* * *
生まれ、堕ちた。
生まれ出場所は、選べない。
当然、自分の両親も選べない。
―――お前なんて、生まれてこなければ良かったんだ!
聞き慣れた、母親の言葉。
愛しくも卑しいその音色は、私の胸を良い意味でも悪い意味でも高鳴らさせた。
ドクドクと流れる血潮は生きている証だと思った。
生きてしまっている証だとも、思った。
母親から嫌われている。
望まれなかった子。
忌むべき産物。
それが私。
私だ。
自分は一般市民より若干恵まれない環境下に生まれた。
その事実は幼い頃から雰囲気で感じ取っていた。どうにかしてその劣悪な環境を打破したいとも、心の何処かで私は願っていた。
恵まれない環境に生まれ出でた場合、一体どうすれば改善されるのだろうか。
環境そのものを変えてしまえば良い。
否。そんな大掛かりな改変、力が無い子どもなどに出来る筈がない。
……ならば、どうすれば良い?
「嗚呼」私が辿り着いた答えは単純そのもの。「壊せば、良いのか」
『変えられないのならば根本から壊してしまえ』。
環境という現実を壊し、事実を無かったことにする。
実に単純な回答だった。
「『私』の存在は気持ち悪い」という母親の価値観を破壊してしまえば、母は私を疎まない筈だ。
「気持ち悪い」という価値観自体が壊れてしまえば、私を拒否する理由は恐らく無くなる筈だ。
破壊。
それだけが唯一の解決策だと、当時の私は純粋に信じていた。
当時の私は、神に祈るようにその解決策にすがり付くしかなかったのだ。
欲は言わない。
愛してくれとは言わない。
ただ見てくれれば良かった。
何も高レヴェルな要求はしていない。
ただただ、自分の姿を瞳に映してほしかった。
その瞳を私の姿で、満たして欲しかった。例えその両目に感情が灯らなくとも、見てくれさえすればそれで良かった。
視線を奪ってしまえ。
視線を奪う為に、襲ってしまえ。
そんな自棄を起こそうと考えたのは、一体何時のことだったか。
そんな破壊衝動を起こそうと考えたのは、一体何時のことだったか。
もう昔のことすぎて、覚えていない。
「……かあ、さん」
寝ている母親を起こさぬよう、彼女の首筋にそっと腕を伸ばす。そしてその両腕に、私は全身全霊の力を込め、首を絞めた。
その後の出来事については、何も語るまい。完全に出来心だった。全て欲望を吐き出した。単純な破壊衝動だった。最早自棄だった。
自棄を起こしたその時間、確かに母親は私だけを見ていた。彼女の瞳には私の姿しか映っていなかった。それが素直に嬉しかった。
幸せかどうかは分からなかったが、心が満たされていく心地がした。
産まれて初めて、自分がこの世に生きている理由を得た気さえした。
産まれて初めて得た、感覚だった。
私は初めて得たその快楽に浸るあまり、油断してしまっていたのだ。
嬉しさに満たされた私を一瞥するや否や、母親は私の腕を噛み、振りほどく。驚く私を尻目に、彼女は命からがらベランダに出た。
そして、私を睨み付け、淡々と言葉を投げつける。
「……気持ち悪い」
それは呪いの言葉。
そして、その言葉に続く動きは緩やかで。
ベランダの手すりに乗り、流れに身を任せて飛び降りて墜落するまで。
全てがスローモーションだった。
こうして、母親は私に呪いの言葉を残し、私の目の前で死んだのだ。
*
視線を奪ってしまえ。
視線を奪う為に、襲ってしまえ。
……その行為が自棄だと気付いたのは、何時なのだろう。
「襲う」という行為と「自棄」を繋ぎ合わせて考えられるようになったのは何時だろう。
そのように考えられるようになったのは、自分がある程度正常になりつつあるからなのだろうか。
やはり、新たな人との付き合いが関係しているのだろうか。
私には分からない。
* * *
「……セイキ、起きてるか?」
勤務中の休憩時間。
そこで私は、上司に声をかけられ飛び起きた。
随分と嫌な夢を見てしまった。額が嫌になるほどじっとりと濡れている。
ましてや上司に起こされるとは太刀が悪い。更に嫌な気分になってしまった。
上司の声は悪夢以上に私の気分を害するものなのだな、と冗談を言ってみる。
