何か、大事な物を失くしてしまったのではないのだろうか。
 寝転がりながら、そんな事を考えていた。

 程良い疲労感の所為で意識がまどろむ。このまま眠ってしまいたいとも思ったが、そう言う訳にもいかない。
 視界の端に映った背中へと顔を向ける。彼はいつの間に着たのか、脱ぎ捨てたはずの服をまとっていた。そして、こちらへ振り返る事もなく、玄関へと足を進めている。
「帰るの?」
 声をかけると、漸くこちらを振り返った。
「時間が時間ですから」
 言われて時計を見やる。長針は6を指していた。まだ18時、と思った。けれど彼には、もう18時、だ。年を考えれば当たり前の事だった。忘れていた。いや、忘れている事にしてしまいたかったと言うべきか。
 体を起して、床を見まわす。
「送ろうか」
「気にしないで下さい。そう言うの、面倒でしょう」
 顔をあげる。彼は笑っていた。
「それに、オレが勝手な事しただけですし」
「……こんなんで、良かったの?」
 何の事か分からなかったのか彼が首を傾げる。
「アズマくんに向ける気持ちとか、ないよ。オレにとって、意味のある事じゃない」
「でも、気持ち良かったでしょ」
 妙に手慣れていた彼の仕草を思い出す。答えなかった。そんな事、分かり切っている。
「イッキさんは気持ち良かった。オレは、大好きなイッキさんとえっちできた。ただそれだけの事です」
「そう言うものかな」
「彼女とか今、いないんでしょ。だったらイッキさんが気に病むような事は何もないと思いますよ」
 相変わらず、彼は笑っている。
 その笑顔に違和感を覚えた。自分が望んでいるのは、きっと笑顔じゃないのだろう。
「アズマくんが良いって言うなら、別に良いのだけど」
 頭を振った。
 それなら、どんな顔をしていて欲しかったのか。もっと悲しそうな顔をして欲しかったのか。それとも、泣いていて欲しかったのか。
 「オレは後悔なんてしてませんよ。イッキさんは、後悔してるの?」
 少しだけ、眉尻を下げたのが見えた。すぐに彼は背中を向けてしまったので、見えたのはほんの一瞬だった。
 答えを待たず、彼は玄関へとまた足を進めていた。今度は引き止めなかった。そのまま、背中を見送る。それからすぐに扉の外へと出て行ってしまった。
 扉が閉まる前に一度、部屋の中を覗いて「また明日」と手を振ったのが見えた。
 布団に沈んで目を伏せる。何か大事な物を失くしてしまったのではないか、ともう一度考えた。
 今日までの自分と明日からの自分はきっと違う。それは何も知らなかった自分を、失くしてしまったからだ。

 彼は後悔していない、と言った。
 笑うのでも、泣くのでもなく。きっと、彼に後悔して欲しかった。