「突き飛ばしてひっぱたくのなら、今のうちにして下さい」
 胸ぐらを掴んで、床に力一杯叩きつけてやる。背中を強かに打ち、彼は顔を歪めた。しかし反応はそれだけで、声は一言もあげなかった。
 倒れた体に馬乗りになる。胸ぐらを引いて、顔を寄せた。
「どうして何も言わないんですか。良いんですか、これで。良くないならちゃんとそう言って下さい。言えないなら、せめて態度で示して下さいよ」
 聞こえなかったふりは出来ない距離だった。彼は困ったように首を横に振った。
「突き飛ばすのも、叩くのも、無理だよ」
「できるでしょう」
 オレよりも一回り大きくて、当然力も強いだろう。できないはずがない。
 彼はもう一度、首を振った。
「嫌なんだ。叩かれた君の痛がる顔を見るのは」
「でもそうしないと、オレはもっと傷付く」
「違うよ。君の為じゃない。オレ自身の為なんだ。拒絶して君を傷付けたって思いたくないだけ。止めない事で君が傷付いても、それは君の所為だ。だからオレは自分の為に突き飛ばしも叩きもしない」
 苛立たしいくらいに落ち着いた声だった。
 胸の奥が熱くなる。きつく奥歯を噛んだ。
「最低だろう?こんなオレの事なんて忘れてしまえば良いと思うよ」
 ふざけるな。そう叫んだつもりだった。
 実際には乾いた音がしただけだった。
「……っ」
 小さく呻くのが聞こえた。じんわりと手が痛みだして、漸く彼の頬を打ったのだと認識する。
 彼は手をあげた事に対して何も言わなかった。顔を歪めたのも一瞬で、すぐに笑みさえみせた。
「嫌いになってくれた?」
「ならない。絶対に、嫌いになんてなってやらない。傷付いて傷付いてどうしようもなくなるのを、見せつけてやる」
「……そんなの困るよ」
 そう呟いた彼の唇の端は切れて血が滲んでいた。そこに唇を寄せる。彼は困ったように眉根を寄せ、目を伏せた。

 初めてのキスは、血の味がした。