あくまでも冗談だ……そのつもりだ。
「……ええ、起きていますよ」
「良かった。調子崩したんじゃないかと心配してたんだぞ」
機械的に微笑む上司に対し、私もハハハと表面上で笑んでみる。
無表情に笑んだ表情の下では、無性に胸がざわついていた。精神に波が立ったようで、どうも落ち着かない。
それもこれも、皆、あの夢の所為だ。
―――気持ち悪い。
「っ……」
呪いの言葉が、感情が、私を締め上げる。
忘れていた筈なのに、このようなふとした瞬間に前触れもなく思い出す。
どうして思い出してしまうのか、何故思い出す瞬間を選べないのか。
それを考えると無性に苛々した。
トラウマというものがこの世に存在しているあたり、この世界に神はいないのだろう。
そんなことを改めて痛感する。
「今は……12時40分、ですか?」
私は顔を上げ、壁にかかった時計を見た。意味は無いがポツリとそこに記された時間を読む。休み時間の終了まで、あと10分はあった。
「応。寝惚け眼擦って、そろそろ準備しておけよ」
上司の軽口な指示をバックグラウンドミュージックにし、私は覚束無い足取りで勤務先共用の公衆電話の前に立つ。残りの10分を有効に使いたかった。
私は公衆電話に10円玉を投下し、とある携帯の番号を押した。
私の唯一である友人の電話番号だ。
ツーツーピッ。
ツーコールの後、「ピッ」という実に機械的で淡白な音が聞こえる。
相手と通話が繋がったことを確認し、私は口を開いた。
「……もしもし」
『嗚呼、トマトさん。お久し振りです。どうした……どうしました?』
「……セイキ、ですよ」
『あ、そうだったでしたっけ』
私を相変わらず「トマトさん」と呼ぶ友人は、私の声を確認するや朗らかにそう言った。
友人が私のことを「トマトさん」と呼ぶのも、私が「セイキ、ですよ」と返すのも、いつものパターンだった。
友人の名は「独谷圭吾(ドクタニケイゴ)」と言う。私の勤務先付近の大学に通う、しがない院生だ。
彼とは奇妙な出会いから知り合った仲である。しかし、とても馬が合い、今の付き合いに至っている。
私も人のことは言えないが、彼自体も非常に奇妙な人間だ。
その奇妙さたるや、彼の存在を題材に何か一本論文や小説が書けそうな勢いがある。
「唐突なお誘いで申し訳ないのですが、今日、一緒に飲みませんか?」果たして私は自然な感じで友人を誘えたのだろうか。暫く飲み会とは離れた生活をしてきた為、いまいち分からない。「奢りますので」
『へ……?』間抜けな声が、耳元で響く。何も知らない友人にとても相応しい声色だと、私は笑わずにいられなかった。『うん。ボクは良いっす、けど?』
「では、19時より、いつもの店でお待ちしています」
『え、そんな! いきなり過―――』
ブツッ。
私は乱暴に、しかし気付かれないよう電話を切った。このまま電話を続けていたら、余計なことまで口走ってしまいそうな気がした為だ。話題は飲みの時までとっておかなければ詰まらない。
自覚出来る程、自分は苛立っている。
誰かに何かを話したい、と珍しく思った。「何か」が何であるのかは分からないが、その「何か」を話さなければこの苛立ちは落ち着くことは無いのだろうとも思った。
「準備……って、飲みかよ」と上司は笑い、「ええ」と私は笑えなかった。
* * *
予定していた19時。
平日だからかどうかは分からないが、私が指定した店の周辺は不気味なほど静まりかえっていた。
そんな店の入口の前で、彼は私のことを待っていた。
「突然呼び出してしまってすみませんね、『独谷』さん」
「いえいえ。僕も久し振りに飲みたかったんですよ、お酒」
「……。それならば良かった」
一種の確認作業をした私は、彼を連れて店内に入る。
「博士論文の方はどうですか」「いや、レフェリーに努力は認められたものの、やっぱり突き返されてしまって……」などと他愛もない話をして、私たちは個室を意識出来るいつもの席に移動した。
席につくや直ぐに、店員が「ご注文は?」と訊ねてくる。
「では、オリジナルカクテルの『ツインズ』を。あと、フライドポテトと枝豆を頼めますか?」と私は酒とつまみを頼み、「あ、僕もそれでお願いします」と彼もつられるように注文をした。
