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カタワラニテ


秘密の言葉をほんのいくつかと、変わりない明日をひとつ。



「こんばんは、魔法使いさん」

それはまるで風の音や川のせせらぎのような、物心つく前から聴いてきた音のように。ことり、自然に耳の奥へ落ちて、心地好く滲む。

「…こんばんは、ヒカリ」

もっとも、風の音は過ぎれば煩いとも思うし、せせらぎにこれほど心が騒いだこともないけれど。でも、例えるなら彼女の声はそういうものに似ていて、傍で聴こえるとどこか、満ち足りた気持ちにさせてくれる。
くすり、つくづく矛盾した不可思議な感覚だと声に出さずに笑えば、こちらへ近づく彼女は小さく首を傾げて、それから自分も同じように微笑んでみせた。ベンチの左側はいつだって空いていて、今日も彼女は当たり前にそこへ当てはまる。

「…仕事は、終わった?」
「はい、今日の分は」
「…お疲れ。…最近来るのが早いから、少し、心配した」
「ふふ、大丈夫です。頑張ってるんですよ」

解けた靴紐を結び直しながら上機嫌に答えた彼女は、少し曲がった蝶を指で直して、顔を上げた。それにね、と、お伽噺でも語るような口調で彼女は言う。いつだって、そうだ。

「やっぱり、去年は初めてでしたから、色々失敗も多かったんですけれど」
「……」
「今年は思ったより、うまくいってるんです。ね、魔法使いさん」
「?」

いつだって、そう。


「覚えてますか?去年の今頃、初めて会ったんですよ」


いつだって彼女は、奇跡を語るかのように日常を笑うのだ。今日の空には雲があった、なかった。牧場の畑には何が咲いた、実った、歩いた。それらはどれも他愛ない、と言ってしまえばそれだけに過ぎなくて、けれど俺はそんな話を流れるように聴いているのが好きだ。否、好きになった。いつの間にか。

「…覚えてる、勿論」
「私もです。ここで会いましたよね」
「…うん、君は」
「?」
「……もう少し、髪が短かった、かな」

お隣、いいですか。初めて会ったときの会話は、確かそれだった。どうぞ。拒む理由もなかったから、そう答えた。
名前と挨拶。それからほんの少しの、会話。それ以外には、ただいつも通り夜空を見ていたことしか記憶にない。
また来てもいいですか。彼女は帰り際、そう訊いた。どうぞ。拒む理由もなかったから、そう答えた。

さらり、肩を薄く覆うようになった無花果色に、無意識のうちに手を伸ばす。ふわふわと指に纏わりつくそれが頬を掠めれば、くすぐったいと言って彼女は目を細めた。
あれから一年。どうぞ、と言ったら当たり前のようにそれじゃあまた明日、と言い残して行った彼女は、今もこうしてここにいる。変わったことと言えば少し髪が伸びたことと、牧場が立派になったこと、それからもうひとつ。

「それじゃあ、私はそろそろ帰りますね。また明日」
「…うん、また」
「はい」

立ち上がりかけた彼女の手を軽く引けば、少し躊躇いながらも、当たり前に触れて離れる唇。どうやら俺にも彼女にも、この一年で大切な人ができたらしい。
可笑しな話かもしれないが、ずっと昔から知っていたような気がする。重ねた手のひらの体温に似た、胸に染みつくこの感情を。


秘密の言葉をほんのいくつかと、変わりない明日をひとつ。君がそれをくれるなら、きっとそれが俺にとっての未来になる。


「おやすみなさい、また明日」

内緒の話のように交わされた約束を、抱いて。俺はまた朝がきて夜がくることを、それに待ち焦がれる幸せを、知るのだ。




カタワラニテ

(幾千の明日を君と指折り、)

▼追記

ド・ロ・ウ ※タオヒカ


手のひらに描かれたのは、一体いくつの色だったのか。



「絵葉書みたいになってるかもしれませんね、今」

海鳥の旋回する影が、ゆらゆらと二、三ある昼だった。光を弾いて揺れる群青色の、底の見えない水が桟橋の足元を濡らしていく。古びた木の板を一枚隔ててその上に立っているのだと思うと、何だかとても不思議な心地だった。私も彼女も、この場所にはすっかり立ち慣れているのだけれど。

「何が、ですか」
「私たちがですよ」

そんなことをぼんやりと思って、遠くの空を見つめる彼女の横顔を見るともなしに見ながら。唐突に呟かれた言葉に質問で返してみたら、思わぬ答えをもらってしまった。
私たちですか。そう聞き返せば、彼女ははいと微笑んで頷く。
そうして少しええと、と言葉を探すようにして、口を開いた。


