ふと、何でもない事のように。
 それは彼の口から零れた。
「付き合おうか」
 しっかりと聞きとったにも関わらず、理解は一歩どころか二歩も三歩も遅れた。


 アリカさんに付き合ってる人がいる事は知っていた。
 それがイッキさんでない事を知ったのはつい最近の事だけれども。
 そして、それをイッキさんが知らない事も。

 店を訪れて、顔を見て、すぐに気付いた。
 きっと、イッキさんは知ってしまったのだと。


 あと少しで仕事を上がると聞いて食事に誘った。
 いつもの冗談だった。いつも通り断られるのだと思った。
 良いよ。イッキさんはそう答えた。

 それからの事はよく覚えていない。
 気付くとイッキさんの家の前だった。
 人のいる所にはあまり行きたくない、と言っていた気がする。
 近くにいる事を許されたのは単純に嬉しい事だった。
 ただ、こう言う時の好意を寄せる者の立場は碌な物ではないのだと。
「付き合おうか」
 この言葉が物語っていた。


「最低ですね」
 オレが言うとイッキさんは曖昧に笑んだ。
「本当にね」
「そう思うのなら撤回して下さい。好きでもない癖に付き合おう、だなんておかしいです」
「どうかな、好きでなくても付き合えるものだよ」
 イッキさんの視線が落ちる。視線の先には何もない。
「そんなの、自棄になってるだけじゃないですか」
「でも、その方がキミには都合が良いんじゃないの」
 何を言っているんだ。本当にそう思っているのか。
 声が出るより先に、手が出ていた。掌が鈍く痛む。
 イッキさんが頬を押さえて床に這いつくばっている。
「オレは、イッキさんの事が好きでした」
 胸倉を掴み上げると吐き捨てるように言う。
「でも、今のアンタの事なんか大嫌いだ」

 噛みつくように唇を奪った。
 服の裾に手を差し入れても、服を剥いでも、首筋を強く噛んでも。
 何をしても、抵抗される事はなかった。
 愛し合う為の行為ではない。ただ、刻みつけるだけの。
 苦しいだけで気持ち良くなんてない。何の意味もない。

 こんな事を望んだ訳じゃない。
 だって、イッキさんのこんな姿を見たくはなかった。


 息を乱しながら、濡れた瞳がオレを見る。その姿を見下ろして、オレは言った。
「アリカさん、ずっとイッキさんの事待ってましたよ。待ちきれなくて、行ってしまったんです」
 本人から聞いた事だった。
 何故イッキさんではない人を選んだのかを問うと、アリカさんは困ったように笑って答えた。
 あたしはせっかちだから待てなかったのよ、と。
 オレが知っているだけでも十分過ぎるほど長い間、待ち続けているようだった。
「今すぐに走ればまだ間に合うと思いますよ。アリカさんはきっと、イッキさんに応えてくれるはずです」
 イッキさんが息を飲むのが分かった。
 その喉元を掴んで力を込める。ひゅっと喉が鳴った。
「でも行かせてあげません。もう、行けないですよね」
 深く穿たれたまま、イッキさんは顔を手で覆った。
 肩が震えている。ああ傷付けたな、と思った。
 それで良かった。
「ねぇ、今だけは聞きたくない言葉だったでしょう?」

 付き合おう、だなんて。
 オレも今だけは聞きたくない言葉でしたよ。