十二を過ぎたらまた一に戻る。俺達はひたすらに繰り返す、針のようだ。
「ねえ、少し散歩しましょうよ」
石畳の道に薄くぼやけた影を伸ばして、何の前触れもなしに彼女がそう言ったのはつい先ほどのことだった。とく、とく。鼓動の速度で隣を歩いていく彼女へ、ちらりと視線を移す。
「……あのさ、カレン」
「何?」
「これ、どこに向かってるんだ?」
散歩、と呼ぶには目的を持っているように、迷いなく。多くの言葉を交わすわけでもなく景色を楽しむ様子もない彼女に、ずっと気になっていたことを訊けば、切れ長のエメラルドが悪戯っぽく細められた。
「いいところ」
「だから、それが」
「ほら、着いたわよ」
そして彼女は、また少し歩いたかと思うと唐突に足を止めた。反論しようと開きかけた唇を、目に入る景色にゆっくりと閉ざしていく。
「……ここって」
「そう。私達が揃って散歩と言ったら、やっぱりここしかないでしょ?」
昔は探検とも呼んだけれど。くすりと笑ってそう言った彼女に、俺もつられて笑みを零した。
教会の柵の切れ間から、よく忍び込んだ小さな森。懐かしい景色に、自然と胸がざわめく。
「どう?久しぶりに」
子供に戻ったような笑みでそう言って、彼女は俺が頷くや否や柵をすり抜けた。大きくなって忍び込むも何も、あの切れ間はわざと作ってあったのだと知って二人顔を見合わせたが、幼い頃は大人達の目を盗んでよく入ったものだ。
幼いながらに姉御肌だった彼女といい子と呼ばれる子供であろうとしていた俺の、唯一秘密を持てる場所。ここはそんな、子供には広すぎる隠れ家だった。
「懐かしいなあ、ね、昔ここでリックったら何度も転んだのよね」
「それを言うならカレンだって、あの木から向こうは暗いから嫌だっていつも」
「ちょっと、なんでそれを覚えてるのよ。忘れなさいって」
今となっては、こうして喋りながら簡単に一周できてしまう、玩具の庭のような森だけれど。段差は一歩で跨げてしまうものにすぎないし、あれほど彼女を怖がらせた暗がりだって、大樹の影にすぎないと見れば分かる。
見渡せば懐かしさで満たされていた感情に小さな穴が空いて、一筋の苦さが紛れ込んだ。心のすべてを支配するわけでもなくただ浸透していくそれの振り払い方が解らなくて、蒼い風の匂いを肺に詰め込めば、隣で彼女がぽつりと呟いた。
「今だから言うけど」
「ん?」
「私、リックが好きだったんだよ」
さくり、土を踏む音が遠くなる。それは不思議な感覚で、勢いで顔は上げたけれど、本当はそれほどの驚きはなかったのかもしれない。口を開けば存外落ち着いた、いつも通りの自分の声が出ていく。
「俺も、カレンが好きだったよ」
「え、そうだったの?じゃあ両想いじゃない」
「はは、そうだね」
それはまるで他愛もない、当たり前の事象であったかのように。俺達は笑いあって、なんだ初恋は叶っていたのかと知った。この森の木の数やそこに生る実の酸っぱさを知ったときのような、嬉しくて新鮮で、けれども簡単に納得のいく。そういう感覚だった。
一頻りエメラルドを細めて笑っていた彼女が、ああ可笑しい。そう言ったのをきっかけに沈黙が訪れる。
「―――」
ねえ、カレン。そう呼ぼうとした唇は、なぜだかその横顔を見た瞬間に声を発するのを躊躇って。ふ、と呼吸だけが落ちていく。彼女は気づかずに、どこかで鳴いた鳥を探すでもなく、木々を見ていた。
その頬をさらりと流れた、長い髪。茶色いそれが風に揺れるたび、幼い日の彼女の面影が曖昧になっていくようだ。いつの間にこんなに伸びたんだろう、と考えては、いや昔から短くはなかったな、と自分の中で答えを出した。かちり、視線に気づいたのか、振り返った彼女が心なしかぎこちなく笑う。
「ごめんね」
「……え?」
「思ったより、小さな森だったわ。退屈?」
から、から。乾いた葉が駆けてゆく。そんなことないよ。そう答えたら彼女は、それならいいやと古びた柵に腰かけた。昔は、俺しか届かなかったね。そう口にしたかったのになぜだか声にならなくて、胸の奥がきりきりと何かを訴える。嗚呼、ねえ。
「あのさ、カレン」
「何?」
「……今は、どう思ってる?俺のこと」
「どうって……リックはどうなのよ」
「……分からないんだ、正直」
幼い日の恋がどうなったのか、答えは未だに分からない。兎にも角にも俺達は大人になってしまったから、初恋は手放した。それだけのことで。
ならばそれは、どこへ置いてきたのだろう。灰にしたわけではないのなら、それは、今どこに。深く澄んだ視線をぼんやりと受け止めながら、俺は彼女の問いかけに少し、躊躇いながらも口を開く。
「……好き、かもしれない」
十二を過ぎたらまた一に戻る。俺達はひたすらに繰り返す、針のようだ。進んでいるのかただ繰り返しているのか、俺達自身にも分からなくて。
馬鹿げた答えだと笑われるかと思ったのにそれはなく、彼女はそっと頷いて目を伏せた。
「そうだね、私もだよ」
「カレ……」
「ねえ、リック」
何かを言おうとした声は遮られて、けれど俺はそのまま、彼女に続きを促した。湿った土の匂い。いつになく些細なことが意識を掻き乱して、合わせた視線だけが、ひどく鮮やかに色を持つ。
「分からないことは、調べてみればいいのよ」
昔みたいに、二人で。面白いことを思いついたときのように笑みを織り交ぜた声は、確かに俺の知る彼女であったはずなのだけれど、そうだねと頷くまでにわずかな時間を要したのは。
紛れもなく、この心臓が未だかつてないほどに震えた事実に戸惑いを隠せなかったから、だろう。
時の瞑目
(錆びた針を君と回していく)