目を細めて唇の端を持ち上げる。
 あ、笑う。そう思った瞬間に目を逸らした。

 この所、笑顔だけは見ないようにしている。
 誰にでも向けられる営業スマイルではない、オレだけに向けられる笑顔。話している時、不意に見せる笑顔に注意していた。
 馬鹿馬鹿しいなぁと思う。でも、やめられない。
 やめたら、きっとオレは死んでしまう。

 直視したらドキドキが止まらなくなるどころか、心臓が止まってしまうのではないか。
 そんな風に考える事がたまにあった。
 最初はぼんやりと思うだけだった。考えるうちにそれが妄想なのか現実なのか分からなくなってきた。
 最近では不安に思うようになってきていた。

 そして、一度目を逸らしたら次はもう怖くて見れなくなった。


 いつまでこんな事を続けるのか、と言う疑問もあった。
 当然の事だけれど。
「アズマくん、最近変じゃない?」
 本人からも怪しまれていた。

「よく変わってるって言われます」
「いや、そうじゃなくて……言いたくないなら良いけど」
 それとなく、何度か理由を聞かれている。ただ、深く追求された事はない。こう言う所が大人だなぁと思う。それがありがたかった。
 まさか、あなたの笑顔がオレを殺そうとしている、だなんて言える訳がないから。死ぬはずないのに。

 いっその事洗いざらい話して、一緒に笑い飛ばしてしまった方が良いのかもしれない、とも思った。
 笑っていた方が、ずっと幸せなはずだ。きっと、笑ってさえいれば。

「イッキさん、オレ今どんな顔してますか」
 そう尋ねるとイッキさんは少し悩んで。
「バイザーでよく見えない」
 とだけ答えた。



 パーツが入荷したから取りにおいで。
 そう連絡を受けたのは翌日の事だった。

「袋には入れていくかい?」
「すぐ開けちゃうんでこのままでいいです」
 取り寄せをお願いしていたパーツだった。
 取り扱いのある店まで行っても構わなかったのだが、頼んだ時は少しでも関わりを持ちたかった。時間がかかると言うのを承知でお願いした物の、余計な事をしたものだと少し後悔した。
 昨日は結局、おかしな質問を最後にろくな挨拶もせずに店を後にしてしまった。少し、気まずかった。
 顔を合わせてみればイッキさんはいつも通りだったのだけれど。

「あのさ、」
 急に話しかけられて顔を上げる。
「アズマくんは最近、よく下を向くようになったと思うんだ」
 今も下を向いていただろう。カウンター越しに顔が近付く。
 頭を引っ張られるような感触がして、上方へと視線をやるとバイザーが宙に浮いていて驚いた。しかしよく見るとイッキさんの手が持ち上げているだけだった。
「下を向くと顔が全然見えないんだ。これがあるから。今まであんまり気にしてなかった事なんだけどね」
 バイザーを目の前でひらひらさせて、イッキさんが言う。
「昨日聞かれて、思った。見えないけど、アズマくんの顔はそのすぐ先にあるんだよね。どんな顔をしてるか、ちょっと考えたよ」
 落ち着かない頭を押さえながら、空いた方の手でバイザーを取り返そうと伸ばした。さりげなく避けられてそれは失敗に終わった。
「俯くって事は、きっと笑ってないよね。どうかな」
「……どうでしょう」
 首を傾げるとイッキさんは一つ頷いてみせた。
 この話はおしまい、と言う合図のようだった。

「オレから一つ、聞きたい事があるんだけど」
「はい。どうぞ」
 断る理由はなかった。先を促す。
「オレと話すの、嫌かな」
「そ、そんな事ないです!」
 反射的にそう答える。思わず身を乗り出すような格好になってしまった。
 イッキさんが吹き出す。あっと思った時には遅かった。
「なら、良いや」
 どうでも良い、と言う風に屈託なく笑ってイッキさんがバイザーを頭に返した。
 息が詰まっていた。でも死んではいなかった。
 心臓は止まる気配など見せずにうるさ過ぎるほどにバクバク言い続けている。
 これはいけない、と思った。目を逸らせない。酷く息苦しい。
 熱くなる顔を隠すようにバイザーをかぶって、漸く目を逸らす事が出来た。

 暫く見ていなかったイッキさんの笑顔は、記憶の中の物よりずっと綺麗だった。

 死んでしまうと言うのもあながち間違いではないのかもしれないと、そんな気がした。
 笑顔がオレを殺すんじゃない。死んでしまうとしたら、それはきっと病死だ。