注文後、私たちは他愛のない話をまた始める。会話に意味は無い。只の時間潰しにすぎない。
「あ、でも、データを集めた努力は認められたんですよ」
「ほう」
「もっと丁寧に纏めてくれば、雑誌投稿を認めてくれるみたいです」
「それは良い話ですね。是非とも頑張ってくださいね」
「うん。僕、頑張ります」
そんな他愛も無い話で盛り上がっていると「失礼します。此方カクテルの『ツインズ』とポテトになります」と、これまた他愛の無い声が私たちの会話を裂く。目の前にカクテルとフライドポテトが置かれた。
私たちはお互いが求める酒とつまみに手を伸ばす。
「そう言えば」ポテトを食みながら、ふと思い出したかのように彼は言った。「電話したときから思ってたんですが……トマトさん、若干苛ついてなかったですか?」
私自信は感情を抑えていたつもりだったのだが、どうやら、出来ていなかったらしい。
「何を突然言い出すかと思えば……」
軽口に聞こえるように、私は言葉を吐く。
「上手く言えないけど……何かを溜めてる感じがします」
そんな芝居など見透かしているとでも言いたげに、目の前の男性はそう言った。
全てを見透かす彼女なら未だしも、真実から目を背けるタイプの人間である彼(本人に自覚は無いが)にそんなことを指摘されてしまうとは屈辱的だ。
見透かされてしまったのは私が未熟だからか。
それとも、感情的な彼女に毒されてきたからか。
「そんなこと」いつもならば流れるように言える言葉が途切れてしまう。どうやら私は、想像以上に彼の言葉に動揺しているらしい。「ありませんよ」
「そうですか?」と、目の前にいる男がまるで幼児に訊ねるような声で私に言う。
その言葉を聞き、背中が一気に冷えた気がした。
嗚呼。
この然り気無い気遣いは、非常にあざとい。
だからこそ、彼は……友人になり得たのか。
「ククク……」
彼のあざとさを笑いつつ、私は動揺を隠す為に、彼の前で強めの酒を一気に飲み干す。
「嗚呼、まだ乾杯してないのに! 酷いですよ、トマトさん」と目の前で抗議の声が上がるが、私は気にしなかった。
飲み会は未だ始まったばかりだ。
→
*
「トマトさん、今日はハイペースに飲みますね」
彼に指摘され、私は初めて気が付いた。
空腹は全く感じない。喉の渇きも感じていない。
しかし、気がつけば私は又一杯、又一杯、酒を飲んでいた。
酒を消費するペースが異様に早いのは、酔いたいからか、それともただの自棄か。
「実は今日、貴方を飲みに誘ったのは、愛について語り合いたかった為なのですよ」
「へぇ。意外とロマンチストなんですね、トマトさん」
「……貴方は『愛が欲しくて堪らない』と思うと同時に『愛が鬱陶しい』と感じることがありませんか?」
嗚呼、認めよう。これは自棄だ。
自棄になり、思わず変なことを訊ねてしまった。
……よりにもよって、彼に訊ねてしまった。
「愛かー、欲しいですね」
そんな軽口の後、考える素振りを見せ、私の目の前にいる彼は黙りとする。
数秒、いや数分は悩んだであろう後、彼はその重々しい口を開いた。
「鬱陶しい、とまではいかないですけど、突き放したいと思ったことなら」
「ほう。貴方もそう考えることがあるとは意外です」
「渇望はしますけど、そんなの自分の我が儘っていうか傲慢じゃないですか。『自分の欲求を満たしたいから愛が欲しい』……って考えると、何だか萎えません?」
「成る程」
「欲求と罪悪感とが混ざりあって、何て言うか……気持ち悪いって言うか」
「気持ち悪い……ですか」
―――気持ち悪い。
目を閉じ、私はその単語を反芻する。
かあさん。
私は貴女のことが好きでした。
貴女を自分に夢中にさせたくなる程、好きでした。
同時に、大嫌いでした。
貴女を監禁し襲いたくなる程、嫌いでした。
好きでした。嫌いでした。
求めました。突き放しました。
この混ざる感情が、私は、いや、当時の僕は嫌で仕方無くて。
嫌で嫌で、故に判断を誤り、貴女を壊した訳なのですが。
やはり私は我が儘なのでしょうか───。
今の私には、分からない。
