一鶯



愛して欲しいわけじゃなくて、世界中で私にだけ優しくして。

開架に返却する本を積んだワゴンの中に、書架の本が混ざっていた。帰る前に確認して、なんとなく違和感があったものを取り上げたらドンピシャだったので、すごいですね〜とかけられる声に謙遜を返して、鶯は書架へ向かったのだ。祭日前だしと、他のスタッフを先に返した上で。
閉館時間も過ぎた無人の図書館は不気味なようで、その実落ち着ける場所でもあった。人のいる静寂と、そうでない静寂。どちらが真なるものかはともかく、鶯は自分だけが手に入れられ得るこの場所が気に入っていた。
自分の縄張り。自分の空気。全てが鶯の機嫌と手腕に委ねられていたあの場所。屋敷の中では当たり前であったことが、手放した今思い出される。捨てるべきではなかったものも確かにあるに違いないのだが、鶯は鳥だ。立つ鳥は跡を濁さないし、転じて後悔もしない。
今の暮らしは、求めていたものの一部だ。満足している。楽しいし。たとえば、大人になったのに、なんだか胸躍る悪いこともできる。こんなふうに、居てはいけない場所に居たり。
鼻歌交じりに背表紙の番地にたどり着き、ラベルをもう一度見る。お前の隣人はどこだ?番地の端からラベルをなぞってゆく。
「……ゲーテ、の、第……、ーーッ」
瞬間、鶯は勢いよく振り返った。
これが鶴や獅子なら違っていたろう。彼女らは己に害なすものの気配は感じるより早く元の命を断つ。鶯はそうではなかった。自身に向けられたそれが、ひとよりよくわかるというだけの、ただの女であるからだ。
誰かが鶯の背後にいて、思い切り何かを振りかぶって、鶯の後頭部にぶつけた。待ち構えていたようなそれに、ワゴンのゲーテが罠だったと悟る。お笑い種だ、かの古備前の王がいまではこの体たらくとは。忘れていた。自分の命が元本より遥かに重んじられた時代に、鶯が有象無象に売ってきた数多の怨恨。捨てて惜しいものもあれば、捨てようとも捨てられぬものもある。時よ止まれ、お前は美しいーーー顔が見えていればの話だが。狭くて暗い書架でマウントを取られてはどうにもならず、うつ伏せに昏倒した鶯は、首を絞められてそのまま気絶した。

犯罪なんて思ったよりも後ろめたくも難しくもない。
人は一期が思うより自分のことなど見てはいないし、一期が思うより簡単に人は意識を手放す。誤算があったというのなら、すっかり意識を手放した彼女に手を焼いて、背負うだけのことに一番時間をかけてしまったことくらいだ。それでも、図書館の正面玄関から鶯を背負って出てきた一期のことをとがめる人間はいない。あの目障りな白い蝿もーーー。
大学の近くのビジネスホテルにとっておいた部屋に戻ってくる。ベッドに鶯を寝かせると、枕元に移動させておいたランプと彼女の細腕を手錠でつないだ。豆電球に落とした仄暗い部屋の中でも、彼女の顔は眩いばかりに白く美しい。一期はうっとりしながらその細顎に指を這わせて、なぞるようにして辿り着いた薄い唇に爪を沈める。わずかに口内に入り込んだ一期の指を、生理現象だろうか、彼女の舌先が掠めた瞬間、一期はその唇に自分のそれを重ねていた。
好きなのだ。好きで好きで仕方がない。あの雨の日、汚れた自分にそれでも手を差し伸べてくれたその手が。震える身体を抱きしめて、寝床に迎え入れてくれた胸が。何を聞いても否定せず、穏やかに聞き入れてくれるその目が。美しく気高く、奢ることはしなくとも誰もが認める美しさが。「いちご、」自分を呼ぶ、柔いその声が。気怠げに似合わない紫煙をくゆらせる唇も、煙草を絡める指先も、鶯を構成する何もかもが好きで、好きなのだ。彼女の想いが、興味が、自分以外の何かに向いているなどと、考えてしまうだけでどうにかなってしまいそうなのだ。鶯に夢中で口づけていると、不意に一期の頬を撫でる手がある。
硬直した。
この部屋で意識を持って動ける人間など、自分以外にいるわけがない。驚いて飛びのきそうになった一期の唇を、
「……どうした、一期。何か嫌なことでもあったのか」
彼女はーーー目を覚ました鶯は、この場において重要なことは何一つ口にせず、たったそれだけを聴いたあと、一期の唇を追いかけてそっと罪に震える上唇を食んだ。


