※個人の意見というか、感想です。気分悪くしたらごめんなさいね。閲覧注意下さいませ。
山口県周南市の14人しかいない集落で5人が殺害された事件。『小説かっ?!』て思うような事件でぞっとしました…。津山事件も思い出しました。
私が今住んでいるとこは都会ではないにしろ、そこそこの住宅地。
それでも自治会はあるし、お付き合いもある。田舎程ではなくても、ご近所付き合いを間違えば住みにくくはなるだろう。
十人十色で『そんな事気にするか?』みたいな事を気にする人はいるし、大人でも、大人気ない行動をする人はいっぱいいるのを私は知っている。
『そんな人、いる?!』って思うような、漫画なんかである『悪人』そのままの人物が世間には普通にいると言う事を、30代初めに思い知った。
それまで私のまわりにいた人がいい人ばっかりだったから、それに気づくのはかなり遅かったが。
前にも呟いたけど、十人十色だから『正義』と『悪』に対する考えが違う人もいるし、Aサイドが『悪』と思う事もBサイドはそうは思わない事もある。
AはBに対して『悪』と思っても、逆にBにしてみたらAが『悪』になることもあるだろう。
見る位置が違えば全く正反対の見方になる事もある。
でも人は皆大抵自分が正しいと思いたいし、また、自分がかわいいのは誰にしたってそうだろう。
仮に
私が死ねば全世界が救われる、と言われても
即決で『それなら仕方ない、死にましょう』とはならないもの。
勿論躊躇するし、『なんで私が?』って思うし。
で、私が死ななければ
どこかしこで私に対しての批判も出るだろう。そら死にたくないわな、仕方ない、と思ってくれる人もいるだろう。
もしかしたら私を殺そうとする人もいるかもしれない。
でもその人は私を殺す事を『悪』とは思ってないだろう。正当化して、それが世界には必要だった、と。
殺人者サイドからすれば自分たちは『正義』だ。
もし私を逃がす人がいるならば、私と逃がす人にとって、殺人者は『悪』だ。
そして、それはいつも流動していて、殺人者を『悪』と思っている人も、大半が殺人者を『正義』と思っているならば、また、その人が得た情報によっては、いつでも殺人者は『正義』に傾く。例え間違った情報だったとしても。
真実がCだったとしても。
Cという情報が皆無でDという情報が蔓延していれば、真実を知らない人は『真実はD』と思うだろう。見た訳でもないのに。
そして真実を知っていても、自分が有利になるならば、嘘の情報を罪悪感もなしに、さらっと言う人もいるのだ。
そして噂好きの人達によって嘘が蔓延し、真実がわからなくなる。
そして味方だと思っていた人もその嘘を信じ、味方ではなくなっていく。その人も更に嘘を広げ、真実がCと信じている人と敵対していく。
じゃあ、情報によって考えが変わった、その味方と思っていた人は『悪』?
どうなのだろうね。
きっと誰でもそうなる可能性はあるのだ。知らないうちにでも。
なんかどーでもいい感じで話が長くなったな。
さて。
周南市集落の事件。
ここ程の田舎ではないが、両親の田舎でもびっくりするような近所つきあいがある(特に冠婚葬祭)。それをしなければ『あそこの
さんは…』てな具合で噂され、また、『なんでそこまで知ってるねん』って言うような情報まで近所中に知れわたっている。
(まぁ、普段そこまでするから困った時は助けてくれる、と言うのもあるが)
事件のあった集落は14人しかいなかった、って言うから、私なんかには想像つかないような悪い意味での田舎らしさもあったに違いない。
また、人が少ないから片寄った考え方の人もいるだろうし、外に出たことなければ排他的な考えの人もいただろう。
只でさえみんなお年寄りだしね。
真実はどうかはわからないが、集落の中でも若手だったと思われる今行方不明の64歳の男性は、付き合いがうまく行かず、村八分のような状態だったのではないだろうか。
両親の元に川崎市から帰ってきたのは歳をとった両親の面倒を見る為だろうか。
両親がいなくなってから集落で不和があったようだが、ネットでの意見の中に『なぜ自分を追い詰める前に集落を出なかったのか』って声があったけど、どうだろう。
少なくとも彼の故郷であり、思い出もある土地。
そして、両親のために川崎から帰ってこよう、と思う程親孝行だったのなら、両親の、先祖の墓もある土地を、簡単に捨てるだろうか?
残るか、捨てるか、
そんな葛藤を長くするうち、だんだん精神的に追い詰められて正常な判断ができなくなったのではないだろうか。また、親身になって『あなたの為に出ていった方がいい』と相談・助言してくれる相手がいればよかったが、そういう相手もいなかったのではないだろうか。
彼の家の趣味の悪いオブジェや貼り紙も、精神的に追い詰められたからかもしれない。
誰も助けてくれない。
自分や両親にとってかけがえのない故郷での村八分は、どんなに辛いものなのでしょうね。
行方不明の男性が犯人かどうかはわからない。
犯人だったとして、猟奇的な殺人を擁護するつもりもない。この事件は陰惨すぎる酷い事件だ。
でも
真実を語る人はいないだろう。
誰かが語ったとして、どれが真実とわかるだろう。
村八分をしていたならば、していた側の人物は自分に不利な発言はしないだろうし、行方不明の男性が犯人でなかったとしても、いない事をいいことにその男性に罪をきせる事だってできる。
(もちろんそのまま、行方不明の男性がそんな事実はないのに『村八分された』との妄想をもっていた変な人だった、てのもあり得るが)
真実を知らない人に、事件に関わった全ての人が嘘を言えばそれは『もっともらしい嘘の真実』になるのでは?(証拠があれば別だが。まぁ、証拠も捏造される事もあるけど)
更にTVや新聞・週刊誌などで『もっともらしい嘘の真実』を広げれば、大半がそれを信じ、知らない内に自分も加害者側になるのでは?
結局、部外者には真実が何かなんてわからない。裁判したって冤罪もあるんだから。
あ、この事件でこれも思い出したよ。
うちの両親の田舎の近くで未解決事件があって、昔TVで事件の特集してたんだけど、土地柄もあって情報収集がかなり難航したらしい。
聞き込みに行っても皆が事件の話をしたがらない。皆が口をつぐむらしい。
自分が関与していなくても『あの人が怪しい』と思っていても。
田舎ならではの結束力なのか、近所の事を話せば村八分にされるのか、なんせ近所の事を話せない雰囲気があったのではなかろうか。
そんな事を考えた事件でした。