恐らく一生分からないのだと思う。
「……愛を求めるのも突き放したくなるのも、結局は我が儘なのですかね」
ぽつり、ぽつりと私は呟く。
何を思ったのか、相手も「……自己完結出来れば、それで良い気がするけど」と一言呟いた。
「その自己完結も所詮は自己満足で、我が儘以外の何物でもないのですがね」と私は問い掛け、「違いねぇや」と彼は自然に頷く。
それ以降、この話題は続きはしなかった。
*
「最近、色々と混乱することが多くて悩みます。彼女と居ると心地が良いのですが、同時に気持ちが悪くもなります」
気がつけば、私は彼に愚痴を漏らしていた。
いや、愚痴なのかどうか怪しいものだ。自分が理解出来ていない感情を相手に吐露しようと、私は必死だった。
「僕の方は最近『親友』が冷たいんですよ。全然、音沙汰が無いんです。前はしつこいくらいだったのに、いざ無くなると寂しいっていうか。そこも自己完結出来れば楽なんですかねー」
相手も何かとあるらしい。
彼の「親友」に対する愚痴だとか、論文に対する愚痴だとか、そのようなことを言っていたような気がする。
「……私が言えた台詞ではありませんが、貴方もよく生きてますよね」
残念ながら、感情に酔う私の頭に彼の愚痴は入ってこなかった。
しかし、この台詞だけは確実に言えた。確実に伝えなければならない言葉だと、私は思った。
「はい?」と首を傾ける彼を見、私は笑いを殺しつつ、また一杯、酒を飲み込んだ。
恐らく彼は私の言葉の意味も、はたまた押し殺した笑いの意味も、最早根本的な事実にも気付いていないのだろう。根拠は無いが、そう思う。
*
愉しい時間はあっという間に過ぎていく。
そうこうしているうちに別れる時間が訪れた。
「では、お元気で」
「トマトさんもお元気で……あ、また何か機会があったら呼んでください。また飲みましょう?」
そんな軽口を交わし、彼と別れる。帰るべき方向を違えている為、互いの距離は広がっていく。
歩く中途で、ふと私は立ち止まる。
振り返り、彼の背中越しに声をかけた。
「───お互い難儀な感情を持っていますね……『ヒツメ』さん?」
彼は振り向かない。
聞こえていないのかそれとも聞こえていないふりをしているのか、私には判断出来そうにもない。その辺りは担当医師に任せるべきなのだろう。
私の声は「彼」に届かない。
無論、「彼」を「彼ら」に言い換えたとしても届かないのだろう。
「ククク……」
それが愉快で、思わず笑ってしまった。
他人の不幸を愉しんでいる辺り、私は未々狂った存在なのだろう。
やはり「彼」は最高の友人だった。
奇怪な存在であるからこそ、彼は私の友人になり得たのかもしれない。
* * *
「あ、キヨキヨ。おかえりー」
アパートに帰るや否や、早々彼女が出迎える。
酒でふらつく足を正し「只今帰りました」と、なるべく平静を装って私は答えた。酒の所為かどうかは知らないが、心臓が激しく鼓動している。
「うわ、べろんべろんだ。大丈夫? 歩ける?」
彼女は私が泥酔していることを察すると、直ぐ様私の身体を支える為に近付いてきた。
彼女が私の脇の下に腕を伸ばす。一回りは違う互いの体格差故にどうしても彼女が私を抱き締める形になってしまう。
文字通り、絶対密度の愛情。
慣れない愛に私の胸は鬱ぐ。
気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ち悪い。
頭の中に響くアラート音が、限界を訴えている。
止めてくれ。止めてくれ止めてくれ!
何故こんな不安定な日に限って、私に接近してくるのだ!
慣れない。
そんなこと、しなくていい。
ただ見てさえしてくれれば、私は満足出来るのに。
愛に慣れない私は、誰かと深く接するのが苦手だ。故に、目線が合った時に軽い言葉を囁かれるだけでもう十分だ。
現実味のある愛は苦手だ。自分が壊れてしまいそうだ。
壊れる。軋む。歪む。
頼むから、離れろ───!
やはり愛と言うのは重すぎる。故に遠ざけたくなる。
しかし、遠ざけると貪欲に求めてしまうあたり太刀が悪い。
矛盾が気持ち悪い。
矛盾が気持ち悪いから、愛は要らない?
