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美しきもの

お題:趣味が悪い


 一生にひとつしか持てないものくらい、もっと高望みしたらいいよ。そう言ったら彼女は何のことやら、本気で分からないみたいだから、やっぱり今のは無しで、と訂正をした。
 空を貫く夏の日射しみたいにまっすぐで、受け止められることを疑いもせずに飛び込んでくる。君みたいなのに付き合えるのなんて、やっぱり僕くらいのものかもね。
「ねえねえ、何色にする?」
「男の衣装なんて何でもいいんじゃないの?」
「何言ってるの。私に世界で一番綺麗なチハヤを見せてよね」
「何? 君って僕の彼氏だっけ?」
 本当にもう、と。呆れて閉じたカタログは、無数の折り目で膨らんでいる。カフェオレはとうに冷めてしまった。底に砂糖が沈殿しているだろう。
 洗濯物を取り込まなくちゃ。手の甲に差した光の橙色に気づいて顔を上げたら、「洗濯物を取り込まなくちゃ」全く同じことを彼女が言った。驚いて立ち上がりかけた姿勢のまま、外に駆け出ていく背中を見る。
「チハヤ! 手伝ってよー」
 一直線に向けられる笑顔に、瞼の奥がじんと眩んだ。きっと一生言わないだろうから、今ここで、聞こえないと知りながら言っておこう。
 高望みを叶えたのは、僕なんだ。草臥れたシャツでも、綺麗なのは君のほうだ。

月を召しませ *ユヅナナ


 夏の夜にさらさらと光る、浅い川面の色が好きだ。背高の草、蛍の光、様々なものが映って見える。夜の影が昼間よりそれらの輪郭を曖昧にするから、川面は緑や黄色が滲み合って、全体が一枚の帯となって光り輝く。
 特に、こんな月の明るい夜などは。
「天の川が落ちてるのかと思ったね」
 はた、と声をかけられて、顔を上げる。土手の上の草原に、よく知った人が立っていた。
「ナナミ、さん」
 よく知った人――なのだけれど、一瞬、知らない人に見えて。名前を呼ぶ声が上ずってしまった。彼女が、その肌も、金の髪も、月明かりに照らされて、あんまりに明るく輝いていたものだから。
「あなたも遠いところから落ちてきたのか、と思いましたよ」
「え、なあに?」
「いいえ、何でも。こんばんは、こんな夜更けにどうしたんです?」
 土手を下りてくるその姿が、一歩ずつ近くなるにつれて、ようやく目の前にいる人の名前に確信が持てた思いがした。真正面に立つと、彼女の姿は僕の影を被って、光っているのは淡い金色の旋毛だけになる。
 思わず手を伸ばした。彼女は慌てて、先回りするように自分でそこを押さえた。おや、と手を引っ込めると、焦ったような顔で口を開く。
「ど、どこ?」
「何がです?」
「何って、寝癖がついてたんじゃないの?」
 寝癖。思いがけない言葉に、僕が鸚鵡返しすると、彼女は違うと気づいたのかそろそろと手を離した。言われてみれば確かに、三つ編みが少し緩んでいる。指摘すると、気まずそうに苦笑した。
「夕方、そこで寝転がって、三毛猫と遊んでてね。そのまま私だけ寝ちゃったみたいで……」
「一人で、ですか?」
「うん、そう。草むらにいたから、誰も気づかなかったんだろうね。さっき起きたら、月が出てて」
 気持ちは、分からないとは言えないが。予想を少し上回った発言に、はあ、としか言葉が出てこなかった。夏の日暮れは心地いい。特に水辺は、得も言われぬ涼しさで満たされる。昼の蒸し暑さを川面が吸い込んで、底石の中で濾過して、冷たく透明にして吐き出したような、そんな風が吹く。
 僕も昔、ほんの少しと横になったら転寝をして、祖母に揺り起こされて目を覚ましたことがあった。あのときはずいぶん、心配をかけた。倒れていたのではないかと。
(なるほど、こんな気持ちだったのか)
 僕は今、祖母の気持ちが少し理解できたような気がした。もっとも、彼女がそう簡単に倒れるとは思っていないから、心配の種類は別物だろうけれど。子供でもない女性が、無防備に草むらで眠っているなど。
 でもそれを、だめですよ、と言うには、僕も昔同じことを楽しんだ身だから。
「……あのね、ユヅキ」
「何ですか?」
「さっき、目が覚めたら、川べりをユヅキが歩いてるのが見えてね」
 僕の表情が、柔らかくなってきたのに気づいたのだろう。彼女は様子を窺うように、視線を上げて、口を開いた。そういえば先ほどから、何か言いたげにしていたような気がする。
 ええ、と促すと、小さな手が僕の影をくぐり出て、月明かりに白く輝きながら、そろ、と指先で頬に触れた。思わずまばたきをした僕を見て、彼女はどこか、安堵したように笑う。
「私、まだ夢の中にいるのかな、って思った」
「ナナミさん……」
「ユヅキ。月が、似合うね」
 ああ、そうか。瞼の裏に、互いの見たものが交換されたように、僕は先刻、彼女が見たであろう景色を思った。
 土手の上で光り輝く彼女を見つけた僕は、川べりに立っていて。遮るもののない月明かりに頭の先から爪の先まで照らし出されて、川面の揺らめきが、蛍の光が、この肌や服の上に映り込んでいたのだろう。
 もしかしたら、彼女は少し、躊躇ったのだろうか。だから、ユヅキ、と呼びかけるのではなく、天の川だね、なんて言葉を切り出しにして。僕が、振り返るかどうか、試してみたのだろうか。
 同じようなことを、考えている。ふ、と笑いを漏らしたら、彼女は小さく首を傾げた。
「初めて言われましたよ、そんなこと」
「そう?」
「ええ。でも――僕から見れば、あなたのほうが」
 あなたのほうが、よほど。言葉の最後は、虫の声に紛れて消えていく。伸ばされたままの手に手を重ねて、輪郭を確かめあうように頬を寄せれば、彼女の指先がぴくりと緊張したのを感じて、なんだかおかしくなった。
「ナナミさん」
「は、はい」
「今度、あそこで転寝をするときは、僕を呼んでくださいね」
 すぐ近くにいるんですから、と。乞うように言えば、月の光を残したままの頬をかすかに染めて、彼女は頷いた。
 地上の天の川は、音もなくしんしんと輝いている。送りますよ、とその背を促して、僕たちは光の帯に沿って、交差点への道をゆっくりと歩いた。



