その日の朝は、いつもよりも三十分早く目が覚めた。


今は厳しい冬の最中で、夏に比べて日の出の時間も格段に遅い。
日の光を頼りにした早朝練習も、オフシーズンだけは一時間遅く開始する。そのため、日が長かったころに比べ、一時間は長く眠ることが出来ていた。
だが、今日は眠りの浅くなってきたところで携帯の着信バイブが鳴り、不本意な覚醒となってしまう。

花井は、目覚まし時計の他に用心の意味も込めていつも携帯のアラームを鳴らしてはいる。しかし、いくら花井でもそこまで用心深くない。寝静まった家では、携帯のバイブ音ですら家族の迷惑になりかねない。
こんな時間にメールや電話というわけでもないだろうが、何かしらの緊急連絡だったら困るため、眠気と闘いながら花井は携帯のディスプレイ画面を覗いた。

そして、ぼんやりとした思考で思った。俺の貴重な睡眠時間を返せ、バカ田島、と。




***キス・アンド・ダイブ!***




その日、関東地方は記録的な大雪に見舞われ、交通の主要なラインはおおむね麻痺状態となってしまった。
高校から若干距離のある地域に住まう生徒は、夏場は自転車通学、冬季は電車を使用するという人間が多い。
その為、多くの中距離通学者は、登校に大幅な遅れが生じた。そして、花井もその中の一人となってしまう。


自転車で四十分の花井宅は、電車通学に切り替えると乗車時間そのものはものの数十分でしかない。

だが、鉄道施設の雪に対する備えはあまりに手薄だった。電車は除雪作業の為、ダイヤに大幅な遅れが生じていた。花井は駅で、立ち往生となってしまう。
朝、学校に向かう支度をしていると、モモカンから雪のために本日の朝練は中止との業務連絡が入った。その為、いつもより更に遅く家を出てきたのだが、電車がここまでダメージを受けているとは想像もしなかった。
歩いて行った方がまだ早いかもしれない。
駅で足止めを食らって早一時間が経過していた。

(うう、寒い…)

坊主頭を寒さから守るためのモコモコのニット帽、ブラウンのマフラーに、保温機能が抜群のダウンジャケット、同じく厚手の手袋。これだけの防寒対策を持ってしても、寒波の洗礼はしのぎ切れそうにない。そして、吹き抜けの構内には容赦ない吹雪が襲う。

本日12月24日は、終業式だ。
しかし、学校には二限目どころか終業式にも間に合うか怪しくなってきた。部活動の為だけに学校に向かうことになるかもしれない。

今朝方、キャプテンである花井に、モモカンこと百枝まりあ監督から朝練中止の連絡と共に一つの伝令が下された。


『皆に長靴、防寒着、汗を掻いた後の着替えを準備するように早急に連絡してちょうだい。
今日は大雪だからね。野球部が学校に貢献出来る日といったらもうこの日しかないわよね。』


「言ってることが、よくわからないのですが監督。」


『今日は学校の出入り口近辺、およびグラウンドの除雪作業を行います。何と言っても体力が付くし、それに日頃大会の公欠なんかで落とし気味の野球部の株を、ここでググッと上げておかないといけないからねえ。』

―学校側を味方につける。これも全国制覇への近道よ、花井君。―

分からないようで、だがしかし分かりたくないようで分かってしまう。大人な話だ。
最後のモモカンの一言、は実に納得のいく言葉だった。

(はあ、まあいっか)
ため息が、空中に吐き出された瞬間に白く滲んだ。

野球部に一斉送信したメールは、全部登校前に届いただろうか。
少々心配しながら、花井は超鈍足運行の電車を待った。







予想以上に駅で足止めを食らい、花井が学校に着くころにはすでに終業式を終えていた。電車通学の人間は結構いるはずなのだが、もう正午に近いこの時間帯にそれでもめげずに登校してくる生徒は花井ぐらいだったようだ。クラスに着くと、学期末最後のホームルームも終了を迎えようとしていた。
恥を覚悟し、生真面目な花井は教室にそろりと入場する。
担任、クラスメイトには盛大に笑われ、阿部と水谷にはからかわれた。

とんだクリスマス・イブである。


自分の席に着くと、まだ笑っている前座席の水谷の背中を摘まむ。いつまでも不自然に腹を抱えて笑う様子が実に腹立たしい。
皮ばかりの背中を摘まみながら、今日一番の心配ごとを水谷に問う。


