まるで言葉にし損ねたものだけ、真実であるかのように。
「セルカさん」
いつもの通り、朝食の片づけを済ませてから玄関の掃除をしようと掃除道具に手をかけたところで、屋敷の扉が少し遠慮がちに開いた。そうして覗いた想像通りの顔に、リオさん、と無意識に微笑めばようやく足を踏み入れる。そんなふうに様子を窺いながら入ってくるくらいなら、いっそノックでもしてくれれば自分が開けに行くのにと思うのだが、どうやら彼女からしてみるとそれこそがノックをできない理由のようだから仕方ないのかもしれない。招待客でもないのだから、わざわざ仕事の手を止めて自分の相手をしてくれる必要はないと。そういうものらしい。
「今、掃除の時間でしょ?」
「あれ、お話したことがありましたか?」
「そういうわけじゃないけど。でも、この時間に来るとセルカさん、いつも箒持ってるから。……手伝っていい?」
座りっぱなしは落ち着かないの。私が何か言うよりも早くそう言った彼女に、私もくすりと笑って、それじゃあと予備の箒を差し出した。人が働いている前で、じっとしているのはどうにも居心地が悪い。その気持ちは、私も比較的よく分かる部類の人間だ。
とは言え、彼女の本業はメイドではない。すでに自宅での仕事を一通り終えてのことだろうと思うと、ここへ来てまで力仕事や水仕事は回したくないというのも本音であり。
そんな私情により、屋敷ではこの時間に掃き掃除と決まっている。彼女に話したことなど、当然あるわけもなし。彼女がここへ立ち寄る頃に私がいつも箒を持っているのは、本当のところは偶然でも何でもないのだけれど、それを奇遇という言葉で片づけてささやかに喜び合うのもまた、一方的な私の楽しみであり、日課の一つなのである。
「何度見ても広いわね。私、ここにはもっとたくさんの人が住むんだとばかり思ってたのよ。管理、大変じゃない?」
「そんなこともないんですよ、楽ではありませんが。……それに、ほら」
「?」
「最近は、気の利く手もあることですし」
ね、と言い聞かせるように、箒を抱えて瞬きをした彼女を見つめれば、空色の目が驚きを映したように丸くなった。そうしてそれから、すぐに首が横に振られる。
「嘘」
「いえ、本音ですよ」
「私、掃き掃除くらいしかしたことないのに。これだってお喋りのついでみたいなものだし……、気をつけているけど、大雑把な自覚はあるもの。見てられなくない?」
「いいえ?」
「……優しいんだから」
ふい、と。視線が背けられ、私の目に映るのは彼女の目ではなく横顔になる。わずかに俯いて影を帯びたその頬が微かに赤く見えて、ああ浮かれているな、と心の中で自分に呆れた。嘘ではないのだ、実際に。彼女は気が回るし、そこそこに器用で危なっかしさはあまり感じない。ただ、それ以上に。
「駄目だよ、あんまり私のこと甘やかすと」
「何故です?」
「つけあがっちゃうかもしれないでしょう」
「貴女が、ですか。それは少し、見てみたい気もします」
彼女は、知らないことだろう。私が一日の中で、この僅かな時間を感情の中心において動いていること。整ったスケジュールの中で動く身体の奥にある心臓は、彼女と出会ってからというもの全く別のサイクルで動いている。何それ、と笑った彼女に何も言わず笑みを返してから、声に出さずにそっと繰り返した。貴女は知らないでしょう、それがどれほど、私に一個人として生きている実感を与えていることか。
知らないでしょう、と。心の中でその部分だけが、反響する。徐々に重なり合って聞き取れなくなっていくその言葉に、当たり前だろう、潜めているのだから、と、そんな思考を重ねて打ち消した。口にしてきた言葉に、嘘はない。ただ、それでも。
「――――――……」
まるで言葉にし損ねたものだけ、真実であるかのように。後悔というにはあまりに幼く、真珠のような重みを持って胸へと沈む。底で光り続ける。本当に大切なことほどそうして沈殿させていく自分を、嘲るかのように。忘れられなくなる、伝えきらずに残したものほど。
「……ああ、綺麗になりましたね」
「あ、そう、だね」
「リオさん」
「何?」
「……いいえ。助かりました、有難うございます」
光を映して揺らめく床に、もう行き先のない箒が二つ、薄い影を伸ばしている。差し出されたそれを受け取り、また明日、の言葉さえ思いつかない素振りをした。それじゃあ、と背を向ける直前、彼女の笑みが寂しげに見えただなんて我ながらどれほど。また一つ、胸に真珠が沈むのを感じて目を伏せた。
鳴かぬ蛍が何とやら、とは、よく言ったもの。それでも彼女の灯した火に長い時間を経て焼かれるのなら、それはそれで、一つの恋であるのかもしれないと思った。
やがては灰となるように
(忘れるが先か、焦がれるが先か)