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スプートニク

 
 ここはどこだろ?
 空と大地が交わる景色の中でライカは軽快に走っていた。肌に当たる空気は気持ちよく、目的地のない事も苦にならない。
 どこまでだって走れる。初めて見る世界だ。行けるところまで、たどり着ける場所まで。
 ライカが青い大地に脚を着ける度に波紋が起きる。それが点々と、まるで轍のように後ろに伸びていた。
 どうやら遠浅の海か湖か、空の色や雲の姿形が水面に鮮明に映り込んでいる。水平線を見失う。ふと、無限を思わせるこの世界にライカは不安を感じた。
 ついさっきまでは熱く重苦しい場所に居たような気がする。朦朧とする意識が途切れたその後に広がる景色。寂しさが胸をよぎるのは何故だろう? 体からみなぎる力。だけど見たこともない美しい景色。会いたい……。
 
「誰に?」
 
 実際に聞こえたのか、それとも幻聴だったのか、優しい声にライカは立ち止まる。自分が会いたいと思ったのは誰だろう。記憶は曖昧で答えは出ない。再び駆け出したい衝動と胸にうずく疑問が引っ張りあい、どうすればいいか分からなくなる。
 
 空が暗くなるのを感じた。雲が太陽を隠したのかと見上げると、どうもそうではないらしい。
 太陽の放つ光が徐々に弱まっているみたいだった。世界は日蝕に似た暗闇を濃くしていき、目も眩む輝きは月のような朧気な丸になってしまった。
 
「こんにちは」
 
 背後からした声に振り返ると、女の子らしきものがいた。麦わら帽子に白いワンピースが浮いていた。顔も腕も足もない。まさに透明人間、自分には見ることができない存在だった。
 
「新入りさん? もうすぐ『夜』がくるから、早くマングローブか浮浪者を見つけなきゃ」
 
 見渡す限りそれらしき影は一つもない。ライカは少女に案内を願うが、それは出来ないときっぱり断られてしまった。
 
「自分を信じるのよ。五感を、直感を。信じることが大切。マングローブはあると、誰かに必ず出会えると」
 
 少女の言うとおり自分自身が感じることを信じれば、少女は人間ではないのだろう。そして直感を信じれば、この世界は……。
 
 ふと暗闇が濃くなったかと思ったら、次第に、空に浮かぶ日蝕の月が赤く染まりだした。と同時に水面に映り込んだ月は青白くなっていく。
 世界の変化とともに、強烈な血の匂いを感じた。鉄錆に似た少し腐臭の混じる嫌な匂い。それは透明な少女から漂っていた。さっきまでそんな匂いはしなかった。足元から這い上がってくる怖気に堪えられずライカは走り出した。どこから来たのかわからない。向かう先もわからないけど少女の側にいてはいけないと悟った。『夜』は徐々に深くなっていく。水面から無数の蛍に似た光が舞い上がり始める。
 ライカが振り返って少女を見ると麦わら帽子の下には男の顔が浮かんでいた。無精髭に苦悶の表情。あの可憐な声とはかけ離れた異様な顔。そして少女の周りをゆっくり浮游しながら旋回する小型の斧に目が止まる。 
 逃げなきゃ。出来るだけ遠くへ!
 
 再び青い光の群れの中を一目散に走り出す。息が続く限り、体が動かなくなるまで。
 ここは現実の世界ではない。ライカは気付いていた。だけど肌に当たる風や眩しく感じる太陽、日差しの熱は確かにそこにあった。夢なのか、現実の延長線上か。答えはないが、ぎゅうっと胸が締めつけられる不吉さがライカを突き動かす。あれは良くないものだと。本当の終わりがあの少女なんだと。四本の脚で必死に水面を駆け抜けた。









狐謡

 
 世の中には失ってから、その大切さに気付くモノがある。その最たるモノは『日常』だろう。退屈で同じ事の繰り返しに見える日々も、裏を返せば安心安全だということだ。舗装された道と野生動物が跋扈する密林の獣道、どちらか選べと言えば私はもちろんアスファルトの歩道を選ぶ。
 だけど、大切なモノは時として唐突に失われてしまう。どんなに守ろうとしても、どうにもできない運命もあったりするのだ。
 例えばその瞬間は、下校する友達と電車に揺られている時だったりする。
 
 
 
「ねえ、雪乃。あそこに変な人がいる……」
 
「え、どこどこ?」
 
 やたら空いている電車の車両には夕日が差し込んでいた。私と雪乃は日差しを背にして座って、数学の参考書を開いていた。高校生になって初めての期末テストに向けて、猛勉強中だった。
 各駅停車の電車は乱暴なブレーキを掛けてホームに入り、自動ドアを開ける。ふと顔を上げて車両に乗ってくる人達をボーッと眺めていた私は、奇妙な人の姿が目に飛び込んできたのを小声で雪乃に教えた。
 
