携帯電話のアドレス帳を開いて、一つ一つの名前と記憶を辿ってみる。高校時代の旧友や仕事でお世話になった方々。中には随分と嫌な性格をした人もいた。まだ都会で暮らしていた時の元彼女なんて縁起でもないのもある。
そうして、しきりに降り続く雨の暇つぶしをしていたら、急に携帯が震えて着信を知らせる。普段からマナーモードにしているのは、ふと気の抜けた瞬間に限って誰かしら電話を寄越してくるものだから、驚き疲れてしまったせいだ。
画面には山下春樹という文字が浮かぶ。僕が在籍している蓮明の、一言でいえば担当営業マンだ。口調や態度は冷たい印象を与えるのに時折、突飛なことを真面目な顔で言ってみせる。
「そちらは如何ですか? 相変わらず私は忙しいのですが、佐久間さんものんびりやってらっしゃる?」
通話ボタンを押すと同時に携帯電話からハキハキした声が聴こえた。どうやら、自分が企画した新進気鋭の画家達による共同展の準備に追われているらしい。画家の名前は、変わり者とか奇人と呼ばれている人物ばかりで、トラブルが絶えず付いてまわると山下は愚痴をこぼす。
「偏屈で頑固な抽象画家が勝手に共同展を降板したり、いきなりコンセプトを変えようとか言い出したり、もう沢山です」
愚痴や鬱憤を半ば聞き流しながら雨に煙る木々に目をやる。こっちに休みに来たらどうですか? なんて言ってもこの営業マンは老後に行きたいと返すだろう。僕と歳が近くて性格が対照的な山下の声を聴いていると、自分が人一倍老けてるように感じてしまう。
「ああ、そういえば」
ふと、山下の喋り調子が変わった。少し改まったように話し始める。
「禄風荘をご存知ですか?」
「それって同じ県内の、ちょっと前に出火した……」
「ええ、座敷童の居る宿として有名な」
その言葉に妙な引っ掛かりを覚えたが、続きを促す。家の中がしんと静まり返っているのは、聞き耳を立てているからだろうか。
「あの旅館に供えられた人形の一つがウチと少し関連がありまして。担当者が調査に行ったところ、出火の数週間前から不審な人物があの周辺で目撃されていたらしく……」
何より、家筋に憑くはずの座敷童が消えていたのが解せないという。繁栄を願い呪うのなら、出火も運良くボヤ騒ぎで済むのが道理らしい。
「それに、家筋が途絶えても存在し続ける座敷童がいるのに、家筋を残して座敷童が消えるというのも可笑しな話です」
蓮明はこの事に関して事件性を感じているという。全焼によって呪詛の基盤が崩れ、座敷童が消失したという可能性もあるが。
「空き巣や詐欺に注意するのと一緒です。不穏な影があるなら警戒しておく。備えあれば憂いなし」
あくまで私達は芸術家や工芸家の味方であり、探偵でも警察でもないですから。些細なことでも御一報頂けますよう。
それを最後に電話は切れた。
つまり、座敷童に関係してとばっちりを食らうかもしれないという事だ。まあ、この家は知名度も無いし、あれが既に座敷童と呼べるものかも分からない。
降る雨はしとどになり、時刻もやがて夜を迎える。そろそろ晩ご飯にでもしようかと思った矢先。
来客を知らせる玄関のチャイムに、座敷童が過剰な反応をした。
「奴が来た、奴が来た」
同じ言葉を繰り返しながら、子供が飛び跳ねるような音が響く。奴とはこの前僕が留守にしている時に来た人の事だろう。家の中に緊張感が、紙に水が染みるように広がって満たされていく。
もう一度、鳴らされたチャイムに耳鳴りがした。
襖や障子、引き戸という引き戸が乱暴に開かれ、一斉に、一息に閉じられた。そして緊張感と静寂に包まれた家は、日常から隔離された異界へと様変わりしていた。
玄関へと向かう。常に軋っていた廊下も無音になり、雨の音さえも閉ざされた静けさ。いまだに続く耳鳴り、汗がじっとりとまとわり付き気分が悪くなる。
ドアノブを回して開いた隙間から流れ込んでくる雨音と、一人の男の表情。
「佐久間さんですね。私共はこういう者です」
差し出された名刺には名前と電話番号のみ。
この家は電話帳に登録されていないし、地図にも空き家と記されている。無論表札も付けてない。この男は僕の名前をどうやって知ったのだろうか?
そして、さっき山下から電話で聞いた不審人物の情報と一致する服装。
狼狽える僕の隙をついて、男は無理矢理ドアを開き玄関の中へと入ってきた。