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俺的理論「人はかわる」

万物は流転する

 

川の流れは絶えずしてしかももとの水に非ず

 

諸行無常

 

俺の考え、意見、意識はなんどきも変わらない

ということはない

 

上に書いたように「物」というものは姿かたちを変化させていくものである

人間ももともとは自然から生まれたものであるがゆえに日々少しずつ変化している

年をとり、細胞は生まれ変わり、老いてゆく

生きて行けばさまざまなものに触れ、環境も変わり視点もかわる

そして考え方も変わっていったりするものである

 

ただ気を付けないといけないことは、コロコロ意見が変わっては信用がなくなるということである

 

時間をかけて変わっていったのならわかるが、昨日言ったことと今日言ったことが違えばなんだお前?

と思われるのである

 

私はとりわけこのようにすぐ意見をかえてしまう方である

なぜなら「許せない範囲・幅」というものが少ないからだ

だいたいのことが本音で言えば「どちらでもいいんでない?」と思っている

それでは議論にならないので「とりあえず」を決めて話していて、熱く語られたりするとそっちに傾いてしまったりする

だが、一応「曲げられないもの」もあるのだ

 

「人道に反すること」この一点においては妥協を許さない

ただ人によって立場が違うので「この人のほうが正しい、正解だ」のような決定は下せない部分がある

たとえば片方だけの意見を聞いてその人に全面賛成できなかったりとか…

女性からの相談役とか無理な話なのである

「こんなことされてワタシカワイソウ」とか言われたら「相手の話を聞いてないので何とも言えないが、お前の話を全面的に正しいとするならそうなんだろうな、お前の言うことが『すべて』なのだとしたら、な」を繰り返すことになるだろう

 

閑話休題

生きている人は変わり続けていくのだ

どんどん成長したり、劣化したり

 

「人は…変わる…」このセリフ、大いに歓迎するが前自分が言った意見を忘れて違うこと言ってしまった時に言い訳のように使うのはよくはない

 

しかし、このことも忘れてまたこの言い訳を使用する機会がくることがあるのだろうな、気をつけねば

俺的理論「+」と「−」

中学生の頃、人生の「運」はいい時と悪い時を合わせて「0」になるんだと考えていた

 

ちょうどそのころ、自分に起こった出来事などの調子のいい悪いが足したらゼロ付近だなーと感じていたからだ

 

そのころは毎日「今日のツイてる具合」を測るのがとても楽しかった。友達との会話のたのしさ、登下校中の信号の引っかからなさやかわいいことしゃべれたり、便が快調だったり

授業で当てられたり、忘れ物したり、部活の野球でヒットだせなかったり、便が頑固だったり

 

そういう「+」の面と「−」の面を、その凸凹をはめていくのが楽しくてしょうがなかった

 

 

あれから10数年…人生はそんなもんでは測れんよと、そう今は考える

ファクターが多すぎるファクツァーが

人によっては何万分の1という確率の難病にかかったり不慮の事故だったりで若くして亡くなる人もいる。そんなひとたちはその分の不幸に値するほどの幸運を手にしていたのかと考えると、そうとも言い切れない

 

幸福度という言葉もあるが、そもそもそんなもの測れるもんじゃないし同じ現象でも人によっても度合いが違いすぎる

 

ただ言えることは「ある程度の幸せ」というものは、日々わけが分かっていなくとも「なんとなく頑張って」いないと手に入らない

 

みんなが当たり前のようにもっているもの(先天的なもの以外の人それぞれのステータス)は、なんとなく、だけども「とりあえず」がむしゃらに頑張っているからなのだと

 

 

まぁだからなんだと言われればそれまで(本当はそれまでではないとも思っているが長くなるので省略)だが

調子のいい悪い、人のいいとこ悪いとことかもそうだが、測れるもんでもないよねって話。天は二物を与えることもあれば逆もまた然り。

まぁ後者は特に人(第3者)からの視点だしね

 

ただそういうの考えるの面白いよね

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