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聖霊の賜物。

 


長崎教区の堅信式に与った。

小学6年生から高校1年生までの20数名の子供達が、洗礼の約束を更新し、聖霊の7つの賜物を主イエズス・キリストにより受けた。

多分長崎教区は日本のどの教区よりも伝統があり、また最先端のカテキズム教育を行っている教区かもしれない。

昔は「稽古」と言われた要理教育が学校の勉強以上に厳しかったようだ、その伝統が下地にある為、教会学校のリーダー達(長崎教区ではカテキスタと呼ばれている)も、熱心さばかりではなくカテキズム教育のカリキュラムから指導方法まで実によく考え、子供達を指導されている。
教材なども教区発行のテキストが充実しており、羨ましいかぎりではあるが、そのテキストを読むと俺なんか、ふ〜んそうかぁ‥などと感心し、とても勉強になる程の優れたテキストである。

堅信を受ける世代の中心はやはり中学生である
その為、高校受験と思春期と言う本人達は、大袈裟に言えば人生最初の試練の時と、心も身体も多感な時期‥
そんな中で、御両親方も今日の日を迎えられた事は、我が事の様に嬉しく感動された事でしょう。
そして、堅信を受けた子供も、今日聖霊の賜物を受けて全員が気付いた事でしょう。

それは、何?と問われても言葉では表現出来ないものなのでしょうが‥
一緒に行った中学生の男の子に、どうだった?と聞いてみると彼は少し考え

「暖かかった‥」と答えた

長崎教区大司教様に、按手された時の感想である
五感に感じるものは、なんとなく「暖かかった」のだろう、
でも彼は気付いた筈である
聖霊が確かに自分の霊と魂を祝福し、その賜物を授けてくれた事を。

神様はなんと慈しみ深く、愛に満ち溢れおられるのだろう

この子供達は、今日からひとりひとり世に派遣された
その思いと行いと、在らん限りの愛を放ちながら
福音を伝える者として

不安に刈られる事も、迷いの中で身動きが出来ないと感じ事もあるかもしれない
けれど恐れる事など何一つないのだ。

これ程までに、自分を愛されている神様がいつも傍らに居るのだから‥

堅信、おめでとうございます。


砂金取りの話し つづきを追記

 


或晩、こんな夢を見た。


寝ていると俺を呼ぶ声がする

〈 起きなさい すぐに 起きなさい 〉

眼を開けると背の低い小太りのお世話にもきれいとは言えない作業衣姿の初老の男がベットの脇に立っていた。

俺は驚いているのだが、身体が動かない

あぁ、幽霊ね‥と思い
あぁ、金縛りにした訳だ‥と思い
起き上がる事を諦めた。

すると、その作業衣姿のじぃさんオバケは、うひゃゃうひゃゃと笑いながら

〈 オバケは酷いぞぉ我が子よ、私は‥神だ。〉

神様‥なんだ‥

〈 神は白い衣を纏い、光りに包まれてなきゃならない決まりを、私は造ってはおらん、勝手なイメージを持つな 〉

はぁ‥まぁ俺の心は御見通しって事ね‥

〈 まだ信じてないようだな‥まぁ良い お前に頼みがあって来た、これからお前は、小さな川に行く、そこで砂金を探す 〉

砂金? そう思った瞬間

俺は山の中、小さな小川に立っていた

手に笊とアルミ製のカレー皿の様な物を持ち

冗談じゃないよ、此処は何処なんだよ‥つぅか日本なの‥
砂金なんてどうやって探せば良いんだよ!

神さまぁ〜っ!神さまぁ〜ってばぁ〜〜〜

返事なし‥

諦め、少し落ち着き辺りを見回すと、川岸に小屋が一軒建っていた、俺は川から上がりその小屋に向う。

だいたい、今が何時なのかも判らないのだから、小屋に誰か居れば、此処が何処で時間ぐらいは判るだろうと思った。

小屋の入口を叩き声を掛けるが
返事はない
扉を引くと、鍵などなく扉は開いた

お邪魔しますよぉ‥

小屋には、小さな窓がひとつだけ、外の光りは余り入り込んでは来ない
薄暗い小屋の中には、砂金取りに使うであろう道具と机と椅子、そして木製の戸棚があるだけだった
よく見ると奥にもう一つ部屋が在る様だ、奥の扉を開く
そこは寝室だった、粗末なベットが一つ置かれていた。

寝室から出て最初の部屋に戻ると、机の上に何かあるのに気がついた

何かメモの様なものだ

〔 この小屋で暮らし、砂金を探すのです 神様より 〕

この小屋は、俺のかい‥しかし自分で神様って書くかぁ‥やっぱ嘘くさい

とにかく、場所も判らないのだから、下手にじたばたして道も判らず山を歩く訳にもいかない

おい、でも食べ物はどうするの!コンビニなんてないだろ、それに、お金もないじゃん

何か食べ物を神様なら置いてくれてるだろ

戸棚を調べよう、戸棚を開けるとパンが一つ入っていた

必要最少限度の物は用意してくれる‥みたい

その固いパンをかじりながら、明日からどうするか考える事にした。

つづく‥

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金 祝

 


