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俺論

提示された文章、人から聞いた事等を自分の言葉で言い換えられないと「理解」しとたは言えない

 

そう思っていた

 

が、もともと数学や算数なんかは「身体の中にある感覚」を自分の外側に出す、目に見える形にする訓練だと言う人もいる

 

それについてもめっちゃ納得。

 

ということは、

「あーわかる!なんて言ったらいいかわかんない、言葉では言い表せないけどわかるわー!」

って人たちは本当に「なんとなく感覚で」理解しているともいえる。

 

今までは、それは理解したとは言えないねと思っていたが、ここで訂正しよう。

「そうなんだな!なんとなくわかっているんだなぁ!」

ってね。

 

これは自分も「うまく言い表す言葉が今は出てこないけど、言ってることはめっちゃわかるわ」って体験を何度もしているってのもあるんだなぁー

 

 

俺的理論「人はかわる」

万物は流転する

 

川の流れは絶えずしてしかももとの水に非ず

 

諸行無常

 

俺の考え、意見、意識はなんどきも変わらない

ということはない

 

上に書いたように「物」というものは姿かたちを変化させていくものである

人間ももともとは自然から生まれたものであるがゆえに日々少しずつ変化している

年をとり、細胞は生まれ変わり、老いてゆく

生きて行けばさまざまなものに触れ、環境も変わり視点もかわる

そして考え方も変わっていったりするものである

 

ただ気を付けないといけないことは、コロコロ意見が変わっては信用がなくなるということである

 

時間をかけて変わっていったのならわかるが、昨日言ったことと今日言ったことが違えばなんだお前?

と思われるのである

 

私はとりわけこのようにすぐ意見をかえてしまう方である

なぜなら「許せない範囲・幅」というものが少ないからだ

だいたいのことが本音で言えば「どちらでもいいんでない?」と思っている

それでは議論にならないので「とりあえず」を決めて話していて、熱く語られたりするとそっちに傾いてしまったりする

だが、一応「曲げられないもの」もあるのだ

 

「人道に反すること」この一点においては妥協を許さない

ただ人によって立場が違うので「この人のほうが正しい、正解だ」のような決定は下せない部分がある

たとえば片方だけの意見を聞いてその人に全面賛成できなかったりとか…

女性からの相談役とか無理な話なのである

「こんなことされてワタシカワイソウ」とか言われたら「相手の話を聞いてないので何とも言えないが、お前の話を全面的に正しいとするならそうなんだろうな、お前の言うことが『すべて』なのだとしたら、な」を繰り返すことになるだろう

 

閑話休題

生きている人は変わり続けていくのだ

どんどん成長したり、劣化したり

 

「人は…変わる…」このセリフ、大いに歓迎するが前自分が言った意見を忘れて違うこと言ってしまった時に言い訳のように使うのはよくはない

 

しかし、このことも忘れてまたこの言い訳を使用する機会がくることがあるのだろうな、気をつけねば

俺的理論「+」と「−」

中学生の頃、人生の「運」はいい時と悪い時を合わせて「0」になるんだと考えていた

 

ちょうどそのころ、自分に起こった出来事などの調子のいい悪いが足したらゼロ付近だなーと感じていたからだ

 

そのころは毎日「今日のツイてる具合」を測るのがとても楽しかった。友達との会話のたのしさ、登下校中の信号の引っかからなさやかわいいことしゃべれたり、便が快調だったり

授業で当てられたり、忘れ物したり、部活の野球でヒットだせなかったり、便が頑固だったり

 

そういう「+」の面と「−」の面を、その凸凹をはめていくのが楽しくてしょうがなかった

 

 

あれから10数年…人生はそんなもんでは測れんよと、そう今は考える

ファクターが多すぎるファクツァーが

人によっては何万分の1という確率の難病にかかったり不慮の事故だったりで若くして亡くなる人もいる。そんなひとたちはその分の不幸に値するほどの幸運を手にしていたのかと考えると、そうとも言い切れない

 

幸福度という言葉もあるが、そもそもそんなもの測れるもんじゃないし同じ現象でも人によっても度合いが違いすぎる

 

ただ言えることは「ある程度の幸せ」というものは、日々わけが分かっていなくとも「なんとなく頑張って」いないと手に入らない

 

みんなが当たり前のようにもっているもの(先天的なもの以外の人それぞれのステータス)は、なんとなく、だけども「とりあえず」がむしゃらに頑張っているからなのだと

 

 

まぁだからなんだと言われればそれまで(本当はそれまでではないとも思っているが長くなるので省略)だが

調子のいい悪い、人のいいとこ悪いとことかもそうだが、測れるもんでもないよねって話。天は二物を与えることもあれば逆もまた然り。

まぁ後者は特に人(第3者)からの視点だしね

 

ただそういうの考えるの面白いよね

俺的理論「俺的理論」

前回の記事の最初の予定では、あんなところに着地してしまうはずではなかった笑

 

「俺的理論について」である

 

よく私は「俺のこういう考えた方ってもんがあってな、それでいうとこういうことなんだよー」というのを「俺的理論ではな…」なんて言い方をしてしまうのである

 

みんなそれぞれにもあるよな、こういう「俺的理論って」

 

ってのが言いたかったこと。

それぞれのはこういう聞き方をしなくてもブログ見れば一目瞭然なんだけどね

あえて言葉にして言いたかったからね

 

言ってすっきりしたいってのよりはかゆいところに手が届いたって感覚なんだよな

なんとなく考えていたことが書き記すことによって顕わになっていく感ね

 

そうそこっ!そこなのぉぉぉぉぉ!おっほぉぉぉ!

「俺的理論」「始まり」

お久しぶりなぁん

今日はみなさんそれぞれが常日頃から考えている「考え方パターン」について少しだけ考えてみようと思う

それぞれ何かについて考えるとき、その考え方自体がパターン化しちゃっていたり、あるいは考える際の負荷、良いか悪いかと判断する思考・好みの「係数」ってものがあるというように思える

 

この「係数」ってのがポイント。好みの好き具合ってこと、この量の差異が人々に考え方の違いを与えているのではないかと。

私がポケモンがAくらい好きなら友人はその0.1Aくらいしか好きではない=興味が薄い、となるわけだ

ひとの考え方パターンも結局は好きなもの・嫌いなものへの係数の違いでそれぞれの決まった考え方が出来上がってしまってきている

 

極論でいうと好みなんてどうしようもない、簡単には変化のさせようもないものなので、他人と論じ合っても感情では共感なんぞできないわけである。

だがそこは人間、完全に同じものはなくともその中で似た部分を見つけて喜びを共感したり、違う部分をなじりあったりしてたのしむものである

逆に思考がパターン化しちゃってるなと思った時には是非とも自分の感情とは離れた部分から物事を観察してみてはいかがだろうか。

 

まぁこれは自分に言ってるわけでもあるのだな

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