連絡をしようと携帯を開く。しかし目当ての名前を見つける事ができない。
思い返してみると連絡先を聞いた事はなかったかもしれない。アドレスを教えた事はあったはずだが、不思議と彼からメールを送って事は一度もなかった。
今までどうしていたのか考える。こちらからアクションを起こす前に彼は現れていた。しつこく頻繁に。だから、この小さな端末に頼る必要などなかった。
また二、三日の間に顔を見せてくれるだろう。
今度会ったらまず電話番号とアドレスを聞こうと思った。
それから一週間が経った。
その間、彼の姿は一度も見なかった。
*****
校門近くにいる男に見覚えがあった。
見なかったふりをしようかと思った。しかし明らかに目が合っていた。
どうしようかと悩んだのも一瞬で、そのまま目を逸らしていつも通りに校門を出た。見たとか見ないとか、もうどっちでも良い事だった。
慌てたように後ろから足音がついてくる。気付いていたけれど振り向かなかった。
何か言われても答えないつもりだった。それは一度口を開けば余計な事まで零してしまいそうだったからだ。
「怒ってるの?」
「いいえ」
結局、問われて反射的に答えてしまったけれども。
「じゃあ何なの?」
「……あの、避けられてるって分かっててやってますよね」
横に並んで顔を覗き込んでくる彼の顔を見ないようにしながら問い返す。
彼は分かってるとだけ言った。離れる様子はなく、歩調をずらそうとしても合わせてくる。あんまり上手くやるので、少し腹が立った。
「何しに来たんですか」
「言いたい事があったんだけど、それを伝える術を何も持ってない事に気付いてね」
そうだろうな、と思った。連絡先なんて聞かれた事がないから教えた事がない。
必要がなかったのだ。今の今まで。それはオレがしつこくしていたから仕方がない事だ。
「アドレスとか聞きたいんだけど」
「教えてもらえると思いますか」
「さぁ、それはアズマくんにしか分からないと思うな」
避けられていると分かっている癖に図々しい態度だと思った。
こんなにしつこい人だったろうか。知っている限り、そんな姿は見た事がない。
「良いですよ。アドレスくらいなら教えても。どうせ返事はできませんから」
「返す気がないって事?」
「言葉通りです。オレ、携帯の使い方分からないんで」
正直に答えると、彼は言葉を失った。
こんな事を言うのも初めてだったのだと知った。オレは彼の事を知ろうと必死だったけれど、彼は違った。そう言う事なんだろう。
考える程に悲しくなってくる。今更こんな風に向かってこられても困るのだ。
どうして今なのか。どうしてもっと早く。
「で、どこまでついてくるつもりですか」
もうこれ以上はつら過ぎる、と思った。
「そうだな、家まで行こうかなぁ。どうする?」
何でもない事のように言い放たれた言葉に、思わず足を止めた。
「何言ってるんですか」
一歩だけ先に進んだ彼が振り向いた。そこで、漸く彼の顔を見た。
いつも通りの顔がそこにあるのだと思っていた。
実際は違った。思っていた以上に、情けない顔がそこにはあった。
何て顔をしてるんだ。まるで泣きだしそうな顔じゃないか。泣きたいのはこっちだ、と思った。
見ていられなくて、視線を落とす。
「うん、冗談。ちょっと、これ以上は無理かもしれない」
嫌われるのには慣れていない、彼はそう続けて笑った。いや、笑ったような気がした。きっと、先程見たつらそうな表情のまま笑った事だろう。
相槌を打つ事もせずにただ足元を見ていた。このまま去ってくれる事を願いながら。
「言いたい事あったけど、やめておくよ」
足が向きを変える。早く、と念じる。しかし二歩三歩と進んだ所で歩みは止まった。
長いようで短い沈黙。暫しの間を空けて、彼は躊躇いがちに言った。
「あのさ、ずっと前にオレのアドレス教えたよね。それから変わってないんだ」
もし話を聞いてくれるなら、連絡が欲しい。
語尾は驚くほど小さくて、聞き洩らしそうだった。いっその事聞こえなければ良かったと思った。
