「……此処は、どこだ?」
小さく呟いて、周囲に視線を巡らせる。
アメジスト色の瞳に映るのは、生い茂る木々。
ざわざわと吹き抜ける風が木々を揺らす音が響く。
此処は、城の傍の森の中か。
……何故、こんな所に?
一瞬、記憶が混乱する。
「シスト?」
怪訝そうな声で呼ばれて、騎士……シストははっとした。
自分を呼んだのは、他でもない自身の相棒。
視線を向ければ、声の通りの表情をして首を傾げる彼が居た。
「どうかしたか」
冷静な声で問いかけるサファイアの瞳の少年騎士。
それを聞いてシストは小さく首を振った。
「ごめん、フィア。少しぼうっとしてた」
苦笑混じりにそう言えば、彼は少し呆れたように溜息を吐き出す。
しっかりしろよ、と苦笑を漏らした彼は肩を竦めて……すっと視線を上げた。
彼の視線の先。
そこにいるのは、大型の魔獣。
鋭い牙と爪を持つ、真白の狼。
自分たちが所属する部隊の名のような魔獣は、低く唸り、自分を狩りに来た騎士たちへの敵意を剥き出しにした。
―― そうだ。
今は、任務中だ。
この獣を、相棒と一緒に狩りに来たのだ。
そう思い出し、シストは剣を抜く。
木漏れ日を反射して、白銀が輝いた。
「行くぞ!」
凛と響くフィアの声。
それと同時、彼は強く地面を蹴って魔獣に斬りかかった。
氷属性の魔力を乗せた斬撃は狙いを過たず獣へ向かう。
しかし大型の獣であるというのに真白の狼はひらりと軽く宙を舞い、それを躱した。
「ち……ッ」
最初の一撃が相手を仕留める一番の好機であることはフィアもシストも理解している。
それを外したフィアは苛立ち、舌打ちをしたようだった。
「大丈夫だ、焦るな」
声をかけ、シストは魔力を獣へ向ける。
攻撃というには弱い、細かい氷柱をいくつも打ち込むような魔術。
分厚い毛皮を持つ獣にとっては、針が刺した程度の刺激しかないことだろう。
しかしそれで十分だとシストは思った。
思惑通り、獣の意識が自分の方へ向く。
煩わしい攻撃の出所へと、獣は飛び掛かってきた。
そうすれば、必然獣はフィアに背を向ける形になる。
シストにしか意識が向いていない今こそ、好機だ。
「行け、フィア!」
そう叫ぶ。
きっと、叫ばずとも彼は自分の意図を汲んでくれただろうけれど。
獣の背後から、強く地面を蹴ったフィアの剣が迫る。
強い魔力を乗せたそれは、確かに獣の首筋を狙って……――
ばちり、と魔力が爆ぜる音がした。
それと同時、シストを見つめる獣が嗤ったような気がした。
フィアの剣は、獣の魔力で弾かれた。
すっかり頭から抜け落ちていた。
……数は多くないとはいえ、魔力を操る獣が居ることを。
人間と同等に頭の良い獣が魔力を持てば酷く厄介であることを。
獣の牙が、爪が、迫る。
"かつての記憶"が重なって、身が竦むのをシストは感じた。
戦いの場では、その一瞬が命取りになることはわかりきっていた。
それでも、体を動かすことはできなくて。
逃げられない。
躱せない。
血の気が引くのを感じた、その刹那。
強く、優しい魔力が自分を包むのを感じた。
痛みを覚悟したのに、その瞬間は一向に訪れない。
どうして、と思って目を開けたその瞬間、シストはその理由を理解した。
シストが転がっていたのは、先刻までフィアが居たところ。
転移の魔術を使ったのだと、理解した。
……その魔術を使ったのは、他でもない、相棒で。
つまり……獣の目の前に転移したのは?
