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箱庭の世界―Closed Garden― #6

 ――#6 望まれぬ再会

「なに、アキちゃんの知り合いだったのか?」
 ここにいる皆が皆驚いている。そんな状態で凍結していた場を崩したのは、椎葉とレイの肩に手を置いていた匠だった。
 おじさんは深く息を吐いて片手で顔を覆い、座り直す。
「おじさん?」
 意気消沈した彼の様子に椎葉は声をかけずにいられなかい。返事は得られなかったけれど。
「――匠。扉に鍵をかけてこい」
 暫くそうしていたかと思うと、おじさんは顔も上げずに匠へと命じる。なんだか疲れきった様子だ。
「はい? 鍵? 何でまた」
「今話す」
 手振りでさっさと行けと言われ、怪訝な匠はそれでも言われたことに従い入り口まで戻っていく。匠も大概お人好しだ。いや、彼が尊敬しているからこそだろうか。
「あの……暁さん?」
 今度はレイが恐る恐る口を開く。
 椎葉が知っているのは快活に話してくれるおじさんだ。いつも笑顔を浮かべ、大きなその手で椎葉の頭を撫でてくれる。それしか知らないといってもいい。
 だからこの人は誰なのだろう、そんな錯覚に陥ってしまう。いつも心配される側だったのに、心配する側になってしまう。
「匠に会った以外、何もなかったか?」
 ようやくこちらに目を向けたおじさんはそう尋ねてくる。瞳に宿る和らぎは、椎葉がいつも見慣れたおじさんだ。
「? うん、なかったよ」
「そうか」
 椎葉には問われた意味がわからない。答えたレイと同じように首を傾げた。
「アキちゃーん、閉めたぜー」
 そこへ匠がひょっこり顔を出す。
「何なんだよ急に。知られたくないことでもあんの?」
 おじさんが腰かける机の前備え付けられたふかふかな椅子に、匠は足を組んでどかりと座る。
「匠、私がこれからいうことは他言無用だ」
 匠は眉をひそめ、おじさんを見返した。空気が剣呑になりつつある。
「別に誰にいう気もねーよ。そこまでする徹底ぶり、今必要あんのか?」
「なかったらいっていない」
 不穏な言葉の交わし合い。二人の間に入れないのは椎葉もレイも同じ。
 話題の中心が自分たちだとはいえ、ただ見ているしかできない。
「私がそうまでする理由はただ一つ。この二人が箱庭にいたからだ」
「げ」
 匠は途端に居直り、組んだ足を戻すだけでなく背筋までぴんと伸ばして身を乗り出した。
(『箱庭』?)
 尋ねようにも容易に尋ねられる雰囲気ではない。椎葉は言葉を飲み込んでやりすごした。
「つーことは、間違えて連れてきたってことか? あっちゃー……マジか」
 背中を後ろにもたらせ、匠は天を仰ぐ。
「そりゃ他言できるわけねーわな。どーすんの、オレ、連れてきちまったぜ?」
「起こったことを今更どうこういう気はない。お前に言わなかった私の責任でもあるからな。問題はこれからどうするかだ」
 二人の視線を浴び、その真剣さに椎葉はたじろぐ。後ずさる代わりにレイと繋いでいた手を強く握った。握り返される温かさに僅かながらほっとした。
「――その前に。匠、お前は迎えに行ってこい」
「ですよねー」
 匠はやれやれと腰を上げ、椎葉とレイの頭に手を置いた。
「いきなりでわけわかんねーだろ? んな心配そうにしなくても大丈夫だぜ。アキちゃんが何とかしてくれっからさ」
 同じ高さまで下げてくれた目線に安堵を覚える。誰かの笑顔で改めてこんなにも安心してしまうのだから、知らないうちに緊張していたのだろう。
「じゃ、また後でな。頼んだぜアキちゃん」
「ああ。鍵は閉めていけよ」
「わーかってますってー」
 ひらひらと振られたた手。鍵をかけた音を最後に、匠は部屋から退出していった。

