それは、ある冬の夜のことだった。
「―――――。」
何事かを呟き、私はリビングのソファに豪快に腰掛けた。疲労が蓄積した身体をソファに預ける。所々草臥れた綿に身体が沈む感覚が心地好い。
窓から空を眺めると、そこには雲一つない夜空が存在していた。楕円形の月と多数の星が瞬いており、まるで写真のように美しい。
少しばかり感動した。「まぁ……」などと、久し振りに声を漏らした程だ。
感動を覚えた自分に対して気持ち悪い違和感を感じたが、気にしないことにする。
どうやら、私は随分彼女に毒されているらしい。
以前の私では星空に感動を覚えることなど決して考えられなかっただろう。
多数存在する星の中に、一際輝く一等星がいた。暗闇の中に瞬くその一等星は月よりも明瞭な光を発している。
面積こそ広いが輪郭をぼやかして光る月よりも、小さくも鋭く光る一等星の方が目立っていてとても魅力的だと、私は思った。
夜空を観ていると、頭上から「キヨキヨ」と私を呼ぶ声が降ってきた。
この透き通る柔らかな声は彼女のものだ。
私は目線を動かすことなく「おや、貴女ですか」と、過度でも冷血でも無い、質素な反応をする。彼女はそれ以上何も言わず、私が横たわっているソファにちょこんと座った。ちょうど私の腹部辺りの位置だ。ソファの大半を私の身体が占めていた為、彼女がしっかりと座れていないことは明白だった。
「嗚呼、すみません。避けますね」と私は起き上がろうとする。
すると彼女は「いや、そのままで良いよ」と、にこやかに笑った。
彼女の言葉に従い、私は再び寝転がり、そして、そのまま二人で夜空を眺めた。
「今日は満月なんだね」
彼女が感動の声を上げる。
「ほはー」等と彼女独特の感嘆詞を漏らすその姿に、私は小さく苦笑した。発した言葉は違えども私と同じ反応をしていたことが愉快で仕方無かった。
私は「そうですね」と彼女の言葉に返答する。正確には満月では無かったのだが、草臥れた今の身体ではそれを説明するのが少々面倒臭かった。
その当たり障りの無い反応が少し不満だったのか「ん?」と彼女が私の目を覗き込んできた。
その目は何かを求める子どものように、純粋なものだ。
「ハハハ」
その目を見、私は苦笑する。
私は無言のまま、ゆっくりと腕を伸ばして彼女の頭に右手を乗せる。
そして彼女の要望に応えるべく、彼女の頭をクシャクシャと撫でた。
どうやら彼女はそれだけで満足したらしく、見ただけで気持ちが良くなる程に顔を綻ばせていた。「えへへー」だとか「うふふー」だとか、本当に幸せそうに笑っている。
優越感で満たされたその顔を見、私は更に苦笑した。
「貴女は単純ですね」
「え、何それ?私を馬鹿にしてるの?」
頬を膨らませて、不服そうにする彼女。コロコロと感情が変わる様は、見ていてとても面白い。
素直に感情を表現する様は純粋そのもので、とても愛くるしいことのように思えた。
自分の手で壊してしまいたくなる程、愛くるしい。
綺麗なものは破壊したくなる。
彼女の顔が歪むのを想像するだけで、心が躍る。
自分の手で彼女を壊せたならば、どれほどの快感が得られるのだろう?
壊せたならば、どれほどの達成感が得られるのだろう?