一週間ほど、この狭い箱の中で、一期と鶯は二人ですごした。鶯がベッドに拘束されている以外は、ひどく穏やかな生活だ。食べたいものを買ってきて好きな時に食べて。身体は一期が隅々まで清めてくれるので風呂に入らずとも特段問題はない。夜は二人で寄り添って眠る。それのくりかえしだ。
数多いる人間のひとりやふたり、消えたところですぐには大ごとにはならない。世界は思った以上に独りよがりに寛容だ、そんなことを一期がこぼしたら、鶯はおかしそうに笑っていた。
「お前、見た目よりずいぶん力があるんだなあ。俺も、さすがにあの時はとうとう死んだと思ったぞ」
からりと笑う鶯に、買ってきたヨーグルトを差し出してやりながら、一期はか細い声でごめんなさい、と謝罪した。ヨーグルトをもぐもぐと気持ちばかり咀嚼して、嚥下したあと、鶯はその感想でも言うように、きわめて自然に尋ねた。
「俺はお前に、何か気に障ることをしてしまったか」
「……ッそんな、ことは、決して……!」
「ではどうして、お前は俺から自由を奪うんだ?」
ガチャリとなるのは、鶯とランプをつなぐ鎖。昏倒させられて拉致されて、軟禁されているとは到底思えない穏やかな声と笑顔。一期は自分の罪を悔いる気持ちの中に、彼女に対する薄ら冷たい恐れにもにた気持ちがあることに気付き始めていた。
彼女には底がない。注げば注いだだけ満ちて引いてゆく、足のつかない沼に手を突っ込んでいるような心地になる。でも、それでも、一期にはこの想いに、恋というほかにつける名前を知らない。黙り込んだ一期を急かしたりはせずに、鶯は酷薄に笑っている。
「……好きなんです、貴女が」
「ほう」
「だから、私だけ」
「お前だけを見ろ、と?」
「違います!」
今度は鶯の方が驚いた。一期の大きな目が、涙でいっぱいになっている。それがとうとう溢れておちる。
「そんな大それたわがままなんか言いません。わたしは、わたし、にだけ、いちばん、優しくしてほしいんです……!」
鶯は、頭のどこかで、パチリとパズルのピースがはまるような、空白が埋まる気配を感じた。愛することと否定することは矛盾しない、そうであるなら、傍にいることだけが手段ではない。自分はそれを、伝えられなかった。気付かなかっただけの、簡単なことだったのだ。鶯はおかしくなって嗤った。
「お前はすごいなあ、一期」
「……?どういう」
「わかった、それを聞こう。そうすればお前は満たされる。そういうことでいいのだろう?」
「……、」
一期は驚いて声もない。鶯はこともなげに言ってのけているが、それがたやすいことだとは思っていない。けれど、まさか彼女が言葉をたがえるなんてことはないと、一期の妄信的な部分が喚いているし、本能もそうだと思っている。なにか罠が、あるいは策か。一期が戸惑っている間にも、鶯は続けた。
「一期、鍵を出せ」
「……はい、」
鶯が解放を要求するのに準じる言葉を発したのは、実はこれが初めてだった。そう、今の今まで、鶯は解放をただの一度も望まなかったのだ。
これはやはり取引だろう。一期の望みを叶えるためには、彼女の望みを叶えなければならない。なんて姦計、なんて辣腕。乗らざるを得ないほど甘い蜜を目の前にたらし、悪事など知りもしないと言わんばかりの目で柔らかく笑う目が、どうしようもなく愛しくて、美しくて、それ以外に何も信じたくなくなる。鶯という女は、そういう女だ。一期は言われるままに鍵を取り出し、そして、手錠を開錠した。すると鶯は、自由になった手で一期の手を包んで。
「ありがとう、」
そこから、今しがた自分を解放した鍵を手に取る。一期は顔を上げる。真っ青な顔を。
「心配しないでも大丈夫」
一期は絶句している。言葉など紡げよう筈もない。息をするためか何か言うためか、どっちつかずな口がぱくぱくと無意味に開閉する。
「これを、証としよう。それほどの価値があるのか、俺には分からないが。きっとお前だけにーーー」
俺は一等、配慮をしよう。
鶯は笑ってそういうと、やすっぽいアルミの手錠の鍵をぺろりと、飲み込んでしまった。



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