それは春の暖かさに包まれた夜のこと。

段々と闇が深まる丑三つ時。俺は神社の桜の木の前に、一人佇んでいた。

ただぼんやりと。空を眺める。今夜の月は、紅い。

どこまでも続く黒に、燦然と輝く紅。

月が綺麗だとか、空に散りばめられた星が美しいだとか。そんな感情は湧いてこない。それは風に舞う桜の花弁も例外ではない。

ただ、とある光景だけが頭に浮かぶ。そう遠くはない、これから自分がしようとしていることだ。

その光景が頭に浮かんだ瞬間、固めた自分の決心が鈍ってしまったような気がして。手のひらの中にあるものをぎゅっと、握りしめた。

そのとき。風が勢いよく吹いて。桜の花びらが散っていった。

「今宵の月は紅いですね」

風が止んだと同時に後ろからそんな言葉が聞こえて。振り返ると、淡い色の着物を身に纏った美しい女性が立っていた。

艶やかな黒い長髪を携えた彼女は、俺に向かってにこりと。優しい笑みを浮かべている。

こんなひと気のない時間に、神社にいる和服女性なんて幽霊くらいしかいないのではないだろうか。

思わず足元に目をやるも、白い足袋に桃色の鼻緒の下駄がそこにはあって。どうやら足はあるようだ。

でもこの微笑みで現世に生ける者を惑わして、あの世に連れてってしまうのではないかと。

そんな考えが頭をよぎる。

しかし、そんなことはどっちでも良かった。目の前の彼女が幽霊でも生きてる人間でも。あの世に連れて行かれても。

もう全てが、どうでも良かった。

「綺麗だと、思いませんか?」

「…月が紅く見えるのは大気の影響だし。俺は不気味だと、思いますね」

俺の答えに彼女は一瞬目を丸くして。そのような発想もあるんですね。と、再びにっこりと笑った。

「私は夕焼けが月に閉じ込められているみたいで、妖しくも美しい、不思議な魅力を感じます」

それはそれは風情のあることで。
心の中で皮肉を言うと、

「ところで、どうしてこんな時間にこんな場所にいらっしゃるんですか?」

首を傾げて、黒目がちな瞳が俺を映した。

それは俺の台詞でもあるのだが。

「ちょっと野暮用で」

素っ気なく言葉を放った俺に、彼女は瞳をすうっと細くした。

「その野暮用には、手の中に収めている物が必要なのですか?」

どくんと。心臓が大きく脈を打って。
首筋から、嫌な汗が流れた。

「まだ、そのときは早いと思いますよ」

何でも見透かしてしまいそうな瞳に閉じ込められて。固く握った手を、白く心地よいくらいに冷たい手がふわりと包んだ。

「貴方にも残っているはずです。自然を美しいと思う気持ち。だから…一時の感情でそれを捨ててしまわないで」

柔らかくゆっくりと話しながら、細い指先が俺の指を解いていく。

握っていた物をそっと着物の袂にしまいこむと、別なものを俺の手のひらに置いた。

「これは…」

「時計です。懐中時計」

少し年季が入っているけど立派な懐中時計だ。

「いつの世も平等な社会ではないけれど、時間だけは。誰にでも平等に与えられていると思うんです」

俺の返事を待たずに彼女は続けて

「だから、時間を止めてはいけません。貴方の時計の針は、まだ動いているんですから」

時計の秒針を刻む音が、やけに心に響く。そのリズムは心臓の鼓動と重なって聞こえた。

「貴方が私を綺麗だと思えるその日まで。これは預かっておきますね」

彼女は袂をとんとんと叩き、またふんわりと優しく微笑む。春のように暖かな笑顔だった。

「それでは、また」

軽く会釈をして踵を返す彼女の腕をとっさに掴む。不思議そうな顔をする彼女に問い掛けた。

「貴女は何者なんですか?」

唐突な質問に彼女はまたふふっと笑って。

「吉野という、ただのお節介な女ですよ」

そう微笑むと、また。風が勢いよく駆け抜けていって。

掴んでいたはずの彼女の腕も、彼女自身も消えた。

一瞬何が起こったか分からずに、いままでの出来事は夢だったのかとも考えた。

でも、手中にある懐中時計は、間違いなく彼女とのやり取りが夢ではないと。その証拠を裏付けている。

“だから、時間を止めてはいけません。貴方の時計の針は、まだ動いているんですから”

彼女の言葉が頭に浮かぶ。

もう一度頑張ってみようと思う俺の後ろで、染井吉野が華麗に咲き誇っていた。

紅い望月の不思議な夜

(胸を貫く刃は彼女に預けて、)
(また会う日までさようなら。)