  **

 匠さんが出ていったことで明るさが失せ、途端に気まずい空気が流れた。おちゃらけていそうでその実、この雰囲気にならぬようわざわざ明るく話してくれていたのだと気づく。多少行きすぎた反応もそのためだったのかもしれない。
 レイヤは暁さんに忠告されたことを思い出してしまったせいで、顔を真っ直ぐに見られないでいた。
 約束を破ってしまった。あんなにもいわれていたのに。
(怒られるかな……)
 俯くレイヤの耳まで椅子が引かれる音が聞こえ、びくりと身を強張らせた。近づく気配にますます身を縮こまらせる。
「まったく、あれほど言ったのに」
 ところが、次に聞こえたのはレイヤが予想していたのとは違う、幾分か明るい苦笑混じりの声音だった。
「おじさん、ごめんなさい! 森を抜けようって、私が言い出したの。レイはただ私に付き合ってくれただけだから」
 しぃの弁明を聞いて、沈んでいる場合ではないと思い直す。
「俺が止めれば良かったんだ。ちゃんと止めなかったから、責任は俺にあるよ」
「違うわ。私が強引にレイを誘っちゃったから」
「よせ、二人とも」
 途端に口をつぐむ。
「お互いに罪を被り合うな。私がいったことを守らなかったのは怒るが、お前たちが無事だったことに安心しているんだ。――何事もなくて良かった。匠が連れてきた時は正直肝が冷えたぞ」
 レイヤは匠さんに連れられてここに入った時を思い出す。
 思いがけないにしては異様に驚かれたこと。彼の沈み具合からレイヤたちは歓迎されていないのだと感じ取ってしまったこと。しかしその後かけられた言葉はいつもの暁さんそのもので、今なお態度の違いに戸惑っていること。
「暁さん。俺たち、ここに来ちゃまずかった? 今から戻った方がいい?」
 レイヤは何よりもそれが問題だと思ったのだ。しかし暁さんは首を振った。
「いや、今戻るのは危険だ。ここにいなさい」
 着ている服が会いに来てくれるときと同じ服だから、レイヤは一つの単語と結びつけた。ある種の確信を持って。
「でも……迷惑じゃない? 仕事の邪魔になるよ」
「なに、仕事といっても大したことはしていない。レイヤ、椎葉。今はとりあえずこの部屋から出るな」
「え……っと」
 正直それは困る。
 レイヤの頭に響く声は止まない。その声の主を突き止めるため、暁さん――当初は匠さんいわくのアキちゃんだったが――に許可をもらおうと思っていたのに。
 このままでは見つけることはおろか、探しに行くこともできない。
 けれど口に出すのは憚られた。レイヤのわがままで暁さんをこれ以上困らせるわけにはいかない。
「おじさん、」
「わかった。一歩も外に出ないよ、約束する」
 しぃの言葉に重ねて、レイヤは矢継ぎ早にいった。
 その後ちらりと見たしぃに、いいの、と問いたげな視線を投げかけられてしまい、レイヤは目だけで頷いておく。
 それに、暁さんはいっていた。
(今はとりあえずってことは、後でも行ける可能性はあるよね)
 今が無理なら後でいくらでも探しに行こう。密かにそう決心して。
「ねえ、おじさん。ちょっと聞いてもいい?」
 だからしぃがそういい出した時には、そのことをいわれるのではないかと慌ててしまったのだ。
「ああ、何だ?」
「ちょっ……しぃ、待って」
 割って入ろうとしたレイヤはしぃに押し止められ、ますますパニックに陥ってしまう。
 どうして止めるのだろう。せっかく今はいわないと決めたのに、しぃがいってしまっては元も子もないではないか。
「さっき匠にいってた箱庭ってなに?」
 実際に出てきたのはレイヤが予想もしていなかった内容で、声のことには少しも触れていなかったけれど。
「は……箱庭?」
「おじさんは私たちが箱庭にいたっていってたでしょう。箱庭ってあの森のことなの? 森にあった網が何か、おじさんなら知ってるんでしょう?」
 暁さんを見上げるしぃは必死な様子だった。
 突然どうしたのだろう。
「しぃ? どうしたの」
「ねえ、ちゃんと教えて。おじさんの仕事って何。私たちに森を越えないようにいったのはどうして?」
 レイヤは混乱する。しぃは一体どうしてしまったのか。それはまるで塞き止められていた場所が決壊し、流れ出る水の勢いと良く似ていた。


