会期最終日の20日に行ってきました。
本当は今月の第3週くらいに行くつもりだったのですが、震災の影響で横浜美術館が閉館していたためやむなく最終日に。
横浜美術館が横浜市の中でも停電しない地区なのに閉まっていたのは、職員が出勤できなかったからだそうです。
会期ラスト2日だけでも開いてよかったと思います。
展覧会は1回限りなので。
高嶺さんは去年の
六本木クロッシングで《ベイビー・インサドン》を出していて、凄く印象に残っていました。
(今回も出展されていました。)
展示室を丸々使った大型のインスタレーションが2点。
《A Big Blow-job》は生活感あふれる暗い部屋に何か文章が書いてあって、スポットライトが当たったところのみ文字が見えるというもの。
ライトの動きが生きもののようでした。
文章の内容は吉岡洋の「新共通感覚論」という小難しいテキストでした。
もう1つは《とおくてよくみえない》という展覧会タイトルそのままな作品。
スクリーンに写し出されるのはシルエットなのでよく見えない。
あんまりよくわからなかったけど、詩が印象的でした。
今回私が一番気になったのが〈緑の部屋〉シリーズ。
展示室に入ってすぐの《戦争》のような幾何学的抽象画もあれば、《フェルメールの寓意》のようなフェルメールの《地理学者》を模倣したようなものも。
今回唯一の平面作品ですが…
不粋だ野暮だと言われるのを覚悟で言いますが。
これ、去年の夏に市民から募集してた毛布ですよね?笑
最初の方は普通に見てたのですが、キャプションを読めば読むほど胡散臭い。
というか、キャプションが美術史的であればあるほど胡散臭い。
この作品については、色々なことが考えられて面白いと思いました。
以下、私が徒然と考えた3つを徒然と書きますが。
まず、レディメイドの問題。
デュシャンからのかなり正統派な流れだと思いました。
レディメイドで作者は手を加えていないものを美術館に飾る。
そして、いかにも芸術品ですって顔をさせる。
デュシャンは便器にサインを入れることで芸術品面させましたが、高嶺さんはキャプションをつけることで達成しました。
次に、美術館での鑑賞の在り方の問題。
この作品はこれらを「ふーん」とか「へぇ」とかもっともらしいことを言いながら見ている鑑賞者が居てこそではないかと思います。
これはいわば「絵画のまがい物」であって、そのまがい物に気付かない鑑賞者。
つまり、見ている様で見ていないわけです。
私もキャプションの違和感に気付かなければ、あるいは去年横浜美術館が毛布を集めていたことを知らなければきっと、毛布だとか思いもしないでしょう。
よく見れば明らかに生活感漂う毛布だったりするにもかかわらず、「美術館には本物が飾ってある」という先入観故に盲目になるのです。
あるいは、美術史の知識がまるでなければそれっぽいキャプションが付いてるために盲目になる。
最後に、どんなささいな絵でも大なり小なり美術史から影響されているということ。
歴史は現代に至るプロセスですから当然なんですが、忘れがちなので。
この作品ではキャプションが胡散臭いと言いましたが、どう胡散臭いかというと誇大広告っぽい。
それって要は些細な美術史的特徴を拾って堂々と書いているわけですよね。
家庭にある毛布なんて大体が何でもないような絵だったり柄だったりするにも関わらず。
そんなものからも些細ながら美術史的特徴は見当たることが純粋に面白いと感じました。
さて、遅筆なために最終日から結構経ってしまいました。
中谷ミチコ展を横浜美術館内のスペースで同時開催していました。
凄くよかったです。
作品数は展示室1つ分程度ですが、入場無料。
会期が延びて明日で会期終了ですが、お近くの方は是非。