いつだったか、先生がまだ先生で俺が高校生だったときにもこんなことがあった。

夜中に馬鹿みたいに何も考えないで家を飛び出して、まっしぐらに
先生の元へ向かったことが

あの日と違うのは、俺が車を走らせていることくらいか。
ああ、あとタバコを吸ってること。
タバコを吸うようになったのは大学に入って結構経ってからだ。
先生と、古泉と会わなくなってから。
あいつが愛用しているメーカーのタバコを吸ってみたところで、あいつから香る匂いが手に入るわけもないのに。
ただただ願掛けのように、このタバコを吸っていればきっと、

きっと、またいつか

そんなちっぽけなものを支えにしていることすら分からなくなって
流れていく日々を無視して
寂しさも感じることなく

こうなる前にどうしてもっとお互い素直になれなかったのか。
そんなことを考えてみても、ああやっぱりこれが俺たちなのかとどこか納得せざるを得ないところもある。
臆病者同士の、不器用な恋なんだ。

車が高速に入ると、もう何も考えられなくなった。

 


「ああー寝みい・・・」
「もう春らしくなってきましたしねー・・・ってちょっとあなたなんで味噌汁茶碗4つ出してるんですか」
「あ?米用だよ」
「・・・味噌汁茶碗でご飯食べるなんて真似は許せませんよ。さっさとご飯茶碗出してください」
「なんだって一緒だろーが!」
「器の素材が違うでしょーが!」

ぎろっと有無を言わせない目つきで睨まれた俺は、反論の余地もなく渋々再び茶碗を出しに行く。
全く、変なところで細かい奴だ・・・。
はあ、と溜息をついてみるが呆気なく無視され、いらいらを発散させるため古泉の腰をひっぱたく。

「いったっ!!何するんですか!!子供ですかかあなたは!!」
「おー。子供だとも。少なくともお前よりはな」
「ったく、図体でかいくせに何言ってるんですかねえ・・・」
「嫌味か!!てめえの方が身長高いだろ!!」

こいつがこんな風に、俺の部屋に無断で入れるくらいになったのは、本当につい最近のことだ。
近くに住んでんもまだまだ遠慮をする古泉を、俺は何度も何度も自宅に誘った。
段々この部屋に慣れてくる古泉を見て、俺もやっと、この空間に馴染めた。
大学を卒業するまでに必死で見つけ出した物件。
古泉の実家から、徒歩5分。チャリぶっ放せば3分。
古泉の近くに、出来るだけ近くに住もうと思ったのは初めて古泉の実家を訪れたときだ。

 


真夜中、車を飛ばして到着したその古い一軒家は、1階で古本屋の営業をしているらしいが、そのときには当たり前ながらもうシャッターが閉められていた。
馬鹿みたいに高鳴る胸を抑えながら、俺は車をとめて、寝ているであろう古泉に電話をかけた。

おそらく、何ヶ月かぶりに。

どうだろう、気付かれないかもしれない。そんな不安はものの5秒で裏切られた。

『・・・はい』

懐かしささえ、感じてしまうくらい聞いていなかった先生の声。
俺はじん、として零れ落ちそうなものを何とか抑え、暫く黙ってただ突っ立っていた。

先生のうちの前で。

ふいに窓が開く音がした。
驚いて上を見上げると、先生がひょこっと窓から顔を出した。
目を大きく見開いて呆然としている俺に、先生はふ、っと笑うと電話越しに言った。

『やっぱり。何だか、来てくれてる気がしました』

こらえていたものは呆気なくつーっと俺の頬を伝って。
そのあと俺は先生の家に入れてもらった。
家族と住んでいると思っていたから、何度も遠慮をしたのだが、「どうせ僕一人ですから」という先生の言葉に驚きながらも甘えてしまった。

「どうして・・・家族は・・・?」

古い和室で出してもらったお茶をすすりながら、俺は口を開いた。
その質問を聞くと先生は微笑んで言った。

「父は、もう永くないという結果が先日出まして。今は母と二人で地方の暖かいところでのんびり暮らしているんです」
「え・・・」
「だからこの古本屋は完全に僕に託されまして。今は一人で切り盛りしてるんです」

そう言って、先生はもう一度優しく微笑んだ。
それでも俺は、どうしてもその笑顔が泣き顔にしか見えなくて。
それはきっと俺にしか分からない、先生の辛い顔で。

必死に、必死に寂しさを堪えてるときの顔で

ああ、どうして俺はこの人を

一人にしていたんだろう

「ごめん、せんせい」
「え・・・?」

そのときからだ。
俺が教師を目指したのは。

先生の近くで、一緒に

一緒に生きて行こうと思ったのは。