  →#7へ。


箱庭の世界―Closed Garden― #5

 ――#5 導かれた場所

 レイがいっていたように、匠に導かれて着いたそこは建物だった。
「大きい……」
 見上げるほどに大きい。首を上向かせなければ上まで見えない。今までこんな高いものは木でしか知らなかったから、これだけ高い建物があったことに驚いた。椎葉の中で建物といえば自分達が居住に使っているあの家くらいだ。
 入り口には制服で身を固めた人物が一人、特に何ということもなく立っていた。一体何をしているのだろう。
「ごくろーさん」
 匠がその人に話しかけると訝しげな視線を寄越した。
「若狭様こちらの方々は?」
 通りすぎようとした匠を呼び止め、椎葉とレイをじろじろと見てくる。
 いっそ不躾だといいたい。不審人物とでも思われているのだろうか。
「アキちゃんがいってた奴だよ、許可はもらってるから心配すんな」
「それは失礼しました。どうぞお通り下さい、東条様がお待ちです」
 匠の一言だけであっさりと道を譲られた。
 申し訳ございません、と頭を下げた彼に恐縮しつつ、椎葉とレイは足早に中へと入る。
「うわ……」
 一歩中に入ると別世界が広がっていた。
「しぃ、上見てみなよ」
 天井は高く、遥か上の位置にある。吊り下げられた豪華な電気はきらびやかな装飾で見事だった。
「すごい、上まで見えるんだ」
 ここからでも上階の様子がわかる。吹き抜け、という造りだろうか。
 辺りを見やれば人がまばらに動いており、全員が全員同じように白い服に身を包んでいた。違う服装である匠や椎葉たちは自然と目立つ。晒される視線に居心地の悪い思いがした。
「ねえ、匠って偉いの?」
 受ける視線を思考から追いやり、椎葉は話題を見つけて匠に話しかける。
 時折通りすがる白い服の人たちは匠に頭を下げて行く。匠もそれに応えてはいるが、片手を上げたり肩を叩いたりとどう見ても匠の方が立場は上だ。
「さーね。オレはここにいるわけじゃねーから、オレというよりアキちゃんに対してだろ」
「じゃあアキちゃんって人が偉いんだ。匠はアキちゃんって人と知り合いだからみんな挨拶してるの?」
「そーいうこと。要は上に気に入られたいんだよ。そうすれば自分のやりたいこともできるし、結果も残せるってわけ」
 投げやりな調子で説明される。
「匠さんは嫌いなの?」
 歩いたまま匠はレイを振り向いた。
「まーな。取り入りたいって気持ちもわからなくはないが、オレは自分で上がる主義なんでね。他力本願でやろうとする連中見てると反吐が出る」
 そう軽やかに言われたが、内容まで軽くはない。
「その点アキちゃんは尊敬してるよ。あの人は自力で上り詰めた人だからさ」
 一度振り返った匠は本当に嬉しそうだった。
「すごい人なんだね、そのアキちゃんって人。俺たちがこれから会う人なんだよね?」
「そうだぜ。もう少しで着くからな」
 匠が再び前を向いた時、椎葉はレイの腕をこっそり引いた。
「ねえ、あの声まだ聞こえてる?」
 レイは頷いて小声で返してくる。
「うん。ここに入ってから強くなってるんだ。きっとここのどこかにいると思うんだけど……」
 これだけ広いと場所の見当もつきにくいのだろう。
「変ね。森の声なのに建物の中でも聞こえるなんて。それとも森に囲まれてるから聞こえるだけ? うーん……森の声じゃないのかしら」
「違うよ。ここから聞こえてくるのは間違いないんだ。いつもの声なんだけど、俺に語りかける声が強いっていうか何ていうか……いつもとは違う気がする。ずっと俺を呼んでるんだ」
 独り言のように呟いていたのだが、レイに聞かれてしまったようだ。
「レイを呼んでるの? どんなふうに?」
 挨拶をされたり遊ばれたりするならよくあったらしいが、呼ばれるというのは初耳だ。
「助けて、って」
「助けてか……」
 つまりはレイに助けを求めている。理由はわからないけれど、切羽詰まった状態にあるという解釈をしてもいいのだろうか。
(私の思い違いなら良いんだけど)
 椎葉は顔を曇らせるレイを横目にし、声の聞こえない自分がもどかしいと感じてしまう。何もしてあげられず、ただレイを見ているだけなんて嫌だ。
「後で匠にこの中見れるか訊いてみよう? いいっていわれたら一緒に探しに行こうよ」
 レイを困らせるのは楽しいけれど、やはりどんな時でもレイには笑ってほしかったから。