何言ってるんですか。オレ、携帯の使い方分からないって言いましたよね。
書いて渡しただけのアドレスの事なんてよく覚えてますね。でも紙に書いたんですよ。捨てちゃってたらどうするんですか。
自分勝手に言いたい事だけ言って、結局大事な事を言わないなんてどう言うつもりなんですか。オレが、聞きたいだなんて言うとでも思ってるんですか。
何しに来たんですか。どうして来たんですか。何故今なんですか。
今まで見た事がないくらいしつこかったですよ。そんなの、らしくないですよ。
だってそうする理由がないでしょう。ないって、思わせたままでいて下さいよ。
ねぇ、お願いだからオレをそんな、泣き出しそうな瞳で見ないで下さい。
再び動き出した足が遠くなっていくのを見ていた。
一歩、一歩と進んでいく度に何かが零れていく。それは、止まる事を知らなかった。
*****
その紙切れは一番上の引き出しに入っている。
もらった物なんて何もないと思っていた。だから、処分の必要はないのだと。
引き出しを開け、英数字の並んだ紙切れを取り出す。
もらった時のまま何も変わらないそれを机に置いて眺めた。オレは眺める以外の使い方を知らない。
今までも、そしてこれからもきっと。
学校帰りにコンビニに寄った。
久しぶりの事だった。ここ暫くは真っ直ぐに帰宅する事が多かったからだ。
真っ先に冷蔵庫の前へ行き、ペットボトルを一本取り出す。そのまま他の物には目もくれずにレジに向かった。
「いらっしゃいませ。袋に入れますか」
バーコードを読みながら店員が言った。いつも通りの問いにこのままで良いと答える。会計を済ませ、受け取ったペットボトルを鞄にしまった。
「すみません、お願いしたい事があるんですけど」
そう切り出すと店員は微笑んで見せた。
「うん、良いよ。何かな」
店員らしからぬ砕けた態度。思わず詰まる息を気取られぬように、ポケットに手を突っ込む。そこから、二つの物を取り出した。
それを見て、彼は驚いたようだった。彼の目が時計へと動く。
あと10分で仕事が終わるので待って欲しい。そう告げられ、声は出さずにただ頷いて見せた。
「待たせてごめん」
着替えて出てきた姿を見やる。何となく目をそらして先程と同じようにポケットの物を取り出した。それをそのまま彼に突き出す。
「このアドレスを登録してくれませんか」
紙切れを指さして告げると彼は返事の代わりに携帯と紙切れを受け取った。
「ここで?それともどっか行く?」
「どちらでも」
携帯を開きながら唸るのが聞こえてくる。
「じゃあうちで良い?」
それからすぐに彼が提案した。断る理由はなかった。
歩きながら彼は携帯を覗き込んでいる。
「携帯見ながら歩くの危ないですよ」
「代わりに周り見ててよ。危なかったら教えて」
「あ、危ない」
足を止めてオーバーに言ってみせると彼も立ち止まり、顔を上げた。
キョロキョロと周りを見回し、最後にオレを見る。辺りには車や自転車はおろか、人の姿もなかった。
睨む視線を振り切って再び歩き出す。
そんな事を二度ほど繰り返した。家まではあっという間だった。
扉の前で携帯を返された。
「登録、できたよ」
彼は慣れた動作で扉を開け、どうぞと手で合図する。促されるまま足を進めた。
返ってきた携帯に表示されている画面を見る。そこには紙切れに書かれたアドレスの他に名前、電話番号、そしてご丁寧に住所や誕生日まで表示されていた。
頼んでない。そう言おうとした所でオレは扉に挟まれた。
「携帯見ながら歩くと危ないよ」
仕返しだなんて大人げない。
携帯をひとまずポケットへ戻し、中に入った。
「もう一つお願いしたい事が」
携帯をもう一度差し出す。
彼は首を傾げながら受け取った。
「今登録してもらったアドレスにメール送りたいんですけど」
そう伝えると彼はまだ内容も聞いていないのにぽちぽちとボタンを押し始めた。言葉の続きを待っているようには見えない。
「あの、続けても良いですか」
彼は顔を上げて困ったように笑った。
「ちょっと待って」
少しして、続きを聞く前に携帯を返された。
