「じゃあ、また明日」
 そんな風に言われて店をあとにするのは習慣のようなものだった。いつものように帰路につくと、ため息が零れ出た。
 今日も、言ってくれなかった。胸の内にあるのはそんな思いだ。

 この所、気にしている事があった。
 イッキさんが、近いうちに店を辞めてしまうらしい。そんな話を耳にしたからだ。
 とにかく、ショックだった。コンビニに行けば会えるのが当たり前の事で、いつの間にかそれはずっと続くものだと思い込んでいた。会えなくなる未来など、考えた事もない。
 そして、それはたまたま他の人が話しているのを聞いてしまったから分かった事であって、直接本人から聞いたのではない。
 イッキさんとはそれなりに親しくしていた、と思っていた。だからそのうち本人からその話を聞く事になるだろうと思い、心の準備だけしていつも通り振舞っていた。
 ところがどうだろう。イッキさんは一向にその話をしてくれないのだ。
 聞いた話が事実なら、その日はすぐそばに迫っている。忘れているのか、言うほどでもない仲だったのか。どちらにしても悲しくなるような理由でしかない。それを認めたくなくて、自分の方から聞く事ができない。そのうち言ってくれるのではと言う考えが捨てきれない。
 こんな事なら知ってすぐに聞いてしまえば良かった。そう思ったところで後の祭りだ。ため息をつくしかなかった。

 翌日。
 また明日と言う言葉通り、イッキさんを訪ねる。彼は相変わらずで、その話をしてくれる様子はなかった。
 ああ、またこのまま帰るんだな。そう思うと何だか笑えてきた。
 自分が何をしているのかよく分からない。どうしたいのかも。
「アズマくん、どうかしたの」
「どうしたもこうしたもありませんよ!」
 突然笑い出した物だから、驚いたイッキさんは変な物を見るような目で俺を見た。
「辞めるなら辞めるって何で言ってくれないんですか!イッキさんがそれさえ言ってくれたら俺はこんな馬鹿げた事しなくても良いんですよ!」
 そこから先は自分でも何を言っているのかよく分からなかった。それでも、溜まった不満は堰を切ったように次から次へと流れ出た。
 ぽかんとして聞いていたイッキさんも徐々に何の事を言われているのか分かってきたらしく、途中からはうんうんと頷いていた。
「残念だなぁ、バレてたのかぁ」
 一通り聞き終え、のんびりとした口調でイッキさんが呟く。
 残念ってどういう意味だ、と食いつく前にイッキさんは続けた。
「実はね、店は辞めるんだ」
「知ってますよ!!大分前から!」
「アズマくんに言わなかったのは理由があって、次の仕事場でビックリさせようかと思ってたんだよ。君はよく研究所に遊びに行くだろう?」
「確かに行きますけど、それが……」
 それが、どうかしたのか。
 そう言いかけて、やめた。どう言う事なのか分かってしまったのだ。
「研究所に来たアズマくんと鉢合わせてビックリ!とか面白いかなって」
「多分そんなビックリしないと思う、と言うか!面白いって理由で振り回された、俺の張り裂けるような思いって一体何だったんだ……」
 イッキさんはちょっとした遊び心くらいのつもりだったのだろう。あまりのくだらなさに思わず脱力してしまう。
 ふらふらっと外へ向かうと背中に声がかかる。
「アズマくーん、ごめんねー。怒ってる?」
 振り返り、首を横に振る。それを見てイッキさんは少し安心したような表情を見せた。
「帰るの?」
「帰ります。研究所に寄って、博士にイッキさんがボロ雑巾になるまで働きたいって言ってるって伝えてから」
「お、怒ってる!!ヤメテ!!!」
 一転して焦りの表情を見せるイッキさん。そして引き留めるつもりだったのかカウンターから出てこようとして、スイングドアに引っかかっている。ちょっと間抜けなその姿はもう少し見ていたかったが、その隙に俺は店を出た。
 悩んだ分の仕返しをしてやろうと思えば、今まで重かった帰路の足取りは嘘のように軽やかだった。