  **

「着いたぜ」
 同じ扉が並んでいる廊下。匠さんはその中の一つの前に立ち止まって二回扉を叩いた。こんな目印も何もない扉に、よく間違えずに着けるものだと感心してしまう。レイヤだったら絶対に迷う自信があった。
「アーキちゃーん、新人の奴ら連れてきたぜー」
 匠さんはおそらく中から返ってくるであろう返事も待たずに、さっさと扉を押し開けて戸口から叫ぶ。
(叩いた意味ないような……)
 レイヤは思ったが口には出さなかった。
「アキちゃーん、いねえのー? おーい、アキちゃ」
「聞こえてる、さっさと入ってこい匠!」
 怒鳴り声が返され、匠さんが首を縮こまらせる。怒られる時の仕草と良く似ていた。
(あれ、そういえば今の声)
「こえー……椎葉にレイヤ、中に入りな」
 レイヤの疑問が答えになるより早く、匠さんに促される。
「おじゃましまーす」
 彼の後に続いて二人は扉をくぐった。
 入り口から中が見えなかったのは、空いた空間を全て占めるかのように置かれた棚のせいだった。中からの声が遠くから聞こえたと思ったのはこうなっていたからか。
(迷路みたいだ)
 ぎりぎり人一人が通れる隙間を進み、匠さんの背中を追う。部屋は意外にも広い。先程の声を上げた人物はまだお目にかかれないのか。
「アキちゃんお待たー。ただいま戻りました」
「遅い。出ていってから何分経ったと思ってる」
「そこはほら、休憩時間も兼ねてたわけよ。アキちゃんがここぞとばかりに酷使してくれたもんだから?」
「……まあ、間違いではないからな。そういうことにしておいてやる。それで、連れてきたのか?」
「もち」
 先に着いた匠さんが話している。
 と、前にいたしぃが後ろを向いた。
「レイ、アキちゃんってもしかして」
 どうやら同じことに思い当たったようだ。
 レイヤが頷くより早く、二人は匠さんに引っ張り出されてしまった。突き出された、といっても過言ではないかもしれない。
「はいよー、ご到着! ってアキちゃん?」
 目が合うと同時に、アキちゃんと呼ばれていた人は勢い良く椅子から立ち上がった。
 やっぱり、アキちゃんは――
「っ! 椎葉、レイヤ!?」
 今まで喋っていた冷静さはどこへやら。驚きを露にレイヤたちを呼んだのは、アキちゃんこと暁さんだった。


  →#6へ。


箱庭の世界―Closed Garden― #4

 ――#4 呼び声

 穴が下にあったものだから椎葉は地面を這い、なんとか通り抜ける。椎葉は後からくぐってきたレイに手を貸して立たせてやり、改めて穴を見た。
 もともと小さくはないその穴。土で服が汚れてしまったけれど、途中引っかけて破けるよりはましだ。
 二人して汚れた服を払うと、パラパラ音を立てて土が落ちていく。全部綺麗には取れなかったが、当面はこれで大丈夫だろう。
 椎葉はさっきまで届かなかった川に走り寄り、手を入れて暫しその冷たさに浸った。
「気持ち良いー」
 歓声を上げ、手招きでレイを呼ぶ。後ろで椎葉と同じように服を払っていたレイはその手を止めると、すぐに椎葉の元へとやってくる。椎葉の隣にしゃがみ、川を覗き込んだ。
「ここの水綺麗だね。小さいし、遡れば湧き水でもあるのかな」
「湧き水かぁ。ありそうだね」
 レイがいうように川はあまり大きくなく、椎葉が簡単に飛び越せるくらいの幅だ。
 こちら側に来てみたのは良いのだが、さてこれからどうしたものか。
 指から伝う冷たさが頭の芯まで鮮明にしていく。椎葉は目を閉じ、その深層まで潜り込む。
「しぃ、建物がある」
 椎葉を呼び覚ましたのは、いつの間にか立ち上がっていたレイの声だった。
「どこ?」
「あそこ、ちょうど木の間から見える白いやつだよ」
 自然のものではないとわかるけれど、それが建物であるとは断定しづらい。椎葉の目に見えたのはおそらくほんの一部、角張った白い何かとしかいえなかった。
「レイ、あれ建物なの?」
「多分そうだと思う……」
 聞き返したことでレイもはっきり知っているわけではないとわかる。
 その一言で椎葉はぴんときた。レイは根拠がなくても、そう『わかって』いるのだと。
「森が騒いでるんだ。あの建物を指してざわめいてる」
 椎葉が言うより早く、レイはどこか緊張した面持ちを浮かべて葉を一枚拾い上げた。
「いつもの声?」
「うん。あそこには近づくなって、森が怯えてる気がするんだ。単なる気のせいだといいんだけど」
 昔からレイは森の声が聞こえる。
 特別だからではない。そうした特性があるのだと、レイは人ではなく精霊と呼ばれる種族だと聞いたのは、もう随分と前になる。
 レイの左手首に巻かれた白い布。今は隠されているが、そこに精霊の証である紋が描かれているのを椎葉は知っている。
「じゃああまり近づかない方がいいね。あそこじゃない他のところに行ってみよ?」
 椎葉は身体を両腕で抱きながら立つレイの背中をぽんと叩いた。
「ん……。ねえ、しぃ――!」
 言いかけたレイが唐突に椎葉を背へと庇う。片手で椎葉を制するレイが緊張している。
「レイ?」
 強張る肩に手を置こうとしたその時だった。
「誰かいる」
 小声で答えるレイが見据える方向から、葉を踏む音が近づいてくる。規則正しい音。人か獣か、あるいは他の何か――?
「おあ? お前ら、ここで何してんだ?」
 椎葉たちの前に現れたのは、一人の青年だった。