宛先に彼の名前、本文に電話番号が並んでいる。
「ここ押したら送信できるから」
「メール送りたいってそう言う事じゃ……」
「知ってる。連絡してって言うのはただ意地悪言っただけなんだ」
まさか直接やってきて自分にやらせようとするとは思わなかった。そう続ける。オレ自身も思っていなかったのだから、当然だろう。
別にこんな事をしに来た訳ではない。張らなくて良い意地を張っているだけで、何の意味もないのだから。
ちらと彼の表情を伺う。そこには柔らかい笑みがあるだけだ。
見ていると流されそうだった。そっと、視線を落とす。
「……もう、会うつもり、ないです」
何とかそれだけを吐き出すと手の中の携帯を握り締めた。
「それは、オレの事が嫌いになったから?」
答えられなかった。
好きだからつらい。つらいから一緒にいられない。だから、会わない。
それを上手く伝える事が出来そうになかった。
小さく頷いてみせる。頷く事しか、出来なかった。
「そうか。困ったな……」
「あの、それだけなんで」
そう告げて立ち上がろうとする。しかし腕を掴まれた。
「ちょっと待って」
「離して下さい」
「オレの話も聞いて欲しい」
首は横に振った。
手を引くのに、強く掴まれていてふりほどけそうにない。相手は大人の男性だとふと思い出した。力で適う訳がない。ただ、彼が力に頼るのは初めての事だった。
引いたり、笑って許すのが上手な人だった。決して踏み込んではこない。けれど全て受け止めてくれる、そんな安心感があった。
今、彼が踏み込んでこようとしている。強く掴まれた腕はそう感じさせた。
「痛い、です」
どこが痛いのかはもう分からなかった。食い込むのではないかと言う程の力で握られた腕は、きっと痛いに違いないだろう。
ごめん、と謝る声と共に力が緩まる。しかし離してはくれなかった。
「嫌われるような事をしたつもりはなかったよ。ちょっと堪えた。……好かれる事もしなかったんだけど」
反射的に顔を上げた。そんないい加減な気持ちでいたのかと、問いただしてやりたい衝動に駆られたからだ。
ただ、彼の表情を見たら何も言えなくなってしまった。
「あ、今いい加減な奴だなって思ったでしょ。そんな事ないよ。自分で言うのもどうかと思うけど、真剣に考えてた」
その言葉が嘘ではない事を表情が物語っていた。
「……言える時が来るまでにフラれるならそれも仕方ないって思ってた。でも、そんな簡単じゃないね。こんな風に引き留めてさ、何か情けないなぁ」
前髪をかきむしるようにくしゃくしゃにして、笑みを浮かべている。それは彼が言うように、何とも情けない表情だった。
それ以上言葉は続かない。いつの間にか腕が自由になっている事に気付いた。しかしその場から動けなかった。
そこに留まったまま、オレは必死に言葉の意味を考えていた。考えの至る限りではあり得ないはずの言葉が彼の口から出た。
フラれるって。
それって、何か、何て言うか。
「そんな、まるでイッキさんがオレの事、好きみたいな……」
「うん」
躊躇なく頷く姿に目を丸くする。
「え、な、何言って」
「好きだから、真剣に考えてた」
「……そんなの、初めて聞いた」
彼は少し考えるような素振りを見せた。
「そうだね。あ、じゃあ、ちゃんと言っておくね。オレはアズマくんの事、好きだよ」
まぁ嫌われちゃったみたいだけど。自虐的に小さな声で続けて、笑みを浮かべる。
いつから、と言うオレの問いに彼は「ずっと前から」と短く答えた。それがいつ頃なのか興味はあったが、求めた返答としてはそれだけで十分だった。
「今更そんな事」
もっと早く言ってくれたら、なんて未練がましい事を思った。途中で言葉を切る。
好きと言う気持ちに正直なだけでは上手くいかないのだと、知った。いつなのかは重要ではない。大事なのは溝を埋める努力だ。
「オレにとっては今更、じゃなくて今だから、だったんだけど」
彼は独り言でも言うように続けた。
「……でも結果的には今更、になるのかなぁ」
遠くを見ていた目がこちらに向く。切なげに揺れる瞳は、泣き出しそうにも見えた。