「よく、あるじゃないですか」
「?」
「晴れた空に青い海、小さな橋と、遠くには白い灯台があるような風景で」
「ああ、言われてみれば…」
「絵の具で描かれたような、葉書。あるでしょう?その中に、よく」

くるくる、身振り手振りを交えて楽しそうに話をしていた声が、はっと止まる。
続きを促すようにどうしました、と聞けば、彼女は困ったようにあのだのそのだのと繰り返し始める。
本当に、どうしたというのか。理由は分からないが、もうこの話をおしまいにするべきかどうかと考え出した辺りで、彼女がふいと地平線を向いた。

「…あるでしょう?その橋の上に、一組の恋人、っていう……」
「……」
「…も、もう忘れてください…」

波の音に消されかねないような、小さな声。けれども偶然か、それともそんな錯覚なのか。波の音は彼女が答えを明かすわずかな間、満ち引きを忘れたかのように静かだった。

ああ、そういうことだったのか。か細い声で口にされた四文字に、思わず笑みが漏れる。
そうして、ほんの少し。ほんの少し、背中を向けたそのひとに、手を伸ばしたい衝動。

「ヒカリさん」
「…何ですか」
「いえ、ただせっかくなら」

立ち慣れた桟橋の、その端に立つ彼女を眩しい昼が照らす。無花果色の髪の輪郭が、風に吹かれてきらきらとぼやけた。


手のひらに描かれたのは、本当はきっと一色にすぎないのだ。けれどその一色は、あまりに鮮やかだった。それなしではもういられないと、思ってしまうくらいに。
始めに青を塗ったそこに、やがて地平線を描き雲を描き、目に入るのはそれくらい。それでもそれなりに美しい景色だと思って、それで満ち足りたつもりでいたのに。

「せっかくなら、もう少し絵になってみませんか」

間違いのように零れた無花果色の一点が、消えない。
微熱を持った指にそれとよく似た自分の指を絡めながら、少しだけ華やかになったいつもの景色の中、彼女の見つめる彼方をただぼんやりと見つめておいた。




ド・ロ・ウ

(手のひらに滲む君の色)

▼追記

水を与える ※ウォンヒカ


彼女の見つめる光に溢れた世界が、彼女の作る小さくも輝いたこの場所が、好きだ。



がしゃん、と大きな音がした後に、次いでカランだのゴトンだのと何か、ものが倒れるような音を聞いた。朝の黄色い光にはあまりに似合わないものを耳にして、ウォンは咄嗟に窓の外へ目を向けたが、そこからは何も見えない。
結びかけて離された髪がばらばらと落ちてくるのを振り払って、ドアを開けた。途端、目に飛び込む眩しい朝と、それから。

「…ったた…」
「……君は、何をしているんだ」
「あ、ウォンさん!どうしたんですか?」

空のバケツや倒れた農具の中心で膝を擦る、妻の姿。ヒカリ、と呼べばにこりと笑ってはい、と答えたその様子に、力が抜けていく。どうしたんですか、は、どちらかと言えば自分が問いたいほうだ。
まあ、大体の状況は分からなくもないのだが。

「それは私の台詞だよ。大きな音がしたから急いで出てきたのだが」
「あ、そうですよね。ごめんなさい」
「…違うでしょう」
「?」
「謝る相手が違う」

とん、と指を伸ばして、座り込んだ彼女の腹に触れる。あ、とようやくはっとしたような顔になる彼女を見て、思わず溜め息が漏れた。
全く、何度言わせれば気が済むのか。

「言っただろう、確かにまだ見た目には分かりにくいから、なかなか自覚も難しいかもしれないが」
「…はい」
「もう少し、自分を気遣いなさい。それが、君の為だけでなく、この子の為にもなるんだ」

大切な時なのだから、日常生活に気をつけろと。そろそろ両手の指で数えきれなくなるくらいは、言ったか。
あまり不安がらせてもいけないとそれとなく言うようにしていたが、はいと頷くくせに彼女の生活は前と変わらない。唯一変わったことと言えば鉱山に行かなくなったくらいで、それ以外は牧場の仕事から農作業から釣りまで、何も減らさずこなしているから、感心する反面こちらとしては気が気でないというものだ。