  **

 キテハダメ。
 網を潜り抜けたレイヤに語りかける声があった。微かで弱々しく、今にも消えそうな言葉で。
 カエリナサイ、モドッテ。オネガイ。
 拒絶する響きに隠されて、懇願する叫びを聞いた。
 ――タスケテ。
 レイヤを呼ぶ声。あの白い建物から、確かに聞こえたのだ。
 しぃは他の場所に行こうといったけれど、聞こえた声が気になって仕方なかった。だから声に気を取られ、近づく気配に気づくのが遅くなってしまった。
 レイヤは対峙する男を睨み付ける。目の前にいるのは得体の知れない人物。椎葉を逃がすべきかどうしようか、悩むレイヤに男が語りかけてきた。
「なあお前ら、この森に迷い込んだのか?」
「いえ、違います。えーと……」
 果たして何と答えればいいのだろうか。
(森にある家から出てきたっていったら怒られるかな……)
 脳裏に浮かぶのは暁さんからの忠告だ。勝手に出てきてしまったことを咎められるのではないかと気が気でない。
 答えあぐねるレイヤに何を思ったのか、男は突然納得した風情で手を打った。
「ああ、ひよっとしてアキちゃんが今日から来るっていってた新人か! 何だ、それならそうと早く言えっての。スゲー探しちまったぜ」
 肩をバシバシ叩かれたレイヤは、ただ唖然とするしかない。
「初日だからってんな堅くなんなくていいからな。ほら、リラックスリラックス」
「はあ……」
 込められる力が痛い。リラックスどころか余計に痛めている気がする
「レイ? 大丈夫?」
 見かねたしぃが後ろから覗き込んできた。
「へえ、お前はレイっつーのか。後ろの子は?」
「椎葉といいます」
 ずいと前に出て話すしぃはレイヤよりよほど度胸が座っている。
「俺はレイヤです」
 慌ててしぃの後から付け足すように訂正する。
「椎葉にレイヤか、覚えたぜ。オレは匠。呼び捨てでもなんでも好きに呼べよ」
 そういって匠と名乗った彼は右手を差し出してきた。
「握手。知らねーの?」
「あくしゅ?」
「アキちゃんがいってた世間知らずって本当だったんだな。ったく、こうするんだよ」
 レイヤが戸惑いながら見ていると、呆れたように右手を取られた。そのまま彼の右手に握られ、上下にぶんぶん振られる。
「はい、あーくーしゅ。よろしくな」
 言い終わると同時にレイヤの右手は解放された。
「握手ってのは挨拶のひとつだ。これからも仲良くやろうぜ、っつー意味で交わすもんなんだよ。言っとくけど逆の手でやるんじゃねーぞ」
「どうして?」
 左手でやることの何がいけないのだろうか。ただ単に手が変わるだけなのに。
「お前とは仲良くしたくねえっていう別の意味を表すからだ。覚えとけよ」
「へえ、そうなんだ……」
 レイヤは両手を見比べる。誰かに握手するときは気を付けないとならない。
「よろしくね、匠」
「おう。こちらこそ」
 匠と椎葉が握手するのを眺めると、確かに右手で交わしている。ただし上下には振っていなかったけれど。
(『あくしゅ』は右手でやるもの。うん、覚えた)
「よし、じゃあ行くか」
 先頭を切って歩き始める匠。
「行くって、どこに?」
 レイヤはその背に追いつき問いかける。
「行くっつったら一つしかねーだろ。まずはアキちゃんに挨拶しに行くんだよ、あそこまでな」
 匠が親指で示す先にあったのは、やはりというか例の白い建物だった。
 レイヤは建物がある方向を無言で見上げる。と、腕に抱きついてくる気配があった。
 ぎょっとして横を見ると、そこにはしぃがいた。
「大丈夫、私もいるからね」
「うん」
 ――タスケテ。
 レイヤを呼んでいる。その声の主は誰だろう。