[月を召しませ]

スノウライト *レガミノ


 厚く積もった雪を踏むたび、繋いだ手がバランスを取るように上へ上がる。手袋越しの指先には、そのたびぎゅっと力がこもった。空いたほうの片手で、スカートの裾をたくし上げて、彼女は通りを見渡す。
「綺麗だね」
 彼方まで広がる雪の道は、昼を間近にした日差しに照らされて、眩しく照り輝いていた。夜の間に積もった雪が表面だけ解けかかって、薄く透き通った氷となり、石英の断面のような透明感を放つ。屈んで手のひらで触れると、赤茶の手袋に朝露のように吸いつき、ゆっくりと解けていった。彼女のたくし上げきれなかった裾にも、同じ光の粒がついている。
「足跡がほとんどないな」
「町の人たちはいるけど、観光の人が見当たらないもんね。あの天気じゃ、船も止まってたし当然か」
「そうだな。こうも静かだと、なんだか昔の町に戻ったみたいだ」
 そっか。俺の言葉に、彼女は同意とも否定ともつかない言葉で返した。それを訊いて、ああ、と思い当たる。彼女はあまり、ひとけがなかった頃の町を知らないのだった。
 そう考えると、彼女がここにいること、それ自体が、なんだかあの頃とは違う証明みたいだな、と思う。くすりと笑った俺に気づかず、ミノリは通りすがりの家の塀に積もった雪を掬って、小さな雪だるまに変えてそっと戻した。
「ミステルが驚くぞ」
「でも、イリスさんはこういうの好きそう」
 ああ、確かに。誰がいつ残していったのか、誰にも分からない雪だるまなんて、あの人が見たら「お話みたい」と喜びそうだ。とはいえ、いつも窓辺で小説を書いているあの人のことだから、実はもう一連の秘密は覗き見られていたりもしそうだけれど。
 どうかな、と窓を見上げたが、中の様子は分からない。今日はどこの家も、寒さにカーテンを厚く閉めている。
 今までならきっと、俺だってそうしていた。でも、今は。
「えい」
「っ! こら」
「あはは、冷たかった? 雪だるま作ったら冷えちゃった」
 今は、窓の外側で子供みたいに歩き回っている。早朝、電話が鳴ったときは誰かと思ったけれど。ねえ外見た? という声があまりに弾んでいたから、ああ今どんな楽しそうな顔をしてこの電話の向こうにいるんだろう、と会いたくなって、気がついたら一緒に散歩しようと返事をしていた。
 きっと、こんな顔をしていたに違いない。
「まったく、本当に冷たいな」
「わっ」
 手袋を脱いで首筋に当てられた手を、捕まえてコートのポケットに押し込む。バランスを崩して寄りかかってきた肩を抱きしめると、驚いたように開かれた目が、白い空を映して明るく光った。
「あの、レーガ」
「ん?」
「ここ、外……」
 おずおずと、ポケットの中で掴まれたままの指先が動く。もしかしてそれで逃げ出そうとしているのだろうか。ささやかな抵抗すぎて、ちっとも本気に思えない。知ってるよ、と返せば、紅茶色の目はいっそう大げさに丸くなった。
 誰もいないね、と話したのは、つい先刻のことなのに。
「仕返し」
 それでも、俺が身を屈めると、覚悟したように伏せられる瞼が可愛い。重ねた唇は二人ともひやりと冷たくなっていて、帰ったら鍋の中のスープを温めよう、と思った。
 世界はこのときが、永遠に続きそうなほど、静かに輝いている。



