呟いた彼女の頭に、手のひらを載せる。ぱたりと瞬いてこちらを見つめた透けるような眼差しに、思わず苦笑が漏れた。
相変わらずだ。恋人になろうと妻になろうと、母になろうと変わらない。何もかもを見ようとするような、その眼差し。
出会った頃から、その真っ直ぐな視線にぴたりと射止められる感覚が好きだった。何もかもを見ようとする彼女の視界に映ることは、頭の奥を暴かれるような感覚でもあったが、それでもどこか嬉しかったものだ。
そうしてそれは、今でも変わりようがない。だから。
「ヒカリ、君が何をしようと、余程のことでない限り私は止めないよ」
「ウォンさん、」
「君に、君の大切なものを捨てさせたり、諦めさせたりはしたくないのでね。だから、」
「?」
「今度からは、遠慮なく私を呼びなさい」
萎れていた苺色の眸に、ぱっと明るさが戻る。重症だ。一人の命ではないのだから体を第一にしなさいと叱ることすらできない医者など、笑い話ですらない。
だが、仕方ないではないか。こんなたったの一言で一喜一憂されては、それなら何とか笑っていてくれる言い方はないかと、思ってしまうのだって。
彼女の見つめる光に溢れた世界が、彼女の作る小さくも輝いたこの場所が、好きだ。そう、彼女には恐らく、大切なものが多すぎる。
けれど、自分はそんな彼女だからこそ目を奪われた。それならば。
「手のかかる妻だね、君は」
「ふふ、ごめんなさい」
それならば、自分が手を貸せばいい。その世界が、彼女の作るこの小さなすべてが枯れないよう、そしてそれらを見つめる彼女と、まだ呼び名のない命が萎れないよう。今少しの間、手を貸せばいい、なんて。
ずいぶん甘い医者になってしまったものだと一人思いながら、未だ座り込んだままの彼女へ、手を差し伸べておいた。
水を与える
(その目に映る世界に花を、)