ぱたぱたと、紅が地面に散る。
どさりと、地面に重たいものが転がる音が響く。
真白の制服を紅に染め、地面に転がる相棒はぴくりとも動かない。
獣は獲物にとどめを刺そうと歩み寄った。
「っ、……ぁああッ!」
悲鳴に近い叫びをあげて、シストは無防備な獣に斬りかかる。
せめて自分の方へ獣の意識が向けばと放った斬撃は、弾かれることなく獣の首を切り裂いた。
地面に獣が頽れる。
その下敷きになることは辛うじてなかった相棒に、歩み寄る。
足がもつれて転びそうになるのを必死に堪えて。
「フィア!」
叫ぶように名を呼べば、倒れた彼は薄く目を開けた。
サファイアの瞳がゆるりと揺れる。
「っ、ぁあ、……聞こえて、る」
掠れた声で、彼は呟く。
ひゅ、と小さく息が漏れる音が響いた。
「シスト、怪我、は……」
シストの方へ顔を向けてはいるが、恐らく見えてはいないのだろう。
問いかける声は酷く弱弱しい。
「ない、ないよ……くそ!」
声を上げ、シストは倒れたフィアの体を抱き上げようとする。
しかし震える腕で抱き上げることはできなくて。
くそ、と呟くシストの方を見てフィアは口角を上げた。
「ばか、なくな、お前の所為じゃ、ない」
掠れた声で彼は言う。
シストは緩く首を振りながら言った。
「だ、って……俺が、余計なことをしなければ……っ」
「俺だって、気づいていなかった、んだから」
あぁでも。
「お前に、怪我がなくて……よかった」
ふ、と優しく微笑んで彼は一つ息を吐き出した。
それを最後に、彼はもう息をしなかった。
「フィア、フィア?おい、嘘だろ……ッ」
嘘であるはずがないと嫌でもわかる。
急速に熱が消えていくこの感覚は、嫌でも覚えている。
かつての相棒の最期と、同じなのだから。
もう二度と、こんなことは起こさないと誓ったのに。
また、また自分は、自分の所為で大切な仲間を……――
泣き叫んでも、必死に名を呼んでも、何も変わりはしない。
起きてしまったことは消せない。
わかっていても、もう立ち上がることなどできないと、そう思った。
いっそこのまま死んでしまいたいとさえ思った。
仲間を、相棒を死なせてばかりの騎士など、騎士団に居る方が皆の迷惑だと。
……何より、自分自身を許すことが出来ない。
こんな、情けない自分を。
立ち上がれない。
立ち上がれるはずがない。
そう思った、その刹那。
―― あぁ、こんなことだろうと思った。
空から響いたのは、聞き慣れた、"もう二度と聞こえないと思った"声。
何故、と思い顔を上げればそこには、先刻獣に殺されたはずの騎士……フィアの姿があって。
「シスト!」
「な……」
どういうことかと混乱し、固まるシスト。
それを見て、フィアは顔を歪める。
「説明は後だ、迷うな」
「これはタチの悪い夢なんだから大丈夫だ、すぐに覚める」
フィアの声に重なって、ルカの声が聞こえる。
それと同時に、ふわりと意識が浮上するのを感じた。
***
はっと、目を開ける。
幾度も瞬くアメジストの瞳には、心配そうに自分を覗き込む上官と相棒の姿があった。
浅く、荒く、息を吐く。
「シスト」
名を呼び、シストの額の汗を拭うフィアの手は暖かい。
否、氷属性魔術使いである彼の手はややひんやりとしているのだが……
それでも、あの命のない体温ではない。
そのことに酷く安堵した。
そして、思い出す。
自分は、ルカやフィアと一緒に任務に赴いていた。
けれど倒す対象は、狼型の魔獣などではなかった。
大型の鳥で、強い魔力を持つ種族であると聞いていた。
それを討伐している途中、何らかの理由があって意識を失って……
「な、んだった、んだ、あれは」
酷い悪夢だった。
悪夢とは思えない程現実的な、悪夢だった。
シストがそう呟くのを聞いて、フィアは小さく首を振った。
「そういう魔術空間、だったとしかわからないな。
情報を持ち帰って水兎の面々に分析してもらうしかない」
フィアが言うには、彼もまた同じような悪夢を見ていたらしい。
思い出したくもないのか詳細を話してはくれなかったが、その表情を見るに自分と同じように酷いものだったようだとシストは思う。
「結局あの魔獣も逃がしちまったしな。また対策立ててくるしかないな。
一応全員無事な訳だし、良かった良かった」
そう言って肩を竦めるルカもまた同じように夢を見ていたようなのだが、平然としている。
フィアが言うには、その悪夢に囚われていた時、ルカの声で目を覚ましたのだそうだ。
魔力を持たないルカが一番最初に目覚めた理由というのが気になったが、頭がろくに回らない。
立ち上がったものの酷くふらついている彼を見て、ルカは苦笑を漏らした。
「若干無事ではないみたいだな、大丈夫か?」
「負ぶって帰ろうか、シスト。お前くらいなら全然平気だが」
半ば冗談めかして、半ば本気っぽくフィアは言う。
それを聞いてシストは苦笑混じりに首を振った。
「それは、勘弁してくれ」
流石に情けないから。
……そう呟いた彼の頬を、一筋涙が伝い落ちていったのを、フィアは見えないふりをした。
―― 酷く現実的な… ――
(あれは、恐ろしい悪夢だった。
……絶対に夢だと言い切ることが出来ない、酷く恐ろしい悪夢)
(もう二度と立ち直れないと、心の底から思った。
だからこそ…当たり前のように彼奴と会話ができたとき、涙があふれて止まらなかったんだ)