  →#5へ。

箱庭の世界―Closed Garden― #3

 ――#3 森の向こう側

 今までどんなに遠くても、背後で家がギリギリ見える位置までしか行ったことがなかった。椎葉は振り返る。後ろに家が見えないことに、ひどく頼りなさを覚えた。
「しぃ? どうしたの?」
 椎葉は繋いだ手をぎゅっと握り返す。不安でどこかに寂しい気持ちもあるけれど、それも誰かが傍にいると紛れた。
「ううん、何でもないの」
 レイがいてくれる。それだけで心強かった。
 椎葉一人ではあの家から決して出てこれなかっただろう。わからないままは嫌だけど、同時に一人で確かめて知る勇気もなかったから。
「この森、意外に広いんだね。家の周りしか行ったことないからかな。――あ。しぃ、水の音が聞こえるよ」
 レイにいわれたように耳を済ますと、確かにどこからか水音が聞こえてくる。それも近くだ。
「ほんと。滝があるのかな。それとも、川?」
 ずっと前、おじさんに連れられて行った川を思い出す。
 膝まで埋まった水量。流れは穏やかで、けれど下流には大きな滝があった。
 底の見えない高さと顔に当たる飛沫、上流の穏やかさの欠片もない音を轟かせる滝を前に、椎葉はその幼心から恐怖を抱いた。隣にいたおじさんの服の裾を必死に掴んで離さなかったほどだ。
(懐かしい)
「レイ、あっちから聞こえるみたいよ。ね、行こう!」
 レイと繋いだ手を強引に引き、椎葉は自分の背丈より少し高い草をかき分けて進む。
「ちょっ、しぃ、危ないよ! 草で切れちゃうから……」
 レイの慌てた声には介しない。
「平気平気、大したことないわよ。あ、ほら、あった!」
 最後の草を脇にどかし、その根元を踏む。嬉々とした椎葉であったが、前方が露になった途端その光景に口を閉ざした。
「なに、これ……」
 かろうじて一言を漏らし、川の方へ近づく。
 しかし幾歩もいかないうちに立ち止まらなければならなかった。レイの手を離しあちらへと伸ばそうとした両手が、カシャリと音を立てて遮られる。
 川まであと数十歩。すぐ目の前にあるのに、ここから先へは進めない。
 呆然とした椎葉たちの前に、鉄の冷たい網が物言わぬ壁として立ち塞がっていた。

