最近、仕事が楽しい。
まだ人間関係はままならぬが、新しいことを吸収していくことに楽しみを覚えるようになった。
また、後輩もできた。
…もっとも、人生においては先輩であるが。
その後輩はよく笑う。
だが、その笑いは真面目な話をしていたり、自身が注意されているときも変わらず現れる。
不器用な後輩が嫌われるのに時間はかからなかった。
だが、周囲は嫌いつつも、きちんと後輩を指導している。
その姿に、好感を覚える。
教えるという行為は、対象者に関心があってこその行為。
後輩が頑張る為のフィールドは整っている。
そこで、どれだけ足掻くか。
それは私も同じ。
用意されたフィールドでどのように立ち回るか。
これからの行動が、鍵となる。
次の扉へ向かうために、うまく立ち回りたい。
入院した病院で、患者は何を頼りとするか。
医者か?
家族か?
だが、最も身近で患者と接する者は誰か?
…看護師なのだ。
私の受け持ち患者の容態が思わしくない。
否、容態といっても、体の方ではなく…心の容態だ。
認知症が進むにつれ、患者は涙を見せるようになった。
あれがない、これがない、と常に不安を抱いて。
私が今日の終業時刻をすぎた後、やっと書類仕事を終わらせた時もその患者は涙を流した。
その患者の話を聞いていると、夜勤の看護師───先輩にあたるのだが───が、私に向かってこう言ったのだ。
「あんたはその場しかないけど、私はこれから見ていかなきゃなんないんだから、甘やかさないで!」
────私は看護師としての経験は浅い。
だが、その言い方には憤りを感じた。
看護師が患者の話を聞いて何が悪いのだ?
そのようなことを言って、話を無理矢理中断すれば、余計に不穏になるのが分からぬか?
まして、その台詞を患者の前で言うとは…
呆れて物が言えなかった。
だが、その先輩看護師はいつもは優しい。
それに、確かに先輩看護師の言うことにも一理はあるのだ。
理想の看護など、ままならないものだ…
先の日記でも言ったが、宗教は争うものなのか…
私は、盲目に信じる者に恐怖と羨望を感じる。
そこまでの信念を持つ姿は驚嘆に値するが、果たして盲目すぎるのもいかがなものか。
顕正会員がいい例であると私は思う。
そして…私は、頑なに物事を信じた事がない。
常に疑いの目を持つ。
そうでなければ、看護師などできないとも思う。
信じれば救われる。その理屈は病院には通用しない。
通ずるなら、病院などいらぬ。
顕正会の体験発表にも、医療従事者から見ればありえない事がたくさんある。あれは、是非カルテを拝見したいものだな。
話はずれたが、そういうことで、私は一途に信じることができない。
完璧など、信じていない。
だが、そんな者がいた方が、間違いは少ないのではないか。
修行中の身なれば、過ちも多かろう。
その過ちを、盲信で見過ごしてはならぬ。
信心を言い訳にしてはならぬ。
諌める者が必要だろう。
矛盾が多いことを指摘されたら、指摘した者を排除する顕正会に救いの道はない。
あるのは滅びの道のみ。
だが、宗門もけして驕れるものではない。
驕れるものは久しからず。
少しは疑問に思えばどうか?
先日、半強制的に顕正会員にビデオに連れていかれた(あやつ…夜道に気を付けるがいい…)
久々にあの愚者顔を見てたら頭痛がした…
偽本尊見た瞬間にさらに頭痛がしたゆえ、説き伏せて何とか拝まずにすんだ。
顕正会が間違っていること、それはゆるぎのない事実。
だが…
自由な茶寮の掲示板や、数々の宗門VS顕正会員または学会員の書き込みを見ていると、
宗門はそんなに偉いのか?
と思ってしまう。
私は、まだ宗門に入って日も浅いから何とも言えないが…
とりあえず、あそこまで人を侮辱させる宗教なら私は嫌だと感じる。
仏弟子という単語が虚しく見えた。
そもそも宗教は争うものなのか?
両方の立場から見れば、道義はともかく、口に出す言葉はどちらも変わらないではないか。
…疲れているからか、すべてがくだらなく感じる。