計画停電が行われなくとも、最初の大きな地震から1週間以上が計画しようとも、今は日常的な日常ではなく非日常の中の日常なんだなと思った。
だけど、その非日常の中で日常には不必要か或いは過剰だった物があるんだなと、そう思うのは何故だろう。
日常=普通ではなく、日常=不必要でも便利な物は使えるだけ使う日々なのか。
不便=非日常、だったらきっと今まで日常だった事すら時が経てば非日常になり、逆に非日常が続けばそれが日常になる事だって。
不変な物があるなんて、そんな訳がないにも関わらず日常なんていう言葉を遣う事自体が、そもそも間違っている気がするよ。
どうだっていいけれど。
それにしたって息が詰まって生き苦しい。
過剰に反応し過ぎなんだ良くも悪くも、仕方ないと受け入れればいいだけの事なのに。
先輩3人と会って飲み→カラオケをした。
世間はぴりぴりとした雰囲気で息が詰まる様な日常、日常的な事を普段と変わらず行えば"不謹慎"と言われる風潮。
良い息抜きで束の間の安息を得れた。
けれども、東京は何となく人が少なくて、サイゼは節電で薄暗く、飲みの最中に地震が起こり、夜の山手線は暖房が切られ、車窓から見える景色は真っ暗で、池袋の改札は1部閉鎖されていて、日常≦非日常なんだなと改めて実感した。
そんな事を忘れて楽しんだけどさ。
不謹慎?
そう思うのは勝手だけど、これを見てそう思うのはケータイやPCで見ているって事だよね?
地震前であるなら普通の日常的な事を不謹慎だと責めるなら、これを見ている時点で日常的な事をしている貴方も不謹慎ではないのだろうか、って思うよ。
叩きたいなら叩けばいい。
それで貴方の気が晴れるなら。
こんな状況、そろそろ誰だって息抜きをしたくなるよ。
輪番停電が行われるようで、自分が住んでいるのは神奈川県なのでがっつり停電する。
地震直前に停電になり、復旧し、今になってじわじわと停電の恐怖を感じ始めた。
節電節電と言うのは簡単だけどさ、電気が無い恐怖を味わった人間にまで押し付ける事はないだろうと思う。
輪番停電は仕方無いけど、頻繁に耳にするヤシマ作成という単語だけでも苦痛を生む原因になり得るというのに。
やらない偽善よりやる偽善で大いに結構。
けれども、過度な正義感を他人に押し付ける事は感心出来ない。
生きてます。
自分の住んでいる地域は地震直前〜午前1時頃まで停電が起きただけで水道もガスも生きており、これといった被害はありません。
知り合いも大概生きているようで。
まぁ、関東なのでそんな感じ。
嗚呼やっぱり、自分は"男"にはなれない。
女≧無性≠男
"女"であるとは断言し難く、"無性"であるとは宣言出来ず、ましてや"男"なんかになれもしない。
男女のどちらでもなくなれないし、男女のどちらかにもなれない半端者。
出来損ないの欠陥品。
性別なんて大嫌い。
それでも恋愛感情を抱くのは女ではなく男。
ほら、性別。
気持ち悪い、気持ち悪い。
不順で矛盾だ。
気持ち悪い、気持ち悪い。