兎に角気持ち悪くなる。打ち消したい。
視界を彼女で一杯にしたくて、仕方無かった。
同時に彼女を遠ざけたくて、仕方無かった。
この矛盾は何だ。この気持ちの悪い感情は何だ。
そんな矛盾、壊してしまえ。
これは、私の我が儘だ。
「……」
私は彼女に向かって、右手を伸ばす。
そして握りつぶすかのように彼女の首を掴み取ると、彼女は潰れた蛙のような声を上げた。
苦しむ姿がよく見えように首を掴んだ右手で彼女を乱暴に引き寄せた。
私は苦しむ彼女の顎に指をかけ、顔を近付ける。そうして彼女の顔をまじまじと見つめる。私の視界には、苦しげな表情の彼女しか映っていない。
「ん……、ど、したの。キヨキヨ?」
私の胸を焦がすような彼女の声が耳に届く。苦しい筈であるのに、その声は通常と何ら変わりない。
少しだけ、手の力が弛んだ気がした。
私たちは互いを瞳の中に映し、その奥底を映しあう。彼女の瞳には、私の姿はどのように映っているのだろう。
「痛いなぁ、もう。暴力、はんたーい」
滾る。
私は衝動的に彼女の身体の上にのしかかった。そして噛みきる口付けを彼女に与えた。極めて単純な作業だ。
プツリ、と薄い膜が破れた感覚を味わう。鉄分の臭いが私の鼻腔を擽る。彼女から放たれる鉄分の味が美味しい。味を認知した部位から舌が痺れていく。まるで媚薬のようだと感じた。
口を離すと、彼女は恍惚とした笑みで「キヨキヨ、好きー」と息絶え絶えに伝えてきた。彼女が私をどのように認識しているのか、私には理解出来なかった。
考えていた以上に血液が溢れ出してしまった。彼女から溢れ出る血液を、一滴も逃さぬように舐めとることに必死になる。
彼女は私を否定しない。
私に好意しか向けない。
「いきなり襲いかかってくるとか……トラップ、みたいな?」
「……貴女には敵いませんね」
私はそう呟くと、自身の手を彼女の頬へ滑らせた。
彼女は、と言えば、必死に腕を伸ばし、私の頭を撫でようとしている。
私が自棄をおこせば、彼女は直ぐに甘やかしてくれる。それが嬉しい。
……嬉しい?
……嬉しい、のだろうか?
脳に浮かんだ言葉に困惑する。
それに対してかどうかは分からないが、彼女は小さな笑いを浮かべた。
そして、何も言わずに私の腹部に顔を埋める。
それは包容と言うべき彼女の愛の形だ。
「そんな素直な君が好きだよ、キヨキヨ」
私を抱き締める彼女。「ぎうー」と特有の擬音語を上げる彼女。噎せかえりそうな好意を、彼女は私に注ぐ。私は彼女に負け、身体を預けた。
抱き締められながら、思う。
嗚呼、重い。
彼女の愛は重すぎるのだ。一般の人間ならば押し潰されてしまうことだろう。
狂った私だからこそ、その重苦しい愛が心地好いと感じてしまうのだろう。
認めよう。根底では貪欲に愛を求めている。
恐らくは素直になれないだけなのだ。
素直になれないのは強迫観念故だ。
彼女が私をここまで重く愛すことも、何らかの強迫観念……トラウマ故であるのかもしれない。
彼女の抱えるものを、私は知らない。何時か知れる時が来るのだろうか。
「……本当、貴女は可愛いですね」
「んー?」
彼女を抱き寄せて、額に軽く口付けた。額だけでは飽きたらず、次第に頬や首筋に乾いた唇を降らせる形になる。
その快楽に耐えて彼女が震えている姿がとても愛しい。思わず笑ってしまいそうになるのを、私は必死に堪えた。
「仕返しだー」
唐突に彼女の爪が私の頬を削る。恐らく赤い痕が私の頬には付いていることだろう。
程度の差はあれど、彼女も私に物理的な傷をつける。そして、流れるようにその傷を舐めとった。どうやら私の真似をしているらしい。その姿が酷く愛しい。
彼女に物理的な傷が舐めとられていくたびに、自身の精神な傷も共に舐めとられていくような錯覚を起こした。
傷を舐め合う、二人。
ずっとこうしていたい。
そんな言葉は戯言だ。
彼女が愛しい。
その言葉も恐らくは私の我が儘で、結局は戯言でしかないのだろう。
「……玄関にずっと居るのも可笑しな話ですし、リビングにでも移動しましょうか」と、服を乱した彼女を起立させ、私は笑う。
「そうだね。キヨキヨもべろんべろんだし、ソファでゆっくり休むと良いよ」と、彼女もつられて笑った。
彼女の肩を抱いて、私は歩く。
玄関からリビングまでの道程は短い。
しかし、その道程はまるで人生に似た永遠にも感じられた。
私は一体何処に辿り着くのだろうか。
壊れた彼女と二人、共に肩を並べて。
互いに何かに縛られて生きている。
互いにトラウマに縛られて生きている。
互いに相手のトラウマを利用し、それによって自分のトラウマを癒す。
これも、ある一つの愛の形、なのだろうか。
私には分からない。
* * *
狂った私と壊れた彼女。
破壊衝動しか向けられない私と、愛しか向けられない彼女。
甘く歪んだ愛の中に、私たちは幸せを感じている。
『ある1つの愛の形』
(過去に囚われた、愚かな者たち)
(本当はもっと艶かしくしたかったの)