スノウライト

恋人は紫の石


 身の丈に合わない宝石だ、とは分かっていたけれど欲しかった。こんな、土だらけの手と、日に焼けた腕じゃ、抱ききれない眩しい宝石だけれど。その煌めきの断片がすべて、私に突き刺さって、棘のように抜けない。断片なんかじゃなくて、本当は全部が欲しいんだ。なんて。
「チハヤと契約したい」
「どうにか外食の余裕ができてきたばっかりの君に、僕を雇う余力はなさそうだけど、話だけは聞いてあげるよ。なんの?」
「……ん、何のだろうね」
 カウンターに肘をついて、なんだか今日は機嫌がいいらしい。続きを促す眼差しに、昼下がりの日が傾いて、透き通っている。
 私が望んでいるのは、例えば今この沈黙が、いつでも許される関係なのだと思う。ずっと見ていたい、できれば、こっちを向いたチハヤのことを。後ろ姿や横顔といった、断片だけじゃない、全部を。
「強いていうなら、独り占め契約みたいなー?」
「……それ、どういう、」
「あー! チハヤが私の、専属パティシエだったらなー!」
 問いかけを遮って、張り上げた声がカウンターに響く。あらあらまた始まった、とお店の人たちがこっちを向いて笑いを浮かべ、私はケーキの最後を一口で頬張った。
「……専属、ねえ?」
 もぐもぐと頬を膨らませている私を、呆れたようにチハヤが見下ろす。この人は、知らないのだろう。私が少し無理して週に三回ケーキを食べに来るのは、ケーキと、その眼差しを買っているのだということを。
「知らないだろうから、教えてあげるけど」
 グラスの水を飲み干したとき、ふと、頭のなかを読み上げられたのかと錯覚する言葉に、瞬きをした。
 顔を上げると、どこで傾いたのか、不機嫌な顔が真正面にある。
「え、なに」
「そのケーキ、メニューにないやつだからね」
「……は?」
「採算の合わないケーキを、週に三回も、自腹で作ってんの。来るかどうかも分からない貧乏新米牧場主のことが、内心、結構心配なのかもね。そういうの、全然気づいてないみたいなんだけど」
 鈍いよね、馬鹿なのかな、と笑顔で首を傾げる。その肩越しに、改めてメニューの書かれた黒板を眺めて、私は混乱で声にならない声を上げた。
「どう思う?」
 さあ、と答えを促して細められたアメジストの、芯が固唾を呑むほど緩やかに光る。それは断片ではなくて、私に衝突する、眩しい結晶だった。



