「で、だから?」
ぴりぴりした視線が肌と、あと心にぐさりと突き刺さる。あいにくと、口八丁で乗り切るような話術の持ち合わせはなかった。そもそもが僕に分の悪い勝負なのだ。変に言い訳をしたところで、状況が好転するとも思えない。正直にすらりと言ってしまうほかないのだ。
「……クリスマスに休み取るの、忘れました」
空気にひびが入るかと思うほど冷ややかな視線に、全身から汗が噴き出す。気に食わないことにはズバズバと言いたいことを言う彼女の性格からしてこの後どうなるかはあまり考えたくない。
びくびくと震えながら俯いて、彼女の言葉を待つ。唐突に、いつだったか友人に言われた「お前って尻に敷かれそうだよなー」という言葉を思い出す。言われた時は「そんなことあるか」などと反論したものだが、現状を見ればどうだろう、まさにその通りである。
沈黙。嫌な沈黙。さらに沈黙と続いて、普段よりいささか長めな生殺し状態に僕の精神も摩耗してきたころ、彼女はようやく長い沈黙を破った。
「本当に馬鹿正直ね」
とてもキツイとは言えない口調に、恐る恐る顔を上げれば、呆れたようにため息を吐く彼女が僕を見ていた。どこか優しげに緩めた表情に、その直後、一瞬で赤が差す。
「ん。まあ、あの約束を守ってくれるなら別にいいけど」
「約束?」
「……覚えてないの?」
「うーん、と……なんだっけ?」
言ってしまった瞬間、地雷を踏んだと後悔する。彼女の表情はぴたりとやんで、そのままバッグを持って立ち上がると、抑揚のない声で「帰る」とひとこと言い残して、玄関へ行ってしまう。
「ちょ、ちょっと、由香?」
「こっちくんな」
靴を履きながら静かな声でそう言い放つと、由香は部屋を出ていってしまった。追いかけようにも足が動かない。
そのまま10分が過ぎても、30分が過ぎても、僕は動けないままで、当然だが、彼女が戻ってくることもなかった。
○
「ということがあったんだけれど」
「そりゃお前が悪い」
駅前のファストフード店で正面に座る仲川は、ポテトを頬張りながらどーんと言い放つ。茶髪にピアスとちゃらちゃらした格好ではあるが、その内面は見た目より幾分か真面目な男である。
「だって、由香ちゃんとの初クリスマスはバイトのせいで遊ぶ時間がなくって、その上、約束も忘れてって……お前、それ最悪じゃねえか。忘れっぽいのも大概にしないと見捨てられちゃうぞ」
気持ち悪くウインクしてみせる友人に冷ややかな視線をプレゼントして、僕は由香との約束について思いつく限りの情報を羅列してみることにした。
「……思いつかない」
「重症だな、こりゃ」
楽しそうに笑う仲川は僕のおごりのハンバーガーを食べながら、ふと思いついたように言う。
「そういや、連絡は? もう一週間近くたってるんだしメールとか電話とかいくらでもあるっしょ」
「それが……」
幾度となくかけた電話は留守番電話サービスになる前に一方的に切られ、それからしばらくは電源を切ってしまうらしくテンプレコメントが再生される。留守電に謝罪の言葉を入れてもやはり反応はない。電話でもこの拒否なのだ。もちろん送ったメールに返事など返ってくるわけもない。
「というか、連絡つくならこんな日に相談なんかしないよ」
「ま、それもそうか」
ストローをちゅうちゅうやりながら仲川はうなずく。携帯のディスプレイに表示されるのは“12/23”の文字。俗に言うイブイブというやつである。
少し考えるように黙り込んだかと思えば、仲川は突然ポテトで僕のことを指差した。
「約束って全然覚えてないの?」
「……うん」
仲川はため息を吐いて、ハンバーガーの最後の一欠片を口に放り込む。気まずく黙りこんだままの僕を見て何を思ったのか、つまらなそうな表情で言う。
