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移転。

ブログを移転しました。

下記のURLでございますぅ(●^o^●)

尚、このブログも残しておきます。

「セリユールの詩」
aiai4695.blogspot.com

祈り。



祈って下さい
誰にも知られず 気づかれず
時にベールの下
時にロザリオの珠
誰もいない聖堂で
誰も来ないあなたの部屋で
愛する見知らぬ人へ

祈って下さい
誰かとあなたは祈り合う
祈りと祈りは出逢います

祈って下さい
今宵、祈り逢うために

information



数年間、このエムブロを使用していました。
パソコンなど持っていなかった事、友人達が携帯でのアクセスがメインだった事
などなど。。。
そんな理由でこのブログを使ってきましたが
表示画像の全体量が、そろそろ限界に来てしまい
ブログの移転をする事に致しました。

パソコンメインのブログですが、モバイルでのアクセスも可能な事
また、スマートフォンの普及から移転しても大丈夫かなと判断致しました。

このアカウントは、そのまま残しておきます。

新しいブログのURLは下記の通りです。
今後とも、ホスチアを宜しくです(●^o^●)

aiai4695.blogspot.com

御手をひろげて




長崎・カトリック本河内教会。

聖母の騎士達の城である、聖者アウシュビッツの聖コルベ神父様が創められた教会
その祭壇中央には、大きな聖マリア様の御像が在る。
マリア様の上には、十字架のイエズス様。

実はこのレイアウト、以前はマリア様が上で十字架が下だったのです。
マリア様に寄り頼み祈り暮らす聖母の騎士らしい祭壇だったのですが
やはり、イエズス様より上には・・・と、云う事で位置が入れ替わったそうです。

祭壇は、教会により様々なレイアウトになっていたりしますが
それは、教会を建てた時の神学が現われるているらしいのです。

十字架、マリア像、御聖櫃と祭壇、その位置関係が教会により異なっているのは
そのような訳みたいです。

何が正しいのかは、在るのかもしれませんが、俺はこの本河内教会が好きです。

顔を上げれば、マリア様と十字架上のイエズス様が、その御手をひろげて
強く抱きすくめて下さるようで

ひろげたその御手は、御聖堂すべてを光に包み込んで
主と聖母の永遠のハーモニーが聴こえるのです。

全ての音が輝きながら、愛を奏でるのです。




司祭誕生




17日から昨日20日まで長崎に居た。
愛する兄弟のひとりが司祭へと叙階され、ひとりが助祭となった。

叙階式のリハーサルから叙階式そして翌日の初ミサまでを
たいした手伝いも出来無いまま参加させて戴いた。

司祭誕生。

本当にそう感じた。

彼は生まれたのです、白いそのカズラは彼の産着です
二千年前のベトレヘムの馬小屋の飼い葉桶に寝かされていた主の様に
白い布に包まれて
彼は祭壇の前、聖母の前そして主の御前に御生まれになりました。

生まれたばかりの新司祭は、少し弱々しく不安気な、けれど自分の2本の足でしっかりと十字架上の主イエズス様の御前に御立になっていました。

飼い葉桶の中に眠る幼子様に、十字架上の主イエズス様の様に、弱々しく自分ではその時
なにひとつ御出来にはなれない様に、そこに御立ちになっていました。





弱さは強さでしょう。

自分の弱さを知る者はとても強い。
自分の弱さを知りながらも勇気を持てるのは神様の恵みでしょう。

勇気は決して無謀な挑戦を強いたりはしない、けれどその歩みを止めはしない
ゆっくりと、しかし確実に前進するのです。

十字架上で「我が神、何故御見捨てになられたのですか」と詩編の一節を御唱えになられ
「成し遂げられた」と叫ばれた主イエズス様の様に
弱さと無力から愛が始まるのです。
弱さを知る私たちの神と、永遠に弱い者達の愛は、何者にも何事にも屈服しない強さとなり
今、新司祭の身につけたカズラに刺繍された十字架に栄光を帰すのです。





叙階の翌日、新司祭司式の御ミサ。

祭壇のその神父様は、ひとつひとつの動作、言葉をイエズス様に確認するかの様に
確かめながら、少したどたどしく進められました。
息子が父親に確認にしながら何かを造る様に

「ねぇ、これで良いの?おとうさん」

俺には、そんな愛する兄弟の声が聞こえました。



聖変化の時、私たちの新しい神父様は何を想っていたでしょう。

自らがかざした掌によって、御父がマリア様を聖母とされた様に
彼の掌を通して、その時神の御業は、小麦粉だけの薄く白いパンを主の尊い御身体へと変化されます。

「これは私の身体」

そう言いながら掲げるホスチアを見つめ、私たちの新しい神父様は
何を想ったでしょう。

兄弟達は、そして俺も何も聞きはしませんでした。

それは、彼と主イエズス様だけの愛の営み、愛の極みだから。


解かっている事は祭壇に立つ時、彼は愛する兄弟から
主イエズス・キリストの代理者となっている事。
それは神様の恵みにより司祭となった彼への恵みよりも尊い事。
彼は、恵みの分配者となったのですから。

祭壇で彼は、愛そのもに聖変化されていました。





祝福を授ける新司祭。




カズラ



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