反応を見る前に踵を返し、後ろ手にひらり、さよならの合図を置き土産に廊下を行く。
角を曲がったところで低く細く息をつき、遂に膝を折ってしゃがみ込んだ。
常の通り、へらへらと繕った仮面の下。
本当は、泣き出してしまいたくなるくらいさみしい。
けれど、さみしいと幾ら嘆き喚いても、月が欲しいと泣く子どもではもういられないと痛いほど分かっていたから、選び取れるのは薄っぺらな笑顔だけだった。
彼はカリギュラにはなれない。
絶大なる地位も、狂うだけの情熱も持たない哀れな男だった。
「逢いたい、なあ」
欲しい。欲しい。あの月が欲しい。
けれど同じくらい強く、逢いたくはない気持ちが胸に巣食っている。
──俺の知らない君。
……俺を知らない君。
そんなの、耐えられる筈がない。
「……逢えるかなあ」
自身の知る君に、また見(まみ)えることは出来るだろうか。
ひっそりと呟いて、彼は指を折った。
一、二、三、四、五、あと五年。握った拳に力がこもる。
若い、幼過ぎる彼には、途方もなく遠い未来に思えた。それこそ、はるか月への距離ほどに。
禁じられれば逢いたくなる。かのローマ皇帝の名を冠した映画が巻き起こした現象のように、一過性の熱に浮かされたような想いではないと信じたかった。
自分に何かが欠けていることに気づかないくらい欠けていた。
彼という男は、そんな人間だった。
あの五月までは。
夜、真夜中。
いつものように、覚醒と微睡みの狭間を揺蕩たゆたうようなごく浅い眠りから目覚めると、自身の体に背中から絡みつく腕があった。
涎を垂らさんばかりの勢いで爆睡しながらも、まるで母親にしがみつく子どものような仕草で寄り添う愛しい存在に、思わず笑みが零れる。
「……優しいなあ……君は」
抱きつかれているのは自分の方なのに、まるでこちらが縋りついているような心持ちに満たされる。
くったりした腕を静かに持ち上げて、慎重に体勢を入れ替える。向かい合う形で君の首の下、枕との隙間に左手を、もう片方の手を肩口から回して、ぐいと胸元に引き寄せた。
額へ額を緩やかに押し当てて、目を閉じる。
今夜はきっと、深く眠ることが出来るだろう。
だって『幸い』がこの手の中にあるのだから。
こうやって時を重ねて、生きていく。
共に。
──ああ、なんて幸せなんだろう。
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きっと君が思っているより彼は幸せです。
忘れる、の単語は私たちにとって禁句だ。空白の六年間を否が応でも呼び覚ます。
だけど、彼はまるで自ら傷口に爪を立てるようにこの言葉を頻繁に口にするから、そのたび私は躍起になって否定する。
ねえ。
私たちはさ、幸せな未来を拓くために一緒にいるはずなのに、どうしていつもあなたの傷を広げるような形になってしまうんだろうか。
それでも彼は私の手を離さず、私も彼から離れるつもりなんかさらさらないから、堂々巡りの毎日が続いてしまうんだ。
私はあなたの、安らぎになりたいのに。私がいることで、今度はあなたは『また喪うかもしれない』恐怖に脅かされる。
私は一体いつになったら、そしてどうすれば、あなたにとっての安息になれるんだろう。
その日が少しでも早く訪れたらいいのに。