「相談っていうのはな、他人の意見も聞くことによって自分の中の選択肢を増やすパターンと、自分の中で答えは出てるけど誰かに話を聞いてほしいパターンとがあると思うんだが、お前のこれは後者だ。なんてったって約束を思い出せば万事解決だしな」
わりぃ俺そろそろ行くわ、と笑いながら言う仲川は言葉の出ない僕に残ったポテトとジュースを押し付けて席を立った。
喧騒の中にぽつんと取り残されて考えるのは由香のこと。僕は何を忘れているのだろう。思い出す方法を思い出さなければ。
○
それは日常におけるワンシーンだった。
「いらっしゃいませー」
結局一晩考えても何も思い出せず、クリスマスイブになってしまった。夕方ごろからちらほらと現れ始めたカップルという名の一つの群れが席の大半を埋めていた。ファミレスチェーン店でさえこの調子なのだから予約のある高級な店なんかはもっと大変なんだろうなと、どうでもいいことに思考を巡らせる。
そうしていつも以上に忙しい夕食時を終えて、時計の短針も10を指そうかという頃、料理を運んだ先のカップルの持っていたものを見て、ふと、由香との会話を思い出す。
「クリスマスプレゼントって何が欲しい?」
「……それって本人に聞くもの?」
「変なもの送ってもあれだしね」
「別に何でもいいんだけど……」
「ん? 何?」
「あ、いや、あれがいい――」
「……思い出した」
○
恐る恐る呼び鈴を押す。
反応はない。さすがにもう寝てしまってるだろうか。腕時計で既にクリスマスになっている時刻を確認してもう一度呼び鈴を鳴らそうとして、やめる。携帯で連絡を取ろうにも、こういうときに限って充電を忘れていて、もうバッテリー残量がない。
今日渡せないのは残念だが、僕はおとなしく帰ることにした。彼女を起こすのは気が引けたし、クリスマスは明日だ。今じゃなくても、明日にでも受け取ってくれればいい。
凍りつく息を吐きながら、マフラーを首にしっかり巻きなおして、分厚い手袋をつけて、原付のエンジンをかける。彼女のアパートから僕の住むアパートまでは原付で十数分で着く。午前零時を回った道路にはほとんど車がおらず、すぐそこに見える信号機は何も通らない道に向かって青色を向けていた。
見慣れた、しかし人の姿だけがない道を通って、僕は家路をただ走る。ほとんど車ともすれ違わず、アパートに到着した時には午前一時を回る少し前で、僕はいつもの場所に原付を止めてカツカツと音の鳴る金属の階段を上る。そうして、上り切って、思わず足を止める。
「遅いよ。いつまで待たせる気?」
僕の部屋の前、寒さで顔を真っ赤にした由香が小さく笑った。
「ごめん、由香」
「いいよ、もう」
「俺がよくない。約束、忘れて、ごめん。ちゃんと思い出したから」
「……本当に?」
返事の代わりに、僕はバッグに入っていたものを取り出した。彼女の表情が驚いたものに変わる。
「思い出したのが遅くて、ほんとはもっとでっかいやつ探したかったんだけど、時間がなくて、ごめん」
三十センチくらいの大きさのクマのぬいぐるみ。バイトが終わった十一時、そんな時間ではろくな店も開いておらず、ふと思いついたゲームセンターで取ったぬいぐるみ。
僕が差し出せば、由香はびっくりしたままそれを受け取って、それから、困ったような表情で笑う。
「……ありがと」
○
「あ、いや、あれがいい、でっかいぬいぐるみ」
「え? なんだって?」
「……やっぱなんでもない」
「そっか。じゃあ、好きな動物は?」
「くま……ってさっきの聞こえてたでしょ!」
「よーし。でっかいクマのぬいぐるみ、楽しみにしとけよ!」
「そんなこと言って、どうせまた忘れちゃうんでしょ?」
「いや、忘れないって! 絶対忘れないから!」
○
寒空の中で星は変わらずに輝いている。今頃どこか遠く、この空の向こうでは、赤い服に白髭を蓄えたおじいさんがそりに乗って飛び回っているのだろうか。
「そうだ。言い忘れてた」
「何?」
「メリークリスマス」
おわり。
○
追記にて少々。