着想:「わんわん物語」
基盤:ゆかとも
舞台:立ち入り禁止 夜更けの × 存在しなかった世界
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着想:「わんわん物語」
エリアN
1.
突然、首を絞められた。
背後から伸びた腕が、智美の首に絡みつき、口にハンカチのようなものを強く当てられた。
のぼりかけていた石段の途中に倒れ込んだ。
河川にクロスした高架線沿い。陽はまだ高い。
一瞬の出来事は、まるで映画のワンシーンのように鮮明に焼きついた。
なにか一瞬で眠りに落ちる薬品のようなものを嗅がされたらしい。
思考回路が止まりかけ、視界がぼやけ、力尽きる寸前。
どこからともなく現れた第三者が、ハンカチを抑えつける手を払いのけた。
智美はアスファルトに横向きに倒れたまま、その影を目の端で追った。女の人だった。
その人は、智美をかばうようにしてしゃがみこんだ。
なにか声をかけられているようだったが、答えられない。
彼女の手に、頬を何度かぱしぱしと叩かれたが、その感覚も麻痺していてただ視界が揺れただけだった。
ただ、黒い革のジャケットの袖から覗いた細い指先が、氷のように冷たかったのだけはわかった。
体をすべてを失くして意識だけが残り、空のガラス瓶の中にぽっかりと浮かんでいるようだった。
智美は余力を振り絞って立ちあがると、きた道を戻った。戻ろうとした。
しかしふらつく脚元はまったく思うように動かず、転げ落ちる寸前で壁にもたれかかった。
「やだ。こわい。もうやだ。もうやめて。」
瀕死の喉が発せられるかぎりの抵抗の言葉を発した。
女の人影が、体を支えるように智美の腕を掴む。それを振り払うだけの力すら智美にはなかった。
なんでもいい。放っておいてほしかった。
もうここですべてが終わってもいい。
…「もう」?
地熱でなまぬるいアスファルトに膝から崩れ落ちた。
いつから何に苦しんでいるのか、まるで思い出せない自分がいた。
どうしてここにいるのか、なにがそんなに…
「だいじょうぶ。」
背後から抱きつかれ、動きを封じられた。
心臓が乾いたように重たく、息苦しい。
その中で感じた1点の熱が、じんわりと背中じゅうを包んだ。
その体温を待っていたように、智美はその場に気を失った。
――――
――
―
どこまでが事件で、どこからが落ちた夢なのか、境界がわからない。
けれど、背中におぼえた温かさは確かに今も感じられる。
夢のものではない。
そのじんわりとした熱の広がりに、智美は目を覚ました。
枕に横たえた首の下を、自分のものではない腕が1本通っているのがすぐに視界に入った。
はねるように起き上がると、背後にぴったりとくっつくように、女の人が眠っていた。
真っ白な短パン。グレーのランニングシャツの肩には、黒いブラジャーのひもが覗いている。
ずいぶんとだらしない。
壁側に寝かされていた智美は、この眠っているだらしのない女の人を跨がないとベッドを出ることができなかった。
どうしたらいいのかわからず、ただそこに上体を起こして座っていた。
外は墨をぶちまけたように真っ暗だ。街灯がともっているのが見えた。
電球の温かみのある照明の室内が、ガラス窓に反射している。
部屋は彼女のものなのだろう。
フローリングの床には、大きなオレンジのメッセンジャーバッグ。
下に降りる階段があり、それに囲うようにして手すりが付いている。
手すり沿いにはカラーボックスや段ボールが並び、分厚い本や書類の束があふれている。
左を向けばすぐに壁で、白黒のダーツの的、デジタル表示も付いてる丸い壁掛け時計、地図だとかカレンダーだとかが貼ってある。
ベッドの足もとには簡単な作りの机と椅子が一組置いてある。
間違いなく冷えているマグカップがひとつと、畳まれたノートパソコンがその上に置かれている。
リンゴのマークがゆっくりと規則的に点滅している。
それが、智美から見える世界。狭い部屋だ。
隣の女の人は、息をしているのかもわからないくらい静かに眠っている。
耳鳴りがして、まぶたが落ちかけて、頭が痛いことに気がついた。
そうだ、誰かに襲われて気を失ったんだ。
身体中がいっきに緊張感を思い出した。
自分を包んでいる心地よさが、ベッドの敷き毛布のこそばゆさだとわかった。
「…へっ?」
そして気がついた。
智美自身も、そんな“ずいぶんとだらしない”格好で眠っていたことに。
カーディガンにキャミソールに下着、そして下半身には大きいサイズのジャージを履いている。
羽織った綿のカーディガンは紺色で、ジャージは真っ黒なナイロン。裏地はメッシュらしい。どちらも智美のものではない。
少し動くたびに、布団との摩擦でかさかさと音が立った。
と同時に、右足に痛みが走った。
ぼんやりとしていた意識が蘇ると、それは鋭く重たいものとして伝わった。ずきずきと脈を打つのと同じように痛みも動く。
歯を食いしばったままジャージの裾をめくると、足首に包帯が巻かれていた。
さっぱり意味がわからない。
誰かに襲われた時に、私は怪我をしたの?