「……いえいえ」
はしたないことを考えてしまった自分自身に対し、内心反省をしつつ「馬鹿になどしていませんよ」と私は発する。
私から出てきた言葉は平坦で、起伏が無かった。表面だけを取り繕った声はまるで機械音声のようだ。やはり、狂気とも取れそうな至福の感情を無理矢理に隠そうとしたのが悪かったのだろうか。
「じゃあ、何で笑ってるの?」
彼女が私の目を抉るように覗き込む。
私の目を見、彼女ははにかんでいる。
私と言えば、彼女に見られている喜びを噛み締めていた。
彼女の視線、表情。意識をすると胸が高鳴り、自分には未だ血潮が流れていることを感じる。
私は未だ生きている。それを感じ、少し気持ちが悪くなった。
彼女の視線に悦びを感じてしまう私は、未々不完全な人間なのだろう。
「それは―――」
彼女の答えようと言葉を発して、一瞬、言葉が止まった。
私は、この言葉に続けて一体何を言おうとしたのだろう。
「それは」再び、呟く。胸の鼓動に身を任せて、何か要らぬことまで言ってしまいそうだった気がする。自分のことだと言うのに、何を言おうとしたのか私には分からない。全く、私らしくもない。
数秒間を置いて、私は言葉を発した。「……貴女の素直な反応が羨ましいだけです」
「えー?キヨキヨも十分に素直じゃないの?」
「だって『あの日』の行動力とか、ねぇ?」と朗らかな声で更に彼女は私を見つめ、攻める。
その視線に、表面だけ取り繕った私の感情が抉られる。
いや、この感覚は剥ぎ取られると言った方が正しい。
作り物の「私」を剥ぎ取られ、私は焦る。その単純かつ純粋な視線に、私が勝てるわけがない。汚れている私など、純粋な彼女に敵う筈がない。
事ある毎に彼女を力で征してはいるが、何だかんだで私は重要なところで彼女に勝てないのだろう。
最終的に優位な立場にあるのは私ではなく彼女だ。その視線の所為で、私は肝心な部分で嘘を吐けないでしまう。
そして、私は何も反論出来ないまま終わる。
近い将来、私は妻の尻に敷かれる典型的な夫にでもなるのだろう。
それは酷く滑稽な姿だと思った。
「……『私』の時点で、私は素直ではないですよ」
いや、今の時点で十分滑稽か。
言葉の続きを発して、そう思う。
「ふむ?」と疑問の声を上げて、彼女が更に私の目を見つめ直す。そのたびに私の心は抉れた。
全てを晒してしまうその視線に、私は発狂してしまいそうだった。
彼女。
初めて、私を見てくれた女性。
彼女は私を見てくれている。
しっかりと私を見てくれる。
これは、過去の私が努力した結果なのか。
それとも、過去の行動は関係無いのか。
「……」
私は無言で彼女から目を反らし、再び空を見た。
姿形だけでは周りに埋もれてしまう星も、各々が反射する光の強さで個性を保てている。
しかし、そこには努力がない。
努力も無しに目立っているのだと思うと、先程まで魅力的に見えていた星が途端に濁ったように思えた。
無機物に対して努力などと考えている私は、酷く滑稽なのだろう。実に馬鹿で、愚かな行為だ。
「……キヨキヨ?どうしたの?物凄く深刻な顔をしてるよ」
酷く甘く、しかし細い声で彼女が私に訊ねる。
「嗚呼、何でもありませんよ?」
私は無機質な声で返事をすると、上半身を起こしそのまま彼女の隣に座った。
そして、きょとんとする彼女に近付き、正面から向き合う。
相変わらず私を見つめてくる彼女。
このような私を見てくれる彼女。
私が何をしても反抗せず受け止める彼女。
これだから、駄目なのだ。
高ぶる感情が、気持ち悪い。罪悪感と混じり、気持ち悪い。
彼女と真っ直ぐ見つめあうことは正直恥ずかしい。
しかし、今は恥ずかしさよりも気持ちの悪さの方が勝っていた。
僅かに残る恥ずかしさを圧殺し、自身の右手を回して彼女の右肩へ、左手を彼女の殿部へと配置する。
腕に力を入れ、彼女を抱き締める形になると、そのまま私は立ち上がった。
つまりは、抱っこだ。
「わっ!……き、キヨキヨ?」
「暴れないで下さい。暴れられると落としますから」
「え……えぇ?」口をパクパクとさせて狼狽する彼女。狼狽しても尚、暴れず、かつ、私を見つめ続ける姿は流石彼女と言うべきだろう。「わ、訳が分からないよ!一体君は何をしてるか理解してるの?ドゥーユーアンダースタンド?」
「抱っこしてます。そして、貴女を寝室に運びます」
理解はしている。
自分自身の行動の意味は、理解しているつもりだ。
「いや、そんな反応を求めてるんじゃなくて……」
「また、明日」有無を言わさぬ静かな声を、私は無理矢理に吐き出した。彼女に反応の余地を与えないよう、再び強めに、まるで記号のような言葉を吐く。「明日、また貴女のお相手をしますから」
何かを察したのか、彼女は「うん、分かった」と静かに囁いた。
囁いて、それっきりだった。
そのまま大人しく私に寝室へと運ばれる。
彼女は少し寂しそうであったが、今の私には何も言えなかった。
今の私には、余裕が無かった。一刻も早く彼女を遠ざけてしまいたかった。
余裕があれば、私は彼女に何か優しい言葉をかけられたのだろうか?
何か、何か、別な行動が、取れなかっただろうか?