  **

 レイヤの眼前に現れたそれは、異色のものとして映った。自然が続く森の終わりに、人工のものだと思われる鉄の格子。景色にも溶け込めていないし、不釣り合いだ。
「どうしてこんなところにあるの?」
 格子網にすがり困惑するしぃの横から向こう側を眺める。
 木の間を通る細い川と、レイヤの肩ほどもない高さの小さな滝。流れる川の音は間違いなくあそこからだ。川の底にある石までちゃんと見え、ここからでも水が澄んでいるのがわかる。きっと冷たくて気持ち良いのだろう。
 触ってみたいけれど、無情にも行き止まりだ。向こう側へは行けない。容易く上れるほどの高さでもない。
「せっかく見つけたのに……これじゃあ向こう側に出られないじゃない」
「――出る?」
 口を尖らせたしぃにはっとなる。
(もしかしたら、これ……)
 確信はなかったけれど、間違いだとも思わなかった。
「しぃ、もしかしてこれ檻じゃないかな」
 そう、まるで檻だ。レイヤの家にあった空の鳥籠と酷似した網、逃がさないようにするための囲い。
「檻って……猛獣がいるわけじゃないんだし、そんな必要ないじゃない。違うよ」
 否定しようとするしぃに首を振る。
「同じだよ、きっと。逃げ出さないよう閉じ込めておくために、この網はあるんじゃない?」
 せめてこの推測が間違っていれば良いのに。
 ――暁さん。
 危険があるといった。あなたはここに、どんな危険があると言うの。あなたが言ったことは嘘だったの。
「俺たちがここから逃げ出さないように。違う?」
 驚き固まるしぃから視線を外し、レイヤは背けたくなる目を格子へと向けた。
 左右に広がる網。どこまで続いているのだろう。
「レイ、それは考えすぎ。だってこれ、あちこち錆びてて随分古いじゃない。きっと前からあったのよ」
「そうかな……」
 しぃが言うほど自信はない。レイヤは足元に視線を落とした。
「またおじさんが来た時に訊いてみよう? 怒られるのは覚悟しないといけないけどね?」
「そうだね」
「それとも――」
 しぃは企みを込めて笑う。
「そこに開いてる穴から出て確かめてみるって方法もあるわ」
 しぃが指したのはレイヤの後ろ。錆びた箇所が脆くなったのか、人一人は通れそうな穴が開いていた。
「どうするの? しぃ」
 わかっているくせに訊くのは愚問かもしれない。
「もちろん、穴をくぐって向こう側に行くわ。調べないとわからないし、ほんとに危なくなったら戻ってくれば良いんだから」
 どうやら止められそうにない。
「レイは?」
 意地の悪い質問だ。しぃは答えがわかってて問いかけてくるのだから。
「俺も行くよ」
 ここまで来たら、引き返せないではないか。


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箱庭の世界―Closed Garden― #2

 ――#2 些細な疑問点

「もう、レイは心配性なんだから」
 レイの小言を聞き流してキッチンへと入った椎葉は、ミトンを付けてオーブンからパイを取り出した。
 表面は見目さくさくとしていて、香ばしい香りがキッチンいっぱいに漂う。焼き加減はちょうど良さそうだ。
 ナイフで一つ小さく切りわけ、軽く冷ましてから毒味とばかりに口の中に放り込む。中身はまだ熱くて涙目になってしまったけれど、好みの味に仕上がっていて満足した。
「うん、上出来。さすが私!」
 木の実を混ぜて作ったカスタードパイ。何を隠そう椎葉の大好物なのだ。
 レイはおじさんとまだ話しているのだろうか。
 椎葉が二人を呼びにいこうとした矢先、レイがキッチンに顔を出した。
「しぃ」
「レイ、ほら見て。美味しく焼けたよ。おじさんも呼んで、お茶にしよう?」
 一人でやって来たレイに声をかけ、椎葉は残りのパイもわけてしまおうとナイフを持つ。さて、何等分にわけようか。
「暁さんは来ないよ。仕事があるからって、戻ったんだ」
「そうなの?」
 椎葉は切りわける手を止めた。レイがおじさんを連れてこなかったのはそのせいだったのか。
(んー、残念。おじさんにも食べてもらいたかったのにな)
 せっかく美味しく焼けたのに。
 けれど仕事なら仕方ない。またの機会にしてもらおう。
「次に来る時はしぃのパイを食べさせてくれっていってた」
 心の中を読まれたようなタイミングのよさでレイがいった。その何気ない一言は嬉しい。
「そっか。じゃあ次はがぜん張り切らないとね」
 なに作ろうかな、と考えていると、苦笑するレイが視界に入った。
「なあに?」
 何か変なことでもいっただろうか。覚えはない。
「ううん、しぃらしいなと思って」
「そう?」
 理由を聞いても首を傾げてしまう。
「お茶は俺が淹れるよ。いつものでいい?」
「うん、お願いね」
 椎葉は改めてナイフを構え直す。二人だけのささやかなお茶会を開くまで、もうすぐだ。