「夏希、どこ? 変な人どこ?」
 
「雪乃静かに! 今入ってきた人だよ」
 
 私は恐る恐る視線で変人がどれかを伝えようとした。この寒い季節に作務衣と草鞋を身にまとい、何より目を引くのは顔につけた白地に赤い模様の描かれたキツネのお面だ。
 キツネ面の男はキョロキョロと空いている座席を探しているようだった。
 
「ねえ、どこにもいないよ?」

 怪訝そうに私の顔を見つめる雪乃。私は雪乃とキツネ面の男を交互に見返して、自分の失態に気が付いた。
 
 ――ヤバい、目が合ってしまった。
 
 お面を付けているのだから相手の目など見えない。それでもこちらを見ている事は何となくわかった。とっさに顔を参考書に向けて、「ゴメン何でもない」と雪乃に謝った。発車のベルが鳴り響いて自動ドアが閉まる。荒っぽく進み出す電車。参考書の向こう側にあの草鞋が見えた。
 
「お前さん、お前さん」
 
 チラッと雪乃を見るけど何も反応せずに参考書を見ている。知らないフリをしているのか、はたまた本当に気付いていないのか。私は雪乃が遠くにいるように感じた。
 
「その娘さんに儂の声はきこえん。お前さんは、きこえるな」
 
 耳が熱くなるのが分かった。幻覚幻聴よ消えて無くなれ! と心の声で叫んでも参考書越しの足にみじんも変化はなかった。
 雪乃には聞こえないなら私が返事をしたらおかしくなったっと思われてしまう。いや、もうおかしくなってしまったのか。 突如現れた非日常に驚き、考え、逃げ道を探していた脳は疲れ果て、深いため息が腹の底から溢れる。
 
「どうしたの?」
「どうかしたか?」
 
 友達と幻聴のステレオが煩わしい。とりあえず、他人には見えないし聞こえないのなら人気のない場所でしか返事はできない。
 私が降りる駅までは7つある。電車のダイヤが乱れなければ各駅じゃなく特急で帰れたのに。
 兎に角、私が降りる駅かキツネ面の男が降りるまで知らない振りを続けなければ。
 
「お前さんは婆さんか」
「困ってる人を助けないとは冷たい奴」
「親の顔が見てみたいのう」
「腹が減った」
「握り飯とたくあんがあれば文句も言うまい」
「阿呆、阿呆! 烏の真似じゃ、上手いだろう」
「暇じゃな」
「初めは電車も面白かったが、もう飽きたな。そもそも……」
 
 うるさい。途轍もなく喋る男は独り言を、わざと声を大にしている。私に嫌がらせをしているのは明らか。
 ついに怒りを我慢できず、眉間にしわを寄せてキツネ面の男を睨み上げた。
 
「……」
 
 面の白地が夕焼けに染まって茜色。背筋がむず痒くなる。さっきまでの怒りはどこへやら、目が合った瞬間に、まるで大きな口に呑み込まれたかのように怖い。沈みかけた太陽、反対の空には藍色の夜の気配。逢魔が時。
 
「よくよく見ればいい顔をしているな。まだ幼いが食い気をそそる」
 
 キツネのお面がぐんっと顔に近付いた。腰を曲げて、まるでガラス越しの展示物を眺めるように私をしげしげと見つめている。
 そういえばダイヤの乱れは人身事故とアナウンスされていたような……。
 こめかみからアゴにつたい落ちる汗がやけに冷たい。視界が端から暗くなる。ああ、目眩が襲ってくるのだ。私は気絶して、その後の運命は、終わりなのだろうか?
 
「……、……?」
 
 男の声もはっきり聞こえない。雪乃が呼びかけているようにも思う。男の手が私に伸びてくる。だけど体は言うことをきかない。
 
 
 
 
 
 
 

枝垂の小屋

 
 漆黒のスーツにネクタイを堅苦しく締めた男は、不法侵入同然で玄関に入ってきてすぐ、片眉を上げて天井を見上げた。僕が受け取らなかった名刺を懐に戻しながら呟く。
 
「これはまた奇異な」
 
 外は雨だというのに水滴一つ付いてない男の方が奇異だ。土間から上げるつもりはないと、仁王立ちになった僕に対して男は悪びれもなく話し始めた。
 
「私共はこの日本を変えようと腐心し駆け回っている者です。つきましては佐久間さん、そしてこの家に住む童様にご協力をお願いしたくて参りました」
 
「お断りします。帰って下さい」
 
 毅然と拒絶の態度を示したにも関わらず、そう仰らずに、と話し続ける。童様とはやはり座敷童の事だろうか。そもそもあれは僕に憑いている訳じゃないから協力以前の問題だが。
 男が語るのは、思想と持論に少しばかりの飾りだけ。新興宗教が信者を集めるための文句とさほど違いがない。むしろ、妖や秘密結社とかいった言葉を放つその姿はまさにカルト教団そのものだった。
 
