深い深い、藍色に染まった空に大きく浮かぶ月が、手に届きそうな錯覚を覚える。

でもそれは錯覚でしかなく、そんな私を嘲笑うかのように星がチカチカと瞬いた。

「もう、終わりにしましょう?」

窓の向こうに広がる夜空を、ワイングラスを片手に見つめながら紡いだ言葉は、静寂に溶け込んでいった。

ガラス越しに映る男は私の言葉が確実に聞こえているはずなのに、眉一つ動かさない。

知っているのだ。この男は。

「どうしてまた?」

私が自分から、離れられないことを。

口角を吊り上げて瞳に確信的な色をちらつかせ、首を傾げる様が白々しい。

でも、今日はそう簡単に引き下がるつもりはない。

「もう、嫌なの。だから貴方とは会わなっ…!?」

“会わない”と続くはずの台詞は、力強い腕で身体を逞しい胸へと引き寄せられたことによって遮られた。

手にしていたグラスがすると抜け落ちて、派手に鳴った破壊音が耳をつんざく。

飲みかけのワインが真っ赤な絨毯に染みを作るも、目の前の男は気にしていないようだ。

その証拠に切れ長の瞳は床を一瞥することなく、ずっと私を映している。

真っ直ぐ注がれる視線に目を泳がせることが、精一杯の防衛策だ。

すると。

女の私より綺麗な指先が首筋をゆっくり、ゆっくりとなぞって、その感覚に身をよじった瞬間。

「あ、やっとこっち見た」

悪戯が成功した子供のような声色とは正反対な“男”の瞳に、まんまと捕まってしまった。

本能が危険だと警鐘を鳴らすも、彼の瞳に閉じ込められ囚われてしまった私には、どうすることも出来ない。

「愛してるよ、俺は」

理性なんか飛び越えた、心のずっと奥の奥。

狡猾な蜘蛛は甘い言葉を落として、じわりじわりと私に近付く。

逃げようと思っても、最早手遅れ。

彼の瞳に見つめられたら、私には逃げる術などないのだ。

「キスしていい?」

私の返事を待たずに、形の良い唇が触れるか触れないかの距離まで迫る。

それさえも、彼の罠。

蜘蛛の巣にかかった哀れな蝶は、ただ瞼を下ろして喰われるしかないのだ。

彼の左手に輝く指輪に気付かないふりをして。

甘い罠のその先に

(待っているのは、)
(報われることない恋心。)