ごめんなさい、と。空の如雨露を握りしめて呟いた彼女の頭に、手のひらを載せる。ぱたりと瞬いてこちらを見つめた透けるような眼差しに、思わず苦笑が漏れた。

相変わらずだ。恋人になろうと妻になろうと、母になろうと変わらない。何もかもを見ようとするような、その眼差し。
出会った頃から、その真っ直ぐな視線にぴたりと射止められる感覚が好きだった。何もかもを見ようとする彼女の視界に映ることは、頭の奥を暴かれるような感覚でもあったが、それでもどこか嬉しかったものだ。

そうしてそれは、今でも変わりようがない。だから。

「ヒカリ、君が何をしようと、余程のことでない限り私は止めないよ」
「ウォンさん、」
「君に、君の大切なものを捨てさせたり、諦めさせたりはしたくないのでね。だから、」
「?」
「今度からは、遠慮なく私を呼びなさい」

萎れていた苺色の眸に、ぱっと明るさが戻る。重症だ。一人の命ではないのだから体を第一にしなさいと叱ることすらできない医者など、笑い話ですらない。
だが、仕方ないではないか。こんなたったの一言で一喜一憂されては、それなら何とか笑っていてくれる言い方はないかと、思ってしまうのだって。


彼女の見つめる光に溢れた世界が、彼女の作る小さくも輝いたこの場所が、好きだ。そう、彼女には恐らく、大切なものが多すぎる。
けれど、自分はそんな彼女だからこそ目を奪われた。それならば。

「手のかかる妻だね、君は」
「ふふ、ごめんなさい」

それならば、自分が手を貸せばいい。その世界が、彼女の作るこの小さなすべてが枯れないよう、そしてそれらを見つめる彼女と、まだ呼び名のない命が萎れないよう。今少しの間、手を貸せばいい、なんて。

ずいぶん甘い医者になってしまったものだと一人思いながら、未だ座り込んだままの彼女へ、手を差し伸べておいた。




水を与える

(その目に映る世界に花を、)

▼追記

夕球 ※チハヒカ


零れ落ちる、伝い落ちる。



「チハヤさんは、楽しかったですか」

それは歩き慣れた坂道が橙に染まり出す夕暮れの、ありふれた会話から続けられた一言だった。

「……僕?」
「え?はい」

あまりに自然な口調で問われたそれは、僕にとって、簡単であってこの上ない難題だ。思わず聞き返した声にも、隣を進む彼女はふわふわと笑うばかり。久しぶりに、その頭を小突きたくなった。

「……」
「チハヤさん?」

もっともそれは、両手を塞ぐ空のバスケットと彼女の片手に阻まれて、叶わなかったが。
代わりに繋いだ指先へ、誰にも分からないくらいのわずか、力を込める。けれどもほんの些細な変化だったはずのそれは、しっかり伝わっていたらしい。溶けた苺の色の眸が二度三度瞬いて、握り返す指の先に同じ力が加わったのを感じて、僕は思わず苦笑いを押し込めた。
ああどうしてこう、どうでもいいことには気がつくくせに、肝心なところは察してくれないのか。

(…本当、困るよ)

口に出したらいらぬ誤解を招くことは目に見えているから、言わないけれど。ふらふら、自由な手に持った黄色い花を揺らして彼女は歩く。
風向きで微かな匂いを寄越すその二本の束は、数十分前まで過ごしていたあの草の海を思い出させた。

真昼の木の根元にひっそりとできた、日陰の土の湿った感触が靴の先に残っている。そこから見た緑の中に一角だけ咲き誇っていた花の、その向こうに飛んでいった蜜蜂の羽音が耳の奥に残っている。
それを見て、そうして少し迷いながら遠慮がちに一本だけ花を摘んだ君の。たくさんは悪いから記念にひとつだけ、と言った声が、それなら僕の分も足して二本でしょ、と渡したときの驚いたような眼差しと一秒遅れの笑顔が、瞼の奥に。

残っている。そのことが示す先ほどの問いかけの答えを、分かってほしいと言ったら、それは彼女にとって難題だろうか。


「あ、チハヤさん」
「?」
「それじゃあ、私はここで」

呼び声に意識を引き戻される。ふと顔を上げれば、あれだけ長く見えた坂はいつの間にか終わっていた。橙の分かれ道に、影が伸びる。

「楽しかったです、また行きましょうね」

にこりと笑って告げられた、本日二度目のそんな言葉。あの長い坂いっぱい僕が迷ったその一言を、彼女はいとも簡単に惜しみなく口にする。瞬きをして開いたら、夕日の赤さに目眩が、した。