「こちらの童様はこの国の未来を担う存在です。佐久間さん、貴方は私共を理解する事ができるでしょう。ゆくゆくは参画して頂きたいとも考えております」
 
 饒舌な男が一旦間をおき僕の反応を伺う。さっきと同じ答えを返すと、また片眉を上げて天井を見上げた。
 
「これだけの特異性は他にない。全く惜しい事ですが、今回は諦めるとしましょう。しかし、貴方と童様は私共にとって必要不可欠な存在です。また、近いうちにお邪魔させていただきます」
 
 どうかご容赦を。
 そうお辞儀をして男は振り返った。背筋の伸びた背中に張り付くのは確固たる自負と確信。ドアノブに手をかけて開ける寸前、胸にある言葉をその背中に投げかけた。この機会に訊かなくては次は無いと思った。
 
「貴方が火をつけたのですか?」
 
 ドアは開かず、男の動きが止まった。異常な静寂の中で喉は乾き汗が止まらない。声が出ない、指一本動かせない。男の気配が得体の知れないものへと変化していくのが分かる。それは鉄鎖でありながら蛇の如く僕を絡めとり、息もろくに出来ずに喘ぐしかなかった。
 
「ああ、言い忘れてました」
 
 少しだけ顔をこちらに向けた男の顔は冷たくおぞましかった。
 命の危険を感じながら、僕はこの事態をどう収拾するか必死に考えた。相手の純然たる悪意も恐ろしかったが、家の奥から足音が聞こえてくるのだ。ゆっくりと確実にこちらへと向かって。
 
「私共は既に異形です。だが国家を治めるのはあくまでも人でなければならない」
 
 背中に感じる足音に男は気付いていない。現実離れした存在に前後を挟まれた僕は意識が遠退くのを感じた。
 
「時代のうねりだと悟った方が身のためですよ佐久間さん」
 
「憎い憎い」
 
 座敷童の声がそばで聞こえた。絶望に血の気が引く。それが引き金になって僕は気を失ってしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 朝には静寂も去り、鳥の鳴き声で目を覚ました。玄関で倒れた私は体を起こして男の姿を捜す。だけど見つけたのは土間に広がる血の絵と潰れた蛇だけだった。
 
 
 
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枝垂の小屋

 
 携帯電話のアドレス帳を開いて、一つ一つの名前と記憶を辿ってみる。高校時代の旧友や仕事でお世話になった方々。中には随分と嫌な性格をした人もいた。まだ都会で暮らしていた時の元彼女なんて縁起でもないのもある。
 そうして、しきりに降り続く雨の暇つぶしをしていたら、急に携帯が震えて着信を知らせる。普段からマナーモードにしているのは、ふと気の抜けた瞬間に限って誰かしら電話を寄越してくるものだから、驚き疲れてしまったせいだ。
 
 画面には山下春樹という文字が浮かぶ。僕が在籍している蓮明の、一言でいえば担当営業マンだ。口調や態度は冷たい印象を与えるのに時折、突飛なことを真面目な顔で言ってみせる。
 
「そちらは如何ですか? 相変わらず私は忙しいのですが、佐久間さんものんびりやってらっしゃる?」
 
 通話ボタンを押すと同時に携帯電話からハキハキした声が聴こえた。どうやら、自分が企画した新進気鋭の画家達による共同展の準備に追われているらしい。画家の名前は、変わり者とか奇人と呼ばれている人物ばかりで、トラブルが絶えず付いてまわると山下は愚痴をこぼす。
 
「偏屈で頑固な抽象画家が勝手に共同展を降板したり、いきなりコンセプトを変えようとか言い出したり、もう沢山です」
 
 愚痴や鬱憤を半ば聞き流しながら雨に煙る木々に目をやる。こっちに休みに来たらどうですか? なんて言ってもこの営業マンは老後に行きたいと返すだろう。僕と歳が近くて性格が対照的な山下の声を聴いていると、自分が人一倍老けてるように感じてしまう。
 
