イッキは戸惑っていた。
 いつも通りにレジを打っていた。ただそれだけだったのだが。
「それ、良いですね」
 客である彼が指さしたのは、イッキの手首の辺り。そこを確認するように目をやる。
 別に、お客さんに話しかけられるという事は珍しくない。例えば今日は暑いねだとか。
 話すのは嫌いではないし、そうやって気軽に接してもらえる事は嬉しく思う。今相手している彼だって、別に話しかけられても嫌な気はしない。
 手首を見やって、イッキは首を傾げた。いつもなら時計をしているのだが、今日に限って忘れてしまった。代わりに、今は髪留めのゴムがはめられているだけ。
 女の子のしているような、飾りのついた可愛いものならすぐに理解できたのだろう。しかし、残念ながらこれは黒い飾りのないヤツだ。「良い」と言われるようなものではない。
 彼の顔をちらと窺う。ああ、間違いなくこの髪留めの事を言っている、とイッキは思った。顔を見るとそれが妙に納得できた。
 と言うのも彼はよく店に来る。少し変わっているから顔は覚えていた。今時珍しい牛乳瓶の底のようなメガネをしていて、毎回来店してはパック飲料を買ってゴミ箱の前で一気飲みして帰る。そんな、少し変な人。
 どう答えたものか(何の変哲もないただのヘアゴムを誉められてどうしろと言うんだ!)と思考を巡らせていると彼の口から二言目が発せられる。
「ちょっと見せてもらってもいいですか?」
 何を言っているんだ。思わずそう言ってしまいそうだった。
 イッキはそれをこらえてできるだけ平静を装って唇の端を持ち上げて見せる。頬が、引き攣りそうだ。
 別に、普通の髪留めだ。何を確認したいのか分からない。しかし嫌ですと言って断るのも気を悪くさせそうで躊躇われた。へりくだる事もないと思うが、お客さんとはいい関係でいたいと思っていた。
 ほんの少し悩んだ後、言われた通りに渡す。彼は受け取ったそれをしばし色々な角度から眺めていた。
「これ、どこに売ってるんですか」
「え?」
 ゴムを返される。とりあえずそれを腕に戻して、雑貨品の並んだ棚の方を見やりながらそこの品揃えを思い浮かべた。
「あの、うちの店にも売ってます、よ」
「へえ。テンリョウさんもここで買ったんですか」
 名札に、苗字は書いてある。よく来る訳だから名前を覚えられているのもおかしな話じゃあない。そうは思っても、名前を呼ばれて感じたのは不快感だった。背筋がぞっとしたとでも言うか。
「いや、これは、違います、けど。別に、どこも変わらないと、思いますよ」
 頬は引き攣ってるに違いない。笑え、笑え、と思うのにちっとも笑えてる気がしない。彼は意味ありげに頷いて見せていた。
 早く帰ってくれ。そうは思ってもまだ、会計は済んでいなかった。目の前には財布を持ったままの男。何となく、表情を窺う気にはなれなかった。
 あの、お会計。声は出たのだろうか。言ったつもりだがそれが本当に音として発せられていたかどうか、イッキには分からなかった。声が聞こえたのか、願いが通じたのかは分からないが彼は漸く財布を開いた。
「いくらでしたっけ」
「……百十円です」
 答えを聞きながら彼は財布を目の前にぐっと寄せて、小銭入れを覗く。その姿を何とはなしに眺める。
 そんなに近くで見えるのかと言うような至近距離。牛乳瓶メガネの力をもってしても手元すら見えないのか、といつも思う。
 そこから出した小銭を目前で一枚一枚凝視する。その作業を経て、漸く台の上にお金が並べられるのだ。
 百十円出すのにどれだけかかるんだとは思うが毎回これだ。さすがに待つのには慣れた。しかし今日ばかりは釈然としない思いがあった。
「はい、百十円ちょうど頂きます」
 レシートは貰ってかない。知っているから必要かどうか問う事はしなかった。一刻も早く帰ってもらいたい。
「ありがとうございました」
 またお越しくださいませ。言わなかった。
「じゃあどうも」
 そう言って彼はいつものようにパックジュース片手に背を向けたのだった。
 その背中をほんの少し見送って、腕の髪留めを何となく触った。


「どうしたんですか、変な顔して」
 男と入れ替わるようにして店に入ってきた少年が、言った。
 聞きなれたその声に、漸く頬の引き攣りがおさまった気がした。