  **

「そういえばしぃ、暁さんに森の向こうに行くなって釘刺されたよ」
 皿のパイが半分ほど減りティーカップの底が見えてくる頃、レイヤはそんな言葉で先ほど暁さんから受けた忠告を切り出した。
 両手でティーカップを持ったまま、しぃは両目を瞬かせる。
「前からいわれてたことだよね? 何でまた突然?」
「そうなんだよね……。今考えてみると何でだろう」
『森の向こうに行ってはならない』
 それは、今よりもっと小さな頃からいい聞かせられてきた言葉だ。同時に悪戯や危険なこと以外何をしても笑って許してくれた穏和で優しい暁さんが、唯一厳しくなる時だった。
「――もしかして、おじさんが私たちにいえない秘密を隠してるとか」
 冗談めいていうしぃは表情だけでも真剣さを作ろうと必死に頑張っているが、笑っている口許がそれを徒労に終わらせている。
「まさか。単に危険だってこといいたかったんじゃない? ほら昔さ、俺としぃが木に登って落ちかけた時、暁さんにこっぴどく叱られたの覚えてる?」
 数年前のことだ。
 森で囲まれた場所で育ったため、木の実をとったりして昔から木登りの得意な二人だった。しかしある木の実をとろうとしぃが細い枝に足をかけた途端しぃの体重を支えきれなかった枝がぽきりと折れ、危うく取り損ねた木の実同様地面に叩きつけられそうになったのである。
 間一髪、たまたま来ていた暁さんが間に合ってことなきを得たのだが、その後鬼のような形相で怒られてしまった。
「忘れないよ! あの時のおじさん、凄く怖かったんだから」
「しぃってば、ずっと泣いてたもんね」
「もー、思い出させないで」
 それ以来暁さんに面と向かって怒鳴られたことはなかったが、そのたった一回だけでしぃは変なトラウマを植えつけられてしまったのかもしれない。
「あの時危険なことは止めなさいって散々怒られたんだよね。だから今回もきっとそのせいだと思うよ」
 暁さんは根拠のないことで怒らない。危険だったから、また同じことを起こさないよう注意したのだ。
 そこで、レイヤははたと気づく。
(なんか俺、無理矢理こじつけようとしてない?)
 レイヤが考えているのは暁さんが持つ明確な理由ではなく、憶測の域にすぎない。無意識のうちにこうであったらいいと希望を口にしている。
 ――考えすぎだよね。
「おじさんは危ないっていうけど……じゃあ、レイは森の向こうに何があるか知ってるの?」
「え?」
 そのしぃの唐突な問いに、レイヤは続ける言葉がなくなった。
 思考が読まれたかと一瞬焦り、しぃをまじまじと覗き込む。
(――単なる疑問だよね……)
 しぃの表情からは残念ながら何も読み取れない。レイヤは頭を切り替えた。
 危険だ、危ない、暁さんに何度もいわれてきた。では何故危ないのか。何故危険なのか。一度もその理由を聞いたことがないと今更気づく。
「……俺も知らない。暁さんにいわれたから行っちゃ駄目なんだって思ってたけど……」
 どうしてだろう。しぃの疑問が気になる。
 それと同時に、酷く不安になってくる。
「なら、話は簡単」
 急に立ち上がるしぃはにんまりとレイヤの手を引いた。そして森を指したかと思うと、にんまりと宣言したのだ。
「レイ、今から森の向こうまで確認しに行こう!」
 レイヤの開いた口が塞がらない。またしぃは突拍子もないことをいう。
「今から!?」
「ほらっ、行動は急ぐもの。レイも早く立って」
 レイヤは引っ張られる腕に必死で抵抗し、浮かしかけた腰を落ち着けようともがく。
「ええっ、まずいよ! 暁さんにいわれただろ!」
 しぃを見上げて知る。
「いわれたよ。でもね、何もわからないで事実だけ受け入れるのは嫌なの。おじさんとの約束破るのは怖いけど……流されたままで終わりたくないんだもん」
 言葉の真摯さに、抱えている不安に、握り締めていなければ震えたままのその手に。
「レイは、ついてきてくれる?」
 椅子を引いて立ち上がり、レイヤはしぃの手を両手で包み込んでにっこり笑う。
 もう決まっている。レイヤの答えはたった一つだ。
「もちろん。しぃの不安は俺が全部取り除いてあげる。しぃは俺が守るよ」
「ありがとう!」
 照れたのか、しぃははにかんでみせた。


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