私には分からなかった。
* * *
彼女をベッドに運ぶや直ぐに、私は彼女を寝かしつけた。
私の行動に対して彼女と言えば最初は驚いていたが、暫く経つと「ありがと、キヨキヨ」と静かに目を閉じ、そのままあっさりと眠りに着いた。
この適応力の高さは流石彼女と言うべきか。
私は、と言えば、無言のままただ彼女を見つめていた。
規則正しい寝息を立てる彼女の横顔は幸せそうで、私とは別次元の人間のように思えた。
「私……ねぇ」
眠っている彼女を見つめつつ、私は静かに呟いた。
数秒後、試しに「これでも、昔は『俺』だなんて言っていたんですよ」と呟く。違和感が有りすぎて気持ちが悪かった。
気持ち悪くて思わず「ハハハハハ」と苦笑してしまった程だ。過去に使っていた一人称だと言うのに何故此処まで気持ちが悪いのだろう。昔は「私」と呼ぶ方が、余程気持ち悪かった筈だが。
「……」
彼女からの反応は何も無かった。どうやら爆睡しているらしい。
その無防備な姿に、呆れを通り越して失笑してしまった。
私という人間を目の前にして、よくもまぁ、安心して寝れるものだ。
私はいつ暴走しまうか、分からないと言うのに。
これは彼女が無神経なだけなのか。
それとも、それだけ私を信頼しているということなのか。
「……はぁ」
大袈裟な溜め息を吐きつつ、私は目を瞑る。
そして、思い出す。
『……』
口を開かなければ素敵な母親。
『お前なんて産まれてこなければ良かったんだ!』
私を疎んでいた母親。
『触らないでよ、気持ち悪い』
私に触れられなかった母親。
『嗚呼、もう気持ち悪い。キモチワルイ……!』
反抗と拒絶を繰り返す母親。
更に思い出す。
『出来損ないなら、完璧になれば良い』
努力した私。
『僕のことが殺せないのは、本当は僕のことを愛してくれているからだ!』
自身に嘘を吐いた私。
『手に入らなければ、奪えば良い』
結果的に我慢できなかった私。
『俺は何も、悪く……ない』
そして、行動に移した私。
気持ちが悪くなる、記憶だ。
しかし、良い思い出だ。
ゆっくりと目を開け、私は穏やかに眠る彼女の姿を見つめた。
彼女は何にも怯えることなく怖れることもなく、安らかに眠っている。
『キヨキヨのことが好きだからに決まってんじゃん』
私が何をしようとも許してくれる彼女。
『キヨキヨ!』
相変わらず無邪気な笑顔を向けてくれる彼女。
『キヨキヨ、愛してるんだぜ』
私を絶対に拒絶しない彼女。
彼女の顔が、表情が、走馬灯のように脳髄へ流れ込んだ。
彼女が私に向けてくる「それ」は絶対的な愛情でもあり、しかし、何処か壊れている。
私はそれを重々承知している。
だからこそ私は彼女の傍に居られるのだと、自己分析をした。
「たまには私に反抗して下さい。愉しく……ない」
彼女の耳元で、聞こえぬように呟く。
愉しい、と呟き、疑問が生じた。
彼女に反抗されることが、果たして私にとっての愉しみになるのだろうか?
否。
母親だからこそ、抵抗されることが愉しかったのだろう。
母親の拒絶が強かったからこそ、あの服従関係を覆したことに私の支配欲は満たされたのではないのか……と再度自己分析を試みる。
関係を覆しても、そこに愛は無い。存在したのは、拒絶の視線だけだ。
それでも、愉しい記憶として認識されてしまうのは何故だろう。
複雑な心境のまま、私は眠る彼女の姿を見つめた。
今現在、私は彼女の無垢で無知な純粋さに呆れを通り越して感服している。
感服し尊敬しているが故に、彼女には絶対勝てないと思っている。
だからこそ、その関係を壊したときの喜びはきっと計り知れないだろう。
彼女の歪みとも言えるであろう、その純粋さを覆したとき、私はどうなってしまうのだろう。
その結果が楽しみだからこそ、恐らく私は彼女を壊してしまいたくなる衝動に駆られてしまうのではないのか。
その関係を壊しても、そこに愛は無いというのに。
孤高の母親には、屈伏を。
従順な彼女には、虐使を。
―――そのような事を考えている私は、酷く傲慢だ。
欲を満たすだけの存在として女性をひとくくりに見ているだけで、そこに個性は存在しない。愛も無い。
そこにあるのは、ただの支配欲だけだ。
「×××××」
誰に告げるでもなく、先に声が出た。
それは懺悔の言葉か、諦めの言葉か。
私の声は、彼女には聞こえていない。
*
不完全な恋愛。
不完全な、私。
努力をしても、報われないものがある。
努力して我慢をしても、何時かは限界が来、崩れ去る。
私は私のままでいられるだろうか。
昔のように暴発してしまわないだろうか。
「……貴女は、何も知らなくて良い」
静かに呟いた私の顔に、果たして表情は宿っていたのかどうか。
凶悪な……否、狂悪な顔になっていなかっただろうか。
私は無言のまま、彼女に背を向けて一歩踏み出す。一刻も早く、彼女から離れてしまいたかった。
何処に行くでもなく、覚束無い足取りで寝室を後にする。彼女の傍にいると、どうも冷静な思考が働かない。
私は何時、彼女を壊してしまうのだろう。
この純粋で、綺麗な彼女を。
それだけが不安で仕方無かった。
『センチメンタル』
(こんなクリスマス企画もありだと思うんだ)