「ああ、そういえば」
 
 ふと、山下の喋り調子が変わった。少し改まったように話し始める。
 
「禄風荘をご存知ですか?」
 
「それって同じ県内の、ちょっと前に出火した……」
 
「ええ、座敷童の居る宿として有名な」
 
 その言葉に妙な引っ掛かりを覚えたが、続きを促す。家の中がしんと静まり返っているのは、聞き耳を立てているからだろうか。
 
「あの旅館に供えられた人形の一つがウチと少し関連がありまして。担当者が調査に行ったところ、出火の数週間前から不審な人物があの周辺で目撃されていたらしく……」
 
 何より、家筋に憑くはずの座敷童が消えていたのが解せないという。繁栄を願い呪うのなら、出火も運良くボヤ騒ぎで済むのが道理らしい。
 
「それに、家筋が途絶えても存在し続ける座敷童がいるのに、家筋を残して座敷童が消えるというのも可笑しな話です」
 
 蓮明はこの事に関して事件性を感じているという。全焼によって呪詛の基盤が崩れ、座敷童が消失したという可能性もあるが。
 
「空き巣や詐欺に注意するのと一緒です。不穏な影があるなら警戒しておく。備えあれば憂いなし」
 
 あくまで私達は芸術家や工芸家の味方であり、探偵でも警察でもないですから。些細なことでも御一報頂けますよう。
 それを最後に電話は切れた。
 つまり、座敷童に関係してとばっちりを食らうかもしれないという事だ。まあ、この家は知名度も無いし、あれが既に座敷童と呼べるものかも分からない。
 
 降る雨はしとどになり、時刻もやがて夜を迎える。そろそろ晩ご飯にでもしようかと思った矢先。
 
 来客を知らせる玄関のチャイムに、座敷童が過剰な反応をした。
 
「奴が来た、奴が来た」
 
 同じ言葉を繰り返しながら、子供が飛び跳ねるような音が響く。奴とはこの前僕が留守にしている時に来た人の事だろう。家の中に緊張感が、紙に水が染みるように広がって満たされていく。
 もう一度、鳴らされたチャイムに耳鳴りがした。
 襖や障子、引き戸という引き戸が乱暴に開かれ、一斉に、一息に閉じられた。そして緊張感と静寂に包まれた家は、日常から隔離された異界へと様変わりしていた。
 
 玄関へと向かう。常に軋っていた廊下も無音になり、雨の音さえも閉ざされた静けさ。いまだに続く耳鳴り、汗がじっとりとまとわり付き気分が悪くなる。
 ドアノブを回して開いた隙間から流れ込んでくる雨音と、一人の男の表情。
 
「佐久間さんですね。私共はこういう者です」
 
 差し出された名刺には名前と電話番号のみ。
 この家は電話帳に登録されていないし、地図にも空き家と記されている。無論表札も付けてない。この男は僕の名前をどうやって知ったのだろうか?
 そして、さっき山下から電話で聞いた不審人物の情報と一致する服装。
 
 狼狽える僕の隙をついて、男は無理矢理ドアを開き玄関の中へと入ってきた。
 
 
 
 
 
 
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枝垂の小屋

 
 今朝から気持ち良く晴れた空は、正午を過ぎてから山の向こう側に暗い雲を忍ばせていた。昼御飯の片付けを済ませた僕は、冷蔵庫と床下に設けられた貯蔵庫を覗いて、少なくなった備蓄をメモしていく。調味料はスーパーに行けば大抵揃っているが、燻製や裏の畑に使う虫除け等はマタギの津志田さんに分けてもらっている。津志田さんの家はスーパーとは反対方向の山裾にあり、工芸用に適した樹木、顔料や染料になりそうな物を仕事のついでに探して貰ってもいた。
 
 自転車をこげば風が涼しく夏の到来を少しだけ遠ざけた気がした。この地方は冬は豪雪、夏は酷暑という両極端な気候で、冷暖房費が結構嵩んでしまう。出不精な僕には車は邪魔で、そのガソリン代やらを光熱費に回して生活している。何より車が故障しても自力で直せないが、自転車ぐらいは僕でも何とかなる。
 津志田さんの家に向かう途中、川に架かる橋の真ん中で水面を眺めた。この川には河童が住んでるらしく、住民の殆どが見かけているという。ところが僕は今まで一度も出会っておらず、この橋を渡る度にご近所挨拶を一軒だけ済ませていないような奇妙な感覚になってしまうのだ。
 
「ここいらの魚は阿呆だからよう釣れるぞ」
 
 振り返ると長い髪に背丈のある男が立っていた。たまに見掛ける人物だが、名前も住んでる場所も分からない。いつも作務衣を着ているから寺か神社の人なのかと思ったが、よく考えれば辻褄が合わない点がある。
 