「ああ、防寒着に濡れちゃったときの着替えでしょ?ばっちりだよ」


ホワイトクリスマスだね〜、と水谷は笑った。

まだ全員に聞いて回ったわけではないが、ちゃんと連絡が伝わっていたことが分り、ほっとする。メールのレスが返ってくるだけでは、なかなか信用できないものだ。
返事だけはお利口さんな奴が、この部活にはわんさかいる。


(今日、すげー雪降ってんぞ!部活終わったらどっちがデカい雪だるま作れるか勝負しようぜ!)


お利口さんの一人、まだ日も登らない明け方に届いた田島からのメールを思い出す。
そのメールにだけ改めて返信するのも億劫で、花井は業務メールのみを田島を含むチーム全員に一括送信した。

しかし、返事だけは一丁前のこの男、今日に限ってノーリターンなのでうっすらと心配になってくる。
業務連絡だけのメールに不満を抱いているのかもしれない。

それでも、特大の雪だるまを作ろうと意気込んでいる人間だ。ちゃんと防寒着くらい持ってくるだろう。
そう自分を納得させ、花井は、深々と未だに降り止まない窓の外の雪に目をやった。

これだけ降り続けば、結構な量がグラウンドには積もっているだろう。
田島と雪だるま勝負の一つや二つ、簡単に出来るかもしれない。

ぼんやりと担任の話を聞きながら、そんなことを花井は思った。





昼食を終えるころには、雪はぴたりと止んだ。
雲は未だ晴れないが、絶好の除雪日和となった。

モモカンの話によると、昨日今日と大雪でそれ以降は晴天が続くそうだ。
その為、積もった雪を早めに除雪してしまえば、数日でグラウンドでの練習は行えるようになるだろうとのことだった。
この時期、雪国の球児は豪雪に泣き、ひたすら室内で地道なトレーニングを積むのだという話を聞き、花井は大層哀れに思った。
球児に取って、グラウンドを使わない地道なトレーニングの毎日は、先の見えない拷問以外の何物でもないからである。それが夏に生きてくるものだと分かっていても、心はぽきりと折れそうになる。

自分の実力を肌で感じられるのは、グラウンドでの実践以外他にない。
折角雪の少ない場所に生まれ育ち、日本全国でも恵まれた土地に住む球児としては、一刻も早くグラウンドを掘り起こさねばいけない。
そんな使命感がふつふつと湧いてくる。

全国制覇を目標に掲げてからというもの、花井の思考は大層グローバルに展開されるようになった。
いつの間に、こんなに野球に対して真摯になってしまったのか、当の本人が聞きたいくらいだった。



午後一時に校舎裏の器具庫に集合。
部員全員に一斉送信された通り、時間の五分前には全員集合場所に揃っていた。

昼間ホワイトなんちゃらだと浮かれていた水谷同様、他の部員も滅多に見ることのない大量の雪に胸を躍らせているらしい。
七組一同が揃って集合地点に辿り着いた時、既に派手な雪合戦が始まっていた。
球児たちの強肩から繰り出される速球は、大層な速度で標的に向かって飛んでいく。


降りたてほやほやの柔らかな雪だからとはいえ、目などに直撃したらやばい気がした。
日々反射を鍛えている仲間の運動能力を疑うわけではないが、見ていて動きのおぼつかない人間なんかは心配になってくる。(三橋とか三橋とか三橋とか……)

「おーい、もうすぐ監督くっぞ。そろそろ切り上げろよっ!」

花井の一声で、飛び交う雪玉は次第に減っていく。それまで、一番雪玉を量産していた田島の方に目をやる。

ちらりと花井の方に目線を向けてくるが、すぐに違う方向に逸らされる。
その分かりやすい態度は誰が見ても一目瞭然だ。花井の予想通り、田島は大変不機嫌そうに輪の中に近づいて来た。

「おい、何急に怒ってんだよ田島」


同じクラスの泉が、すぐに田島のお天気な気分の変化に気付く。

「べっつに」

言葉ではどうと言ってみても、確実に何かありそうなのは見て取れた。
はて、どうやってこのご機嫌を直そうか。キャプテン花井は頭を悩ませることになる。






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