2日間に渡り長崎・本河内の聖母の騎士修道院にて、コンベンツアル聖フランシスコ会・兄弟の集いが行われ、2日目の今日は、金祝の祝いがあった。

金祝とは、司祭の敘階を受ける、終生誓願を立てるなどから
50年を迎えた司祭、修道者の功績に感謝し、お祝いをする事なのです。

今日は御ふたりの兄弟が金祝を迎えた、
御ひとりは、司祭
もう御ひとりは、修道士

主に仕え、主の道具となって50年‥その賜物は違えど、尊敬と感謝で胸が熱くなる

祝賀会場に聖フランシスコの生涯を描いた映画 ブラザーサンシスタームーンのメロディの流れる中、老司祭と老修道士ふたりは、仲良く手を繋ぎ入場されて来た。

仕える者として、歩んだ50年の歳月を英雄的と言わず何を英雄的と言うのだろうと
手を繋ぎ笑顔とも泣き顔ともつかぬ表情の御ふたりを見て感じる。

御ふたりとも長崎の御出身
長崎ならではなのだろうが、御ふたりそれぞれの御兄弟姉妹の方達も、司祭、修道者が多く
そんな御兄弟姉妹も金祝の御祝い来られている。

同じ道を歩き、ともにその苦しみや苦悩を共有して来た事だろう。

御祝いのスピーチの中で、心に残った言葉があった。

司祭や修道者は、切り花なんです、種を蒔く事も実をつけ子孫を遺す事は出来ません
しかし、切り花は人に潤いと安らぎを与えます。

司祭という賜物は、教会での大切な役割がある
信徒を導き、霊的な寄り処とならなければならない
以前聞いた事があった、司祭の苦しみは孤独なのだと
主日のミサが終わり信徒達が教会から帰る、夜遅くに突然と孤独感に襲われると‥

修道者は日々黙々と与えられた仕事を行う、誰に顧みられる訳でもなく淡々と過ぎて行く毎日
何かを遺したいと願う事は、また苦しみとなる事だろう



わたし達は、切り花で在る。



その花は暁と共に花開き、夜には枯れてしまうのだ
しかし、また朝になれば美しい花を咲かせる

輝く一瞬に全てが在る

その一瞬を懸命に続けるのだ。

心臓の鼓動がひとつ打つ度に、枯れては花開き、枯れては花開き‥



『いつも心を燃え立たせていなさい。』



それは永遠に消えない炎なんかじゃない
燃えては消えてしまう、火をつけ続けなければ一瞬燃えるだけのもの

魂に鞭打ち、火をつけ、花開く


開く花は、愛。

柔和で謙遜な平和の花。

その切り花の下には、懸命に愛の炎を絶やすまいと
祈る司祭、修道者の営みがあるのです。


コンラード神父様 おめでとうございます。

クペルチノ修道士様 おめでとうございます。


主イエズスキリストは賛美せられさせ給え。アーメン。


今日 フランシスコに逢いました。

 


イタリア、長靴の形をしたヨーロッパ国。

ローマには、世界最小の国 Vaticanが在る国。

そのイタリアのほぼ中央にアシジの街が在る。

長閑な場所らしい
でも有名な街。

そこで今から800年前に
ひとりの裕福な家庭の息子が
イエズスに呼ばれた。

そして、修道会を造った。

小さき兄弟会‥後にフランシスコ会となり世界中に会員を有する修道会となった。

そのフランシスコ会も、今は3派に分裂してしまった
聖フランシスコの精神には、そぐわないのだけれど‥

そのひとつ、コンベンツアル聖フランシスコ修道会。

今、俺が居る場所。



今日、そして明日と聖フランシスコ会創立800周年の記念として
兄弟の集いが行われている。


日本管区は聖母の騎士会と称している

アウシュビッツで囚人仲間の身代わりとなり殉教された
聖コルベ神父様が日本で開いた修道会である。

そして日本のコンベンツアルは聖母マリアの取り次ぎで発展してきたのである

長崎・本河内の御聖堂の正面祭壇の後ろには、無原罪の聖母マリア様の御像が、主の十字架と共に掲げられている。


記念ミサは、その聖母マリア様ね前で、日本中から集まった兄弟と騎士会の人達とで上げられた。


立派な聖堂、前教皇ヨハネ・パウロ2世も、マザーテレサも祈ったこの場所に今、兄弟の端くれみたいな顔をして祈っている‥

長崎に来てもうすぐ3ヶ月、毎日が御恵みの日々であったのに、

長崎に呼ばれた理由は、今日の為だったと、感じた。

日々の御恵みも全て今日に続く為の恵みだったんだと感じる

フランシスコ会の兄弟達は、年齢なんて関係ない、みんな本当の兄弟の様に暖かい

俺の知らないところで、まだ正式入会もしていないのに、何処の修道院にしようか‥
修道士志望らしいが、司祭にしようなどと話していたりしてくれている。

権威なんて言葉は存在しない、司祭であろうと修道士であろうと修道院長であろうと管区長であろうと、そこに在るのはお互いを尊敬しあう姿である。

勿論、長上には従順ではあるのだが、そこに在る上下関係は家族のそれの様だ。




たいして、聖フランシスコを知りもしないで此処に来て

この3ヶ月弱の間に少しづつ聖フランシスコを学び感じてきた

そして今日、

フランシスコに逢いました。


フランシスコ、あなたに寄り頼みながら、あなたと侶に、主の小さな最も小さな道具として生きさせて下さい。

フランシスコ、あなたの後ろから着いて歩かせて下さい。

この素晴らしき兄弟たちと。


ス ワ ロ ウ テ イ ル

 


ずっと、ずっと好きな映画がある。


岩井俊二監督作品 「スワロウテイル」


日本の様な ある亜細亜の経済大国を舞台に描かれている作品。


その国へ YEN を求めて来る貧しい国々の人々



YEN が夢と希望を叶えると信じて 福沢諭吉が印刷された「紙」を求める


けれど、違うと、多分違うと


「紙」所詮、紙。




「神」ではないのだから。



限りなく優しい物語。

どおしようもなく 愛おしい映像。

DVDで觀るのではなく、ビデオからダビングし、画質の劣化したビデオテープで觀るのが、悲しくて良い。



今、とても観たい



神奈川の部屋に戻ったら
葡萄酒を飲みながら
独りで 観ましょうね。


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