それは、いつものように店を訪れた時のこと。
 彼の口からこぼれたのは、別れを告げる言葉だった。
「今日で辞める事になったんだ」
 その言葉が持つ意味はあまりに大きすぎて、理解が追いつかずに思考が停止してしまう程の衝撃だった。
 それからどんな受け答えをして、家路についたのかも全く記憶にない。気付いたら自分の部屋にいて、ベッドで横になっていた。
 ぼんやりと眺める天井は、いつもより高いような気がした。


 意識を現実に引き戻したのは鳴り響く電子音だった。
 反射的にポケットの携帯を取り出すと、ディスプレイを覗き込む。そこには見慣れた名前が表示されていた。
「もしもし、今俺チトセの相手したい気分じゃ」
「あんた、学校来ないで何してるのよ。今日から新学期じゃない!」
「……え?」
 相手の言葉に思考が停止するのは、今日二度目の事だ。
 とは言え、先ほどよりは冷静だった。
「いや、ちょっと待てよ、まだ春休みのはず。だって今日は3月……」
 壁にかけてあるカレンダーの数字を目で追う。31日まで見て、カレンダーをめくっていない事に気付いた。
 ぺらりと紙を一枚めくると同時に脳裏によぎる一つの事象。
 そのまま手荒く3月のカレンダーを破り捨てると今日の日付を指差した。
「今日は4月1日……!」
 エイプリルフール。指差すそこには丁寧にそんな事が書いてあった。
「もう分かっちゃったの?タルトはすっかり騙されてくれたんだけどなぁ」
 がっかりしたようなチトセの声を遮り、用事を思い出したと言って通話を終了する。きれる間際に何か言ってるのが聞こえた気がしたが、聞こえなかった事にした。
 そんな事より、確かめるべき事があった。

 家を飛び出して先ほど訪れたそこに再び戻った。
 中に入り、見回すとお目当ての人はすぐに見つかった。
「イッキさん!もしかして嘘だったんですか!?」
 出た声は自分でも驚くほど大きく、半ば叫ぶようなものだった。
 彼は声に驚きつつ振り向く。
「辞めるって話?」
「はい」
「うん、そう、嘘。信じた?」
 微笑んで、彼は言う。普段より子供っぽい無邪気な笑みだった。
「隣でバイトの子が吹き出してたからバレたかなぁと思ったんだけどねぇ。すっかり騙されてくれて面白かったよ」
 彼はへらへら笑っているが、こちらからすれば笑い話ではない。
「イッキさんの馬鹿ぁぁ!!」
 衝動的にそう叫びながらきた時と同じ勢いで駆け出す。
 店を出る時にまた明日、と手を振る彼の姿がちらりと見えた。それがまた嬉しいのだから、悔しくて全力で駆けた。