「いや河童がいないかな、と」
 
 前々から得体の知れないと思っていたが、男は突然かっかと笑い出した。河童に会いたいのならばスイカを持ってくると良いと言いながら僕の肩を叩く。長めの腕は細い割りに力があり、叩かれた所が痛い。
 ずっとこうしてる訳にもいかないので、僕は自転車に跨った。それではと会釈をしたら「おう」と返ってくる。漕ぎ出して暫く経って橋を見るとまだ男が立っており、こちらに気付いたのか片手を上げた。また暫くペダルを漕いでだいぶ離れた所で振り返ると、男はいつの間にか橋から姿を消していた。
 
 津志田さんはどうやら留守のようで、裏の畑へ行っても姿は見えなかった。買い物だったらいずれ帰ってくるだろうが、マタギの集まりだったら夜遅くまで飲むに違いない。少し逡巡した僕は、玄関前の木陰に腰を下ろしてしばらく待つことにした。この周辺には餌を求めて人の側に寄ってくる野良の老猫がいる。それを相手に暇つぶしして、飽きたら書き置き残して帰ろうと考え付いたからだ。
 
「なぁ」
 
 短く野太い鳴き声が聞こえた。このふてぶてしい響きは間違いなくあの老猫だが、辺りを見回してもどこにもいない。それでも鳴き声は聞こえ続け、草むらに隠れているのかと僕は腰を上げて、猫の鳴き声を真似しながら近くを探し回る。草をかき分けては「なぁ」と鳴き、縁の下を覗いては「なぁ」と聞こえる。虱潰しに探しても見つけられず、これは狐狸に馬鹿されたか音の怪かと一人合点をしてもとの木陰に戻った時、視界の端で見つけたのは、屋根の上で座ってこちらを見下ろすあの老猫だった。
 
 猫といえども歳経たら妖怪になると言われる由縁が分かったような気がした。僕に気付かれると、興味を無くしたようにふいと裏山の茂みに顔を向ける。どうやら遊ばれていたのは僕のようで、いくら鳴き真似をしてもそれから一度も「なぁ」とは鳴いてくれなかった。
 
 
 
 自転車を漕ぎながらふと思う。まばらな人気に不思議な出来事の数々。日々に感じる何か大きな存在の呼吸。もしかしたらこの田舎町は人外の里であり、僕は夢と現の境を不用意にさまよっているのではないのかと。気付かぬうちに霧が立ちこめ、それが晴れる頃には辺りには魑魅魍魎が踊り百鬼が飛びまわる光景が広がる。そんな空想が妙に現実味を帯びるのだ。
 
 昼時にあった雲はいつの間にか頭上にまで勢力を増し、遠くで雨音を立てている。僕は自転車のギアを変えて速度を上げた。今日はせめてスーパーには行っておこうと思っていたのに、近付いてくる雨足に予定を変えて家路を急ぐことにした。結局今日は何もしていない。都会ではそんな日が殆どなく、最初は新鮮さを感じていた。
 田舎では何もない日が当たり前で、それに焦燥感を覚えることもない。だけど、そのゆったりとした時間の流れのおかげで、日常の些細な出来事や道端の隅っこに感動できる。やがて花をつけそうな紫陽花、足の生えてきたオタマジャクシ、ご飯が上手く炊けた事にささやかな喜びを感じることは僕の感性を研く事だと思うのだ。それを示すように、僕の作品に対する評価は以前より良くなった。まあ、知名度は相変わらず低いけど。
 
 ようやく帰宅し、冷蔵庫から麦茶を取り出したと同時に、家の周りを雨音が包み込む。一つの音に支配された、ある種の静寂は、家鳴の轟音を除けば大抵好きだ。畳の上に胡座をかいてぼうっとする。コップに入れた麦茶を一気に飲み干して大の字に転がる。出不精な僕だ。あんなに速く自転車を漕いだのは久し振りで、疲れてしまった。そういえば座敷童の足音が聞こえないなと思ったら、先程から部屋の隅でじっとしていたようだ。そちらに向かって声をかけると、重く返事が返ってきた。
 
「人がきた。嫌な奴がきた。不気味な奴がきた。凶事なり、凶事なり」
 
 普段はあまり喋らない座敷童が、何度もそう繰り返す。一瞬にして部屋は異質な雰囲気を漂わせ、僕の背筋にぞわりと悪寒が走る。留守中に誰かが訪ねてきたのだろうか? それともこれから起こる事を予言したのだろうか。いいようのない不安が雲のように僕の胸で広がる。その日、雨は夜遅くまで地を強く打っていた。
 
 
 
 
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