恋人は紫の石、あるいは隕石、その到達の眩暈

傾くバニラの行方 ※チハアカ


 たぶん僕は待ちわびている。気づかないふりをしているだけで。

 オレンジジュースにバニラアイスを浮かべて、結露をなぞりながら十秒も待つと、ジュースに浸かったアイスのふちがうっすらと溶けてくる。重さに従って下へと落ち、ドレープのように幕を落とす。
 甘さも強いが酸味も強い、果汁百パーセントのオレンジ色が、ぼんやりととぼけた色になるころが。飲み頃だ、と彼女は言う。黒いストローに、化粧っ気のないとぼけた色の唇をつけて。
「おいっ、しーい……!」
 噛みしめるような声と共に、ざくざくと氷をかき混ぜる音が聞こえた。ストローで溶けたアイスを広げているのだろう。
 ああそう。無視するには大きすぎる独り言に、僕はふっくらと満月型に焼きあがったキッシュを切り分けながら、つれなく答えた。途端、ねえ、と不満そうな声が訴えかける。
「そんなに冷たくしなくてもいいじゃん、人恋しくて誰かと喋りたいときもあるんだってば」
「君はいつもでしょ。っていうか、ここに来なくても話し相手くらいいるでしょ、いっぱい」
「えー? せっかくお客さんしに来たんだよ。ちょっとくらいノってくれたって……」
「なに、お客さんするって。ままごとじゃないんだからさあ」
 第一ね、と。ナイフを横に返して一切れごとに取り分けながら、僕は片手を伸ばして、バットを引き寄せる。ショーケースにさらしても恥ずかしくない切り口に、チーズとトマト、カボチャが層を成している。
 牧場直送野菜のキッシュ――そう書かれた札を立てて、厨房に入ってきたキャシーに手渡した。
「酒場に来ておいて、オレンジジュースにアイスのせたいってわがまま言うようなのは、お客さんじゃなくて迷子っていうんだよ」
「むっぐ」
「まったく、話しかけるから角が一カ所欠けたじゃないか。これ、あげるからさ。静かに食べててくれない?」
 くだらないことばかり言う口に、振り返って、キッシュを一口押し込む。フォークごと咥えさせられたアカリは琥珀色の目を見開いたあとに、慌てて残りののった皿を受け取った。
 もぐもぐ、と動物みたいに急いで口を動かして、ごくんと飲み込む。
「あっぶないなあ! 落としたらどうすんのよ?」
「怒るのそっちなわけ?」
「当たり前でしょー? チハヤの料理が無駄になるのは絶対にやだ! ……あっコレ美味しい! 美味しいね?」
「……どうも。光栄だけど、材料作ったのは全部君なんだけど」
 膨れていた顔はどこへやら、目を輝かせて頬張りはじめた変わり身の早さに呆れて言えば、彼女はキッシュを見つめたまま「それとこれとは別なの」と答えた。そういうもんなの。なんとなく聞き返せば、そういうもんですと同じ答えが返ってくる。
 僕は「そう」と頷いた。それ以上は訊かなかった。
「自分で作るのと、誰かの作ってくれたごはん食べるのは違うんだって」
「別に料理できなくもないくせに」
「あー、うん。そうだチハヤ、今度なにかシーフードのレシピ教えてほしいなあ」
「シーフードって、海老とか貝でいいの? 魚?」
「海老がいい。……うーん、そうだよねえ。なんでかな、作らないわけじゃないんだけど」
 銀のフォークの先にキッシュをのせて、彼女は一瞬、考えるように間をあけた。沈黙にぱたりと、洗ったナイフの先から水が落ちる。
 シンクに、はぜるのを見下ろす僕の顔が映った。
「なんかねー、元気でる」
「は?」
「言ったじゃん。人恋しくなるときもあるんだって」
 細かくなった水滴のあいだで、藤色の眸が大きく瞬きをする。なにそれ。こぼれるように問えば、アカリは空になった皿をカウンターに返して、わけもなさげに笑った。
 カラン、と溶けた氷が回る。とぼけた色のオレンジジュースを、三日月形の唇が一思いに飲み干して、グラスを置く。
「――内緒」
 振り返った瞬間、かすかにバニラが香った。

 たぶん僕は待ちわびている。気づかないふりをしているだけで。
「……あっそ。振り向いて損した」
 胸の奥が、溶けたバニラに浸食されるのを。研ぎ澄まされていた色が曖昧になって、今より甘く、柔くなるのを。
(君に、汚されるのを)
 言葉と裏腹に思い浮かんだそんな心に笑えば、彼女は琥珀色の目を唖然とさせて、戸惑ったように瞬きをした。またね。空になったグラスを下げて、僕は背中を向ける。
 シンクに映った顔は、そこはかとなく楽しげで、子供っぽかった。

▼追記
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