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片道蝶々


 振り向く瞬間、肩にひらり。影だけ落とす、蝶のように。


 正午を知らせる役場の鐘が、どこまで聞こえるか、なんて考えたことはなかった。ガララン、ガララン、と教会のそれより低く、華やかではないが耳に騒がしくもない音色。風は海へ向かって流れていて、潮の香りはあまりしない。向かい風、やんでまた一息つくころに、また一筋。

「……なに」
「え?」
「何、見てるの。さっきから」

 それとは別に、左から。気づきたかったわけでなくても、視界に入る視線。白い教会と緑の植え込みを背景にして、その眼差しの色は不釣合いに赤く、景色だと誤認するには限界があった。さしずめ苺のジャムか、コンポート。頭の奥のほうが、勝手にそんなことを考えて。煮えた果実は脳裏へ沈む。
 ヒカリ。返答を促す意味を込めて呼べば、はい、と。分かっているのかいないのか、彼女はまだ僕の顔をじっと見たまま、一応は言葉をまとめているような顔をして、ええと、と口にした。

「お隣、座ってもいいですか?」
「ご自由に」
「じゃあ、お邪魔します」

 少し、拍子抜けというか、脱力したのは否めなかった。なんだそんなこと、と、律儀に挨拶をして僕の腰かけているベンチへ向かってきた彼女を眺める。教会から出てくるのが、似合わない格好だ、と思った。乾いた土と、ほのかに太陽の匂い。
 かくいう僕もこんな、海を背にした広場のベンチなどが似合った格好ではないけれど。袖をまくったシャツにエプロンを着けたまま、紙袋を抱えて脚を組んでいる。めったに来ないところへ来て、めったにしないことをしているときに限って、偶然にも誰かに会ったりするものなのだと漠然と痛感した。
 空いた席に向いていた爪先を、反対の足と入れ替える。紙袋を下におろしたら、石畳と触れ合って硬い音を立てた。

「なんですか? それ」
「ボウルとか、泡立て器とか。調理器具が色々」
「雑貨屋さんの帰りですか」
「そう。ちょっと、古くなってきたから」

 当たり障りのないやり取りでも、とりあえず何か話すのは性分なのだろうか。へえ、と頷いた声の調子に、前にもこんなふうに相槌を打たれたことがあった、と耳がふと思い出す。
 一度や二度の話ではなく、ああそうだ。少しだけ笑った声が引き鉄になって、やっと分かった。いつも酒場で、カウンターから話しかけられて、ほとんど料理に意識を持っていかれながらも適当な返事をすると、彼女は大体、嬉しそうに相槌を打って笑う。

「チハヤさん?」
「何?」
「あれ? 今、笑いませんでしたか」
「そう? 別に、笑ってないと思うけど」

 カクテルが入っているから、ふわりふわりと話すのかと思っていたのに、元々の口調だったらしい。そのことに気づいて少し、可笑しくなったかもしれないし、どうとも思わなかったかもしれない。
 空耳かなあ、と独り言のように言うから、そうかもねと独り言のように返した。返答はなく、それきり。短いような長いような、浮雲のように漂うだけだった会話はそこで終わる。

「……」
「……」

 三人がけには狭く、二人がけにはやや広いベンチ。端と端に座っているおかげで、無意味に空いた中心の、その空白に溜まった沈黙に気づかないふりをする遊びをしたいわけでもないのに。買い物が終わって、酒場へ戻るには少し時間があるからと、元より一人で時間を潰したくて座った席だった。隣人ができてしまった今となっては、もうここにこうしている意味もない。
 それでも何となく、立ち上がれずに気づけば足を投げ出して、背もたれに腕をかけ、頬杖をついたりしているのは。

「……あ」

 向かい風が吹いて、思考と一緒に前髪をさらい流していった。押さえた指に髪が絡んで、視界の隅でアプリコットオレンジが散らばる。ずれたヘアピンを手探りでとめ、ふと、横を向いたら目が合った。零れそうに瞬いて、双眸は細められた。

「綺麗な色ですよね」
「え?」
「目と、髪が。教会から出てきたときも、そう思ったんですけど」

 いつもは酒場の橙色の明かりの下で見ていたから、これほどよく分かりませんでした、と。柔らかに、そう言った声は耳には入ったが脳を通り過ぎた。何、見てるの。そう聞いたときは欠片も言わなかったくせに、とっくに話も終わってから。
 唐突すぎて、世間話の一端だ、なんて思う暇もなかった。

「綺麗、って。それ、褒めてるの?」
「はい」
「……即答なんだ。そこは」

 躊躇う素振りもない答えに、戸惑いを通り越して笑ってしまう。なんて呆気なく、真っ直ぐで、清々と毒のよう。言われて喜ぶ言葉でもないのに、あまりにも当たり前のように言うから、呑んでしまった。

「どうも、ありがと」

 振り向く瞬間、肩にひらり。影だけ落とす、蝶のように。触れも掠めもしなかったのに、確かに認識してしまった気がした。その存在を。
 頬杖をついていた手のひらを外して、一人分には小さい空白の向こうの隣人を改めて見る。無花果色の髪が揺れていた。風が折り返して、潮風に変わる。立ち上がった彼女の背を押して、短い坂を下らせていった。ああ僕はまだ少し、ここにいるようだ。



片道蝶々

(ひといろの影がさざめいた)

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