かつて自分が、高校生だったころ
恐怖を抱いていたもの。
髪を染めてピアスを開け廊下をのったくたのたくた、のし歩いていた上級生
夜の繁華街
定期テスト
馬鹿騒ぎする同級生
将来
それから先生
ぼくらの未来
桜はまだ咲かないのだろうか。
部屋にテレビが無いから、最近はめっきり世間の情報を手に入れにくくなった。
まあ、桜の開花が世間の情報なのかと言われれば肯定はし辛いが。
とにかく、やっと借りれたアパートには冷蔵庫と電話、洗濯機それから炊飯器くらいしか電化製品は置いていない。
狭くって汚い、ぼっろぼろのアパート。大家は意地の悪そうなじじいで、あまり会話はしていない。
アパートの庭には柿の木があって、2階の俺の部屋の窓くらいまで背を伸ばしている。
今日は、快晴だ。
ふわあっと大きくあくびをしてから、俺はごろりと畳に寝転んだ。
ぼんやりと黄ばんだ天井を見つめていると、ふと箪笥の上の筒が眼に入る。
高校のころの卒業証書。
懐かしい、とかそんな言葉で表していいのだろうか。この感情は。
ゆっくり目を閉じると、春独特の香りを含んだ風が、開けた窓から入り込んできたのが分かった。
ああ人の気配がする。
あと、いい匂い。
覚醒しきらない意識を無理やりに引き戻す。
目に入るのはやっぱり汚れた天井。
それでも俺はこの部屋に訪れた変化をもう理解している。
首を回すと案の定、台所に弱弱しい背中。子気味良いリズムで何かを刻んでいる。
コンロに掛けられた小さな手鍋と炊飯器からは湯気が出ていて。
「何時来たんだ?」
「ああ、起きたんですか」
振り向いた男はふっと笑うと、くわえていたタバコをコーヒーの缶にねじ込んだ。
「タバコ吸いながら料理すんなよ」
「すみませんね」
ちらりと時計を見ると、もう6時を回っている。
昼にそばを適当に食べただけだった俺は実を言うと結構腹が減っていたりして、正直部屋に充満している香りにくらくらきていたりする。
「あー腹減った」
思わず漏らした言葉にそいつはふっ、と笑って再び俺に背を向けて手を動かし始める。
俺は一度大きく伸びをして、がしがしと頭を掻きながら男の背中をぼんやりと見つめた。
「お皿でも出して待ってて下さいよ。先生」
「その呼び方やめろって…」
溜め息つきながらの言葉を気にした風もなく古泉は手を働かせる。
高校教師になろう、と思ったのはいつだったか。
とにかくがむしゃらに頑張って、教員免許取って。
この4月から俺は、とある高校に赴任する。
先生…いや古泉の故郷にある、高校。
俺が高校を卒業すると同時に教員を辞めた古泉は、家業の古本屋を継ぐだめに帰郷した。
連絡先は、最後に交換した。
俺は大学生になって、古泉は先生じゃなくなった。
俺たちは自由になったんだと、思った。
でも、自由だからこそ状況はもっと苦しくて。
教師と生徒なんて名目も無くなった俺たちは、お互いどうやって接していけばいいのか分からなくて。
俺は休みの日とかに、やっと古泉に会えるだけの生活が段々辛くなって、多分それは古泉も同じで。久々に会うと、気を張り巡らせて会話を探す俺たち。
会ってるときより会わないときの方が、ずっと楽だと気付いたときは、ただただ笑うしかなかった。
一緒に居ることが、ふたりであることがこんなにも俺を冷やす。
鳴らなくなった携帯を
予定の無い週末を
それでもあきらめ切れない感情をもて余す毎日。
ハイライトを吸いながら、適当に大学の友達と遊んでか、かわいい女の子には相手にもされず、バカやって笑って。
ああでもどこか上手くいかなかった。全部。
いつも頭をちらつくのは、あの弱々しくて情けない先生の面。
何をしてても、誰と会っても消えないあの顔。
あんなに好きだったんだがな。
ぽっ、と浮かんだそのセリフ。俺は、気が付いたら車に飛び乗っていた。
好きだった
いや、違うか
好きなんだ