零れ落ちる、伝い落ちる。ぽたりぽたり、この瞬間も。
雫のように流れてきては、僕の頭の深い場所に落ちて飛沫をあげる、彼女との今日。真新しい緑の景色や横顔を閉じ込めたそれらが溶けていく先には、昨日、一昨日。数えることも難しくなった思い出が、転がっている。


「ヒカリ」
「?」

首を傾げた彼女の頬に、橙が溶ける。


「…楽しかったよ、また」


僕はそれが濃くなるのを眺めるより先に手を離して、素知らぬふりで空のバスケットを揺らしながら、帰った。




夕球

(君が消えない、日々)

▼追記

バルーン・キス・ユー ※ルクアカ


それは例えるなら、風船が傾いて触れた程度の。



「……は?」

春の水色の空が、枝の隙間から覗いている。風の穏やかな午後、背凭れと呼ぶには大きく育ったパラソルのようなモラの木、そこに巣を作る名前も知らない小鳥の囀り。隣には付き合って少し経ち、こうして傍にいるだけで気が休まるくらいには距離を溶かした恋人。
そんな絵に描いたような理想の風景の真ん中で、けれどもその恋人である彼が発した唐突な問いに、彼にそれを問わせた張本人である彼女は、丸くなった目を一度瞬かせて何とも言えない顔になる。

「…もう一回言ってくれる?」
「だから、その…」
「うん」

飲んでいた紅茶を置いて確認するように問い直した彼女に、彼はといえば数度視線を彷徨わせ、俯いたり顔を上げてみたり。そうして飛び回っていた小鳥がどこかへ行く頃、ようやく口を開いた。

「アカリは、やっぱりオレじゃ頼りないか?」

やっとのことで繰り返されたそれは、確かに先ほど問われたものと変わりなかった。聞き間違いではないのか。今度こそ確信が持てた彼女は、さて何から聞くべきか、困ったように眉を寄せて紅茶を一口流し込んだ。
思わず聞き返す時点でそんなことは爪の先ほども思っていないのだと、察してくれたら助かったのだが。そう上手くはいかないらしい。

「なんで、そう思うの」
「…何となく」
「嘘吐き」
「……」

珍しく歯切れの悪い彼を心の中では心配しつつも、ついズバッと切り込むような口調になってしまった。だって、あからさまに目が泳いでいる。何かを隠していると叫んでいるようなものだ。

「だってよー…」
「?」
「それ、貰い物だろ?」

諦めたようにため息を吐きながら、彼が指差したその先を、目で追ってみる。そこには。

「…マフラー」
「……」
「ブローチ」
「……」
「そのカップだって、そうだろ」

ああ、そうか。拗ねたようにふいと横を向いたままあれこれと言い当てていく彼に、すべての合点がいった気がして。同時に、確かに気遣いが足りなかったかと申し訳なくもなった。
当たり前だ。せっかくの休日に会った恋人が、他の、しかも大体見当がつく異性から貰ったものずくめでは、それは自分でも嫌な気持ちになるだろう。

ちらりと、左隣を伺ってみる。自分から言い出して顔を背けたくせに、その横顔には後悔がありありと見てとれた。
くすり、声を漏らしそうになって唇をきうと結ぶ。笑い事ではないのだろう、分かってはいるのだが、仕方ない。

日頃は決して鈍感でもないくせに、どうして分からないのだろう。身につけてしまったのは、やましい気持ちが何もなかったからだ。
贈り主の数名を思い出して、彼の初めの言葉を反芻する。違うのだ、確かに彼らはこの隣の彼よりずっと年上だが、別にそれだから親しいわけではない。頼りにはしている。だがそれは、主に恋愛相談だったりするのだと、ここで言える素直さが自分にあったらどれほど楽か。だが。

「ルーク、」
「なん……」

生憎、それができないから相談している。仕方ないではないか、それも恋ゆえ、なんて都合が良すぎるだろうか。
少し高い位置にある肩に手をかけて、引き寄せる。なんだよ、と言いかけた拗ねた声を唇で遮って、熱の昇った頬を見られないように、わざと至近距離で笑ってみせる。
何もかも、伝わってしまえばいい。頭の中から心の奥まで、全部。


それは例えるなら風船が傾いて触れた程度の、ほんの一秒にも満たない、魔法。

「へへ、この鈍感」
「……!?」

笑いながら言った彼女が離れていくのを呆然と見つめて、ようやく我に返った彼が何事か叫ぶまで、あと何秒。




バルーン・キス・ユー

(オレの恋人は魔女かもしれない!)

▼追記
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