ありがとう、皆さま
ブログを始めて7年が過ぎました
そしてエムブロに来て4年
よくぞここまで駄文にお付き合いくださいました
長くブログを読んでいただきましたが、ここが満床で転院を余儀なくされたため、イタチの最後っ屁的にキリストについてずっと書きたかったことを書くことにします
画像が載せられないってだけで、文字は多分まだまだいけると思うけれども、引っ越さなきゃいけない気がするφ(..)<お召しできないしな
(してないけどな)
宗教という言葉はなかなか高圧的ですね、だから避けられるのですね
実際、“どんだけ一生懸命修行すれば神に近づけるかレース!”みたいなトコがありますからパッと見
信仰がある人は“善い人”であるべきという無言の重圧をね、無信仰の人から感じます
「クリスチャンなのに…」って言ってもいいってね、皆思ってるよね
しかしキリストの教えはそうではないのですね、誤解されがち
…炎上するかな?
平素の私についてブログを通してご存知の方なら大丈夫な自信はあるけど
(普段の私の思想はウンコに近いからな!)
約2020年前に神様が、マリアの胎内にイエスキリストを授けます
それをマリアに知らせに来た天使が「おめでとう」「よかったね」と祝福します
マリアは結婚を間近に控えた乙女でしたから、もし私がマリアだとしたらまったくもってありがた迷惑な話
てめーつってた
そこをマリアは、持ち前の信心深さでカバーします
旧約聖書の初めのページで、神が万物を6日かけて創造されたという発想が“ツカミ”だとすれば、
神の子を人間の、しかも赤ちゃんの姿で地に存在せしめるという発想が、新約聖書でなされた最大の“オチ”だと思うんです
その後キリストが、人間界では大工と専業主婦の間にうまれた子でありながら自らを神の子であると公表し、神の愛を説き、この世のあらゆる罪がもうとっくの昔に赦されていることを報せて回ります
「よかったね」「おめでとう」と既存の法や取り締まりやウナギイヌをそっちのけにあちこちの人を祝福して回るのです
この発想(´д`;)
神様はすごくあなたがたを愛しているから、その愛が海より深いから、だから人がどんな過ちを犯しても全部赦しちゃうだってさ「おめでとう」そしてイエスが神の愛を解説するたびにいちいちいいこと言うもんだから、4人の弟子たちが聴いていない人たちにも読ませてあげたい一心で一生懸命メモった記録が新約聖書として現在世界のベストセラーになっています
それぞれの目線から見たイエスの姿は、4人ともに文才がないがためにひどく抽象的に描かれており、それが一部の倒錯者によって歪曲して解釈されたりもするのですが、2000年もこの世に受け継がれていることにはやはり一目置かねばならないと思うのです
イエスが物心ついた6歳頃から2014年もの間、毎年数え続けていることが既に信仰なのだと認識せねばならないと思うのです
しかし信仰には責任を伴わない(これが一番言いたいこと)
大好きな人のどこが好きか、うまく説明できないとか
すごい映画を見て心底感動したけど、じゃあレビューしてって言われると小学生の作文以下の仕上がりになっちゃうんだよなとか
神やキリストの偉業はそういう感じでお茶を濁した仕上がりになっちゃったもんだから凡人には難読になり、集中して行間を見つめなきゃならなくなるから、結果ベストセラーでありながら読破する人が少ないのではないでしょうか
だから僭越ながら私が聖書を斜めに熟読してレビューするに、
神の子イエスキリストが馬小屋でおうまれになったその瞬間に、それまでの人たちの罪も、2000年後の私の昨日の妬みも今日の手抜き料理も明日の憎しみも、あなたの嘘もわがままも裏切りも、すべての罪がもう既に赦されているのだということ
天国への門はいつも開かれているということ
「あかんやろ!」と神は怒るのではなくて
「ん。分かっとるんやったらえぇんや」と赦してしまわれる
こんなお人(神)好し、いないぜ?よかったね、天国にタダでご招待だって
というのが「キリストの教え」だと思うのです
信じる信じないとか、理解するしないとか、論じる意味はまったくなくて、信仰とは宗教とは、好きな人がいるとか、面白い映画を観たとか、お気に入りの鉛筆けずりをずっと使ってるとか、そういうことなんです、きっと
2020年も前の聖し夜に、私の罪はすべて赦されて、天国に行ってもいいって約束されたんだ
って思ったら、安心してのびのびと息子娘やアホなテレアポにイヤミもスラスラ言えるってもんです