でも、どうして今ここにいるの?
夜までずっと眠っていたの?
この女の人は誰なの?
私は、彼女と、寝たの?
なにここ?そもそも、どこ?
「わたし、どうしちゃったの…?」
絶望的な感情に襲われていると、隣に動きがあったのがわかった。
女の人は両手を頭の後ろで組んで、横目に智美を見上げていた。
寝起きでぼーっとしているその顔は見るからに不機嫌そうで、分厚い唇をムスッと突き出している。
「なに、覚えてないの?」
智美はゆっくりと頷いた。
頷きながら考えたけど、やはり何も思い出せなかった。
「ここ、どこ?…もしかして、あなた…?」
「んなわけねぇだろ、ふざけんな!ちげーよ!」
智美にさされた指を払い退けるように、女の人の腕が空を切った。
「ごめんなさい」と智美が謝ると、ため息をついて気を落ち着けてから「別にいいけど」と彼女は答えた。
寝ぐせのハネを紛らわすように、黒い髪をぼさぼさとかきながらベッドを出た。
だるそうに腰の高さほどの冷蔵庫を開けて、
3分の1ほど残っている2リットルサイズのペットボトルから、だるそうにそのまま中身の水を飲んだ。
「マジで何も覚えてないのな。」
眠りに奪われた渇きを取り戻す間をおいて、女の人は言った。
誰かに襲われたところに、どこからともなくこの女の人がやって来たところまでは思い出せる。
智美にはそこまでしか思い出せない。
でも、温かい布団に寝かせてくれて、包帯まで巻いてくれた。
犯人?などと疑念を口にしてみたものの、彼女が人を傷つけるようには、智美にはとても思えなかった。
寝てる間に何をされていたのかはわからないけれど。
「思い出せないんだったら、きっと夢だったんだよ。」と、付け足すようにもう一口、水を飲んだ。
あまりにも呆然としている智美をみて、女の人は詳しい説明をしなかった。
「ねえ、本当にここどこなの?」
「おれの部屋。」
智美は、さっき観察した部屋をもう一度見まわした。
そんなことくらい見ればわかる。あなたと同じようにだらしない。
もっと賢い質問をすればよかった、と思った。
「名前はユカ。あんたは智美っていうんでしょ?」
「なんで知ってるの?」
ユカと名乗った女は、カードを1枚、指の間に挟んでペラペラとふった。
学生証。いつも財布のポケットにしまっておいているものだ。
智美のバッグが置いてあった。さっきはメッセンジャーバッグの陰に隠れて見えなかった。
「東京平成大学。頭いい学校だよね。」
ユカはしばらく学生証の内容を読んでいた。
学部とか、入学年くらいしか予想のつかない学籍番号とか、写りの悪い顔写真とかをまじまじと見られた。
それっきりしか個人情報は載っていないのに、自分のすべてを見透かされているようだった。
「まぁ、今は休んどいたほうがいいよ。怪我もしてるし。」
智美のバッグのポケットに学生証をつっこんだ。
ペットボトルをドアポケットに戻すと、脚先で冷蔵庫を閉めた。
「あー腹へった。サヤカーーー!!!」
大声で誰かの名前を呼びながら、ユカは階段をバタバタとおりていった。
「ありがとう」を言う間もなかった。
静けさと耳鳴りが戻った部屋に、智美はぽつんと取り残された。
下の階からはユカと誰かが話をしている声が反響して聞こえた。
もう一度いう。とてもだらしない。
→2.