世の中には失ってから、その大切さに気付くモノがある。その最たるモノは『日常』だろう。退屈で同じ事の繰り返しに見える日々も、裏を返せば安心安全だということだ。舗装された道と野生動物が跋扈する密林の獣道、どちらか選べと言えば私はもちろんアスファルトの歩道を選ぶ。
だけど、大切なモノは時として唐突に失われてしまう。どんなに守ろうとしても、どうにもできない運命もあったりするのだ。
例えばその瞬間は、下校する友達と電車に揺られている時だったりする。
「ねえ、雪乃。あそこに変な人がいる……」
「え、どこどこ?」
やたら空いている電車の車両には夕日が差し込んでいた。私と雪乃は日差しを背にして座って、数学の参考書を開いていた。高校生になって初めての期末テストに向けて、猛勉強中だった。
各駅停車の電車は乱暴なブレーキを掛けてホームに入り、自動ドアを開ける。ふと顔を上げて車両に乗ってくる人達をボーッと眺めていた私は、奇妙な人の姿が目に飛び込んできたのを小声で雪乃に教えた。
「夏希、どこ? 変な人どこ?」
「雪乃静かに! 今入ってきた人だよ」
私は恐る恐る視線で変人がどれかを伝えようとした。この寒い季節に作務衣と草鞋を身にまとい、何より目を引くのは顔につけた白地に赤い模様の描かれたキツネのお面だ。
キツネ面の男はキョロキョロと空いている座席を探しているようだった。
「ねえ、どこにもいないよ?」
怪訝そうに私の顔を見つめる雪乃。私は雪乃とキツネ面の男を交互に見返して、自分の失態に気が付いた。
――ヤバい、目が合ってしまった。
お面を付けているのだから相手の目など見えない。それでもこちらを見ている事は何となくわかった。とっさに顔を参考書に向けて、「ゴメン何でもない」と雪乃に謝った。発車のベルが鳴り響いて自動ドアが閉まる。荒っぽく進み出す電車。参考書の向こう側にあの草鞋が見えた。
「お前さん、お前さん」
チラッと雪乃を見るけど何も反応せずに参考書を見ている。知らないフリをしているのか、はたまた本当に気付いていないのか。私は雪乃が遠くにいるように感じた。
「その娘さんに儂の声はきこえん。お前さんは、きこえるな」
耳が熱くなるのが分かった。幻覚幻聴よ消えて無くなれ! と心の声で叫んでも参考書越しの足にみじんも変化はなかった。
雪乃には聞こえないなら私が返事をしたらおかしくなったっと思われてしまう。いや、もうおかしくなってしまったのか。 突如現れた非日常に驚き、考え、逃げ道を探していた脳は疲れ果て、深いため息が腹の底から溢れる。
「どうしたの?」
「どうかしたか?」
友達と幻聴のステレオが煩わしい。とりあえず、他人には見えないし聞こえないのなら人気のない場所でしか返事はできない。
私が降りる駅までは7つある。電車のダイヤが乱れなければ各駅じゃなく特急で帰れたのに。
兎に角、私が降りる駅かキツネ面の男が降りるまで知らない振りを続けなければ。
「お前さんは婆さんか」
「困ってる人を助けないとは冷たい奴」
「親の顔が見てみたいのう」
「腹が減った」
「握り飯とたくあんがあれば文句も言うまい」
「阿呆、阿呆! 烏の真似じゃ、上手いだろう」
「暇じゃな」
「初めは電車も面白かったが、もう飽きたな。そもそも……」
うるさい。途轍もなく喋る男は独り言を、わざと声を大にしている。私に嫌がらせをしているのは明らか。
ついに怒りを我慢できず、眉間にしわを寄せてキツネ面の男を睨み上げた。
「……」
面の白地が夕焼けに染まって茜色。背筋がむず痒くなる。さっきまでの怒りはどこへやら、目が合った瞬間に、まるで大きな口に呑み込まれたかのように怖い。沈みかけた太陽、反対の空には藍色の夜の気配。逢魔が時。
「よくよく見ればいい顔をしているな。まだ幼いが食い気をそそる」
キツネのお面がぐんっと顔に近付いた。腰を曲げて、まるでガラス越しの展示物を眺めるように私をしげしげと見つめている。
そういえばダイヤの乱れは人身事故とアナウンスされていたような……。
こめかみからアゴにつたい落ちる汗がやけに冷たい。視界が端から暗くなる。ああ、目眩が襲ってくるのだ。私は気絶して、その後の運命は、終わりなのだろうか?
「……、……?」
男の声もはっきり聞こえない。雪乃が呼びかけているようにも思う。男の手が私